「お前の予言は当たらない」そうですか。では【明日正午、王都が沈む予言】だけ残して去ります
「十八年間で四十七件! それだけ警告を出して、予言された惨事が実際に起きた回数は零だ! セレスティア、お前の予言は当たらない!」
若き国王クラウスが査定表を掲げると、王宮前広場に集まった人々から笑いが漏れた。即位から半年、彼が始めた公開《王国事業仕分け》は評判がよく、その日の最後の査定対象として壇上に立たされているのが、王国唯一の《星詠み》セレスティア・アルノーだった。
《災厄警告 四十七件》
《予言された重大被害の発生 零件》
《的中率 〇%》
「三年前、《西区より赤熱病が広がり、千を超える者が死ぬ》と告げたな。死者は何人だった?」
「一人もおりません。私が示した共同井戸から病毒が見つかり、医務院が封鎖しましたので」
「またそれか! 病毒を見つけたのは医師だろう!」
クラウスは次の資料を乱暴にめくった。
「二年前、《満月の夜、黒牙狼が北門を破り、市街で人を食う》。実際には騎士団が群れを追い払った! 昨年、《先王が白鷺橋で毒矢に倒れる》。暗殺者を捕らえたのは近衛だ! 医師が病を止め、騎士が魔獣を止め、近衛が父上を守った! なのに、なぜそれがそなたの実績になる!?」
「いずれも、私の占いで場所と時刻を――」
「では、そなた自身は何をした!?」
広場の笑いが大きくなった。
壇上の端で、エドガー・ハウゼンだけは笑っていなかった。先王時代に宰相を務めた彼は、クラウスの即位後、《組織の若返り》を理由に王都防災局長へ回されている。
「陛下。その数字の読み方は――」
「エドガー! 今は予言官の査定中だ。お前には、防災局を前年より少ない予算で回すという仕事があるだろう!」
エドガーは口を閉じた。セレスティアも彼へ小さく首を振り、これ以上は言わないでほしいと伝える。
クラウスは赤い判を取り上げた。
「十八年間で四十七件、惨事は零! 成果の確認できない部署を、前例だけで残す必要はない。王宮予言官は本日をもって廃止する。セレスティア・アルノー、そなたも解任だ!」
《廃止》
査定表へ判が押され、広場から拍手が上がった。
セレスティアは十八年間つけていた王宮予言官の徽章を外した。しばらくそれを掌に載せていたが、返す前にクラウスへ頭を下げる。
「陛下。解任前の最後の職務として、一度だけ王宮水晶を使わせてくださいませ。三か月前から続く水の凶兆が、今朝から急激に変化しております」
「好きにしろ! どうせ最後まで外れるのだろうがな」
クラウスはそこで査定を終えようとしたが、ふと足を止めた。
「……いや、余も見届けてやろう。財務卿、お前も来い。十八年間外し続けた予言官が、最後に何を言い残すのか見ものだ」
財務卿と数人の側近が面白そうに立ち上がり、エドガーも黙って後へ続いた。セレスティアは彼らを伴って王宮へ戻り、十八年間使ってきた占星室の扉を開いた。
◇
占星室の中央には、人の背丈を超える巨大な水晶が据えられていた。
《星詠み》は、未来を好きなように覗ける力ではない。水晶に現れる枯れた麦、濁った川、血に染まった衣服、崩れた家といった断片から、「このまま進めば起こる惨事」を読み解き、現実の情報と照らして原因を探る。それがセレスティアの仕事だった。
三か月前から、何度占っても水が現れている。
最初は水面へ落ちる白い花だけだった。一か月前には、王宮の鐘楼らしき影が水の中に見えるようになったため、セレスティアは古代水脈の再調査や改修再開を繰り返し求めてきた。それでも、いつ起こるのかまでは分からなかった。
セレスティアが水晶へ両手を添える。
白い靄の中に、王都が浮かび上がった。
「……そんな」
クラウスたちの前で、初めてセレスティアの声が震えた。
王宮の屋根は見えなかった。水面から鐘楼の先だけが突き出し、その鐘が重い音を響かせている。十二度目の鐘が鳴った瞬間、鐘楼そのものが水へ沈み、そのさらに下へ王冠がゆっくり落ちていった。
水晶に亀裂が走る。
《明日正午》
黒い文字が浮かび、続いてもう一行が刻まれた。
《王都、水底へ沈む》
誰も笑わなかった。
財務卿は青ざめ、エドガーは険しい顔で水晶を見つめている。クラウスも一瞬だけ口を閉ざしたが、周囲の視線に気づいたように表情を取り繕った。
「……はっ! 最後の最後で何を言い出すかと思えば、王都が沈む!? そんな馬鹿な話があるか!」
「陛下。明日の祭典を中止してください。今夜から住民の避難準備を始め、地下水脈の観測も最大体制へ移す必要があります」
「明日は余の即位半年を祝う祭典だぞ! 地方から商人も客も集まり、宿も市場も満員だ。その前夜に王都が沈むなどと発表して、何も起きなかった時の損害を誰が払う!?」
「何も起きなければ、それでよいのです」
「またそれか!!」
クラウスが査定表を水晶台へ叩きつけた。
「危険だと言って人と金を動かす! 何も起きなければ『対策したから防げた』と言う! それでは永遠に、自分が間違ったと認めなくて済むだろう!」
エドガーが一歩前へ出る。
「陛下。せめて祭典を延期し、避難準備だけでも始めてください。外れたのであれば、明日帰宅させれば済みます」
「何万人もの商売を止めておいて、外れたら帰れば済む!? そのような無責任な支出を改めるために、余は改革をしているのだ!」
クラウスは査定表の《〇%》を指で叩いた。
「余は感情ではなく数字で判断している! 最後の一回だけ信じろと言われても、国家は占いだけでは動かせん!」
セレスティアはクラウスを見つめた。
十八年間、予言が出るたびに先王と何度も交わしたやり取りを、目の前の男とは一度もできなかった。
「……承知いたしました」
静かに答え、王宮予言官の徽章を査定表の上へ置く。
「これを最後の予言として、王宮へ残してまいります」
「どうせまた外れる!」
セレスティアは一度だけ振り返った。
「はい。これまでは、外してまいりましたから」
◇
クラウスが即位した時、最も支持された言葉は《城壁から民へ》だった。
先王時代に膨らんだ公共事業や維持管理費を削り、その金を子育て世帯への給付や税負担の軽減へ回す。王太子だった頃から「王宮には無駄が山ほど眠っている」と訴えてきたクラウスは、即位すると予算の使い道を民衆の前で裁く《王国事業仕分け》を始めた。
「王都災害備蓄庫。昨年度、備蓄食料を放出した回数は?」
「大規模災害がございませんでしたので零回です。ただ、備蓄は必要になってからでは――」
「零回なら過剰だ! 来年度から半分でよい!」
避難用馬車も同じだった。昨年度の災害出動が零回だと聞けば、「一度も使っていない物を新品にする必要がどこにある」と更新費を止め、防災局の欠員補充も認めなかった。
浮いた金が、すべてクラウスの贅沢へ消えたわけではない。
子供のいる家庭へ金貨が配られ、いくつかの税も軽くなった。目の前で恩恵を感じられる政策は人気があり、毎月発表される《削減実績》が膨らむほど、クラウスは古い政治を変える改革者として支持を高めていった。
最大の見直し対象となったのが、王都地下にある古代水脈封印だった。
地下深くには巨大な水脈が走り、八百年前の魔術によって流れを押さえ込まれている。大崩壊を起こした記録はなかったが、王立技術院は封印石の老朽化を報告しており、先王アルフレッドは今年から全面改修を始めることを決めていた。
即位直後、計画書を読んだクラウスは、最初に見積額を指した。
「八百年間、一度も大崩壊していない物を、数年かけて全面改修するのか!? しかも、この金額で?」
「内部の劣化は確実に進んでおります。先王陛下も、事故が起こる前に交換すべきだと――」
「先王が決めたから続ける、では改革にならん! 緊急性が証明できない以上、着工は見送る!」
浮いた予算は給付へ回され、民衆は喜んだ。
三か月後、セレスティアの占いに水の凶兆が現れた。
彼女はエドガーと再調査を求めた。簡易検査では封印石の一部に亀裂が見つかったが、王立技術院は「老朽化は認められるものの、現在の数値だけで直ちに崩壊するとまでは言えない」と報告した。
クラウスは、その一文だけを根拠に本格調査を見送った。
「つまり緊急性は証明できなかったのだろう!? 危険かもしれないと言われるたびに大工事を始めていたら、いくら金があっても足りん!」
一か月前には凶兆がさらに強まり、セレスティアは改修再開を求めた。三週間前には万一に備え、地下水圧を王都外へ逃がす緊急排水路まで提案したが、市街地の一部を長期間閉鎖する必要があり、費用対効果に見合わないとして却下された。
そのたびにクラウスは同じ言葉を繰り返した。
「まだ何も起きていないではないか!」
そして今日、初めて《明日正午》まで見えた。
王都そのものを救う工事を始められる期限は、すでに過ぎていた。
◇
王宮を出たセレスティアは、自宅へ荷物を取りに戻らなかった。
防災局へ着く頃には、占星室から先に出たエドガーがすでに職員を集めていた。執務室には空席が目立ち、クラウスから「古参のお前なら、古い組織の無駄くらい分かるだろう。前年より少ない予算で回してみせろ」と命じられたエドガーは、人員を削られながらも警報網、避難路、最低限の備蓄、教会との連絡体制だけは守っている。
セレスティアが入ると、エドガーは職員たちへの指示を止めた。
「王都は、本当に救えませんか」
「もう無理です。全面改修はもちろん、緊急排水路も間に合いません。ただ、正午までなら人を逃がす時間はあります」
エドガーは一度だけ目を閉じた。
「では、民は?」
「まだ救えます」
エドガーはすぐに頷いた。
「なら、そちらを救いましょう」
その言葉を聞いた時、セレスティアは昔のことを思い出した。
◇
先王アルフレッドが亡くなる一か月ほど前、セレスティアとエドガーは病床の王へ呼ばれた。
寝台脇の机には、王太子クラウスが提出した《防災関連予算削減案》が置かれている。昨年大災害がなかったため、防災局の人員を三割減らせるという内容で、アルフレッドは呆れたように書類を振った。
「見ろ。去年災害がなかったから、防災局の人員を減らせるそうだ。何も起きなかったのは、防災局が要らない証拠ではないと説明したのだがな」
「殿下は、目に見える成果を重視されますから」
「セレスティア。それは褒めているのか?」
「言葉を選んでおります」
エドガーが笑い、アルフレッドも咳をしながら笑った。
呼吸が落ち着くと、アルフレッドは机の書類を閉じた。
「クラウスの考え方そのものが悪いとは思っておらん。無駄を減らし、民へ直接金を回したいというのも分かる。王になって責任を負えば、見えてくるものもあるだろう」
それからセレスティアへ目を向ける。
「ただ、あれは昔からお前の仕事を理解していない。『当たらない占い師に、なぜあれほど金を使う』と何度も言っていた。余が死ねば、お前と衝突するかもしれんな」
「……否定はいたしません」
「そこは少しくらい否定してくれてもよかろう。余の息子だぞ」
「陛下の方が、殿下をよくご存じでしょう」
アルフレッドは苦笑し、寝台脇に置かれた王冠を眺めた。
「もし王宮が、お前の警告を聞かなくなった時は、王宮そのものを守ることに固執するな」
「では、何を守ればよろしいでしょうか」
「民だ。城は建て直せる。財宝もまた集めればいい。王家ですら、最悪なくなっても国は残る。だが死んだ民は戻らん」
エドガーが「国王陛下が王家などなくなってもよいと仰るのは、いささか問題がございますな」と苦笑すると、アルフレッドは肩をすくめた。
「王家を守るために民を捨てるよりはましだ。それに、予言とは最初からそういうものだったはずだろう」
先王は、十歳の頃から知っているセレスティアへ笑いかけた。
「悪い未来が見えたなら、皆で外せばいい」
その一か月後、アルフレッドは病で亡くなった。
セレスティアの占いに、その死は現れなかった。《星詠み》が読み取るのは街や国を襲う災厄の兆しであり、一人の人間の寿命まで知ることはできない。
だからこそ、あの日の言葉は本当の遺言になった。
◇
「先王陛下との約束を果たす時が来ましたな」
エドガーの声で、セレスティアは現在へ戻った。
王都には先王時代から《災害緊急規定》がある。予言だけを理由に何万人もの住民へ強制避難を命じることはできないが、地下水圧の急上昇、封印石の新規破損、井戸の逆流など、異なる三種類の危険兆候が確認されれば、防災局長は王の追加判断を待たず警報を出せる。
エドガーは残っている技師を地下観測所へ集め、休暇中の職員にも使いを出した。セレスティアは教会と騎士団を回り、警報が出た瞬間に備蓄を開き、避難誘導へ移れるよう準備を頼んでいく。
王宮にも報告書を送った。
「聞いてくださいますかな」
「聞いていただけるかどうかと、こちらが伝えるべきことを伝えるかは別です」
エドガーは少し笑った。
「先王陛下なら、今の言葉を気に入ったでしょうな」
日が沈んでも、最初の観測値には大きな変化がなかった。
セレスティアは地下観測所で報告を待ちながら、何度も同じことを願った。
どうか、外れて。
明日の朝、最後まで大げさな女だったと笑われても構わない。王宮を追い出された腹いせに民を騒がせたと罵られてもいい。
王都さえ沈まなければ、それでよかった。
夜が深くなった頃、若い技師が階段を駆け上がってきた。
「エドガー様! 第三区画の水圧が急上昇しています。平常値を三割超え、なお上昇中です! 第五区画でも同じ傾向が出ています!」
エドガーはすぐに全区画の再測定を命じた。ほどなく別の技師も現れ、西側封印石に昨日までなかった亀裂を確認したと報告する。
二条件。
まだ避難警報を出すには足りない。
セレスティアは何も言わなかった。自分が明日を見たからという理由だけで規則を曲げれば、この仕組みそのものへの信頼を壊す。予言は盲目的に信じるためではなく、調べ、確かめ、備えるために使う。それが十八年間続けてきたやり方だった。
さらに一刻ほど経った頃、衛兵が飛び込んできた。
「西区の共同井戸が逆流しています! 水が地面から押し上がり、周囲の道へ溢れ始めました!」
エドガーは机の上の規定書を閉じた。
「三条件成立です。王都全域へ避難警報を発令してください。教会の備蓄を開放し、老人と子供を優先して高台へ。避難馬車は動くものをすべて出し、騎士団には地区ごとの誘導を始めさせます」
職員たちが一斉に走り出す。
エドガーは空席の目立つ執務室を眺めた。
「あと一年、削減が進んでいたら、こうはいきませんでしたな。先王陛下が残したものを、食い潰される寸前でした」
セレスティアは頷いた。
「なら、残っているものを全部使いましょう。備蓄も馬車も、使われないまま削られるより本望でしょう」
「これで来年の査定には《使用実績あり》と書けますな」
セレスティアは思わず笑った。
「……笑えない冗談ですね」
「まったくです」
◇
夜の王都に、避難を告げる鐘が鳴り響いた。
教会の扉が開き、備蓄が運び出される。騎士たちは担当地区へ走り、商人組合も荷馬車を出した。長く実戦で使われなかった仕組みだったが、先王時代に何度も行った訓練のおかげで、人々は鐘の意味と向かうべき高台を知っている。
南区では、セレスティアも住民の誘導に加わった。
「予言官様、本当に王都が沈むんですかい?」
杖をついた女性に尋ねられ、セレスティアは彼女の荷物を受け取った。
「分かりません。私に見えたのは、そうなる未来です。でも、ここに残って当たるのを待つ必要はありません。何も起きなかったら、明日みんなで『大げさだったね』と笑って帰りましょう」
女性は少し考えたあと、頷いた。
「逃げて損しても一晩だけだけど、逃げなくて損したら命だからね」
「はい。その計算なら、私も自信があります」
二人は馬車へ向かった。
その頃、王宮ではクラウスが怒鳴っていた。
「誰の許可で王都全域へ避難命令を出した!!」
報告に来た役人が青い顔で頭を下げる。
「エドガー防災局長でございます。地下水圧の異常上昇、封印石の破損、井戸の逆流が確認され、先王陛下制定の災害緊急規定に基づいて――」
「余は承認していないぞ! 祭典前夜に王都を空にして、何も起きなかったら誰が責任を取る!?」
「規定上は、防災局長の権限で発令できます」
「規定の話をしているんじゃない! 政治的な責任の話をしているんだ!!」
役人が返事に詰まったところへ、王立技術院の官吏が駆け込んできた。
「陛下! 第二封印にも新たな亀裂を確認しました! 地下水圧は観測開始以来の最高値を超えています。このまま上昇すれば、大規模崩壊の恐れが!」
クラウスの顔から怒りが消えた。
「……何だと?」
「封印全体の状態を再確認しておりますが――」
「昼間はそんな話をしていなかったではないか! なぜ今まで見つけられなかった!? お前たちは専門家だろう!」
「三か月前から老朽化についてはご報告しております。セレスティア殿から本格調査の要請も――」
「余は占いの話をしているんじゃない!! お前たちが技術的に、今日崩れると判断できていたのかと聞いている!」
官吏は唇を噛んだ。
「……当時の観測値から、日時までは特定できませんでした」
クラウスは息を吐いた。
「なら余の判断だけが間違っていたわけではないだろう! とにかく直せ! 金はいくらかかっても構わん。魔術師も技師も全員投入しろ!」
「今の水圧では無理です。工事開始に必要な排水と掘削だけでも数週間を要します」
「ならセレスティアを呼べ! あの女なら何か知っているだろう!」
財務卿が恐る恐る答えた。
「セレスティア殿は、本日陛下が解任されました。現在は南区で避難誘導をされております」
「なら解任を撤回する! すぐ連れ戻せ!」
「ご本人がお戻りになるかどうかは……」
「王が必要だと言っているんだぞ!? 条件が不満なら俸給を上げればいい!」
誰も答えなかった。
窓の外では、避難鐘が鳴り続けている。
クラウスは苛立たしげに舌打ちした。
「避難は……もういい、続けさせろ。ただし記録には残せ。余が予言を認めたからではない! 技術院から正式な異常報告が出たため、政府として避難継続を判断した。いいな!?」
財務卿は慌てて頷いた。
◇
夜明けには、予言を信じていなかった者たちも自分から王都を離れ始めた。
各地の井戸から水が溢れ、地下室へ濁った水が染み出している。石畳の隙間からも水が噴き始め、王立技術院は正式に《古代水脈封印の大規模崩壊が迫っている》と発表した。
それでも避難は進んだ。
備蓄の一部はすでに削られ、避難馬車には更新を止められた古い車両も混じっている。それでも先王時代の避難路と警報網、エドガーが最後まで守った人員が機能し、昼前には王都の大半から住民が退避していた。
高台で最後の地区報告を受けていたセレスティアのもとへ、クラウスが騎士を連れて現れた。
「セレスティア! 今からでも何かできることを考えろ! 必要な予算は出す。魔術師でも技師でも好きなだけ使え!」
セレスティアは静かに首を横へ振った。
「全面改修を安全に始められる期限は、もう過ぎております。今の水圧で封印へ手を入れれば、かえって崩壊を早めかねません」
「なら水を外へ逃がせ! 川でも堀でも、方法はいくらでもあるだろう!」
「そのための緊急排水路案を、三週間前に提出しております。市街地を閉鎖する必要があり、費用も大きいとして却下されました」
クラウスの顔が歪む。
「だが、その時には《明日沈む》とは言わなかったではないか! そこまで危険だと分かっていたなら、余が納得するまで説明するのが専門家の責任だろう!?」
セレスティアは唇を噛んだ。
それでも、最初はいつものように静かに答えようとした。
「三か月前から、水の凶兆が強くなっていることは――」
「だから! それでは具体性が足りなかったと言っているんだ!」
「申し上げました!」
セレスティアの声が、高台に響いた。
クラウスが黙る。
セレスティア自身も一瞬驚いたように目を見開いたが、そのままクラウスを見返した。
「……三か月間、何度も申し上げました。再調査を。本格改修を。せめて排水路だけでも、と。日時までは分からなくても、手遅れになる前に備えてくださいと、何度も!」
エドガーが彼女の隣へ立った。
「私もすべて同席しております。全面改修の再開、本格再調査、緊急排水路。必要な提案は、すべて陛下へ提出しました」
クラウスは顔を赤くした。
「だが技術院も《直ちに崩壊するとは言えない》と報告しただろう! 余はその時点の情報に基づいて合理的に判断しただけだ! 結果を知った後からなら、誰でも間違いだったと言える!」
「それに、そもそも!」
クラウスはセレスティアを指さした。
「そなたの予言は十八年間で四十七回すべて外れていた! 今回だけ突然信じろと言われて、国を全部止められるわけがないだろう!」
エドガーが静かに尋ねた。
「陛下。まだ、その数字をお使いになりますか」
「事実だ! 四十七件中、予言された惨事は零だろう!」
「はい。惨事は零でした」
クラウスが勝ち誇ったように口を開こうとする。
エドガーはその前に続けた。
「赤熱病の病毒はございました。黒牙狼も予言された夜に北門へ来ました。白鷺橋には毒矢を持った暗殺者がおりました。十二年前、《南区で百人が瓦礫の下に死ぬ》と警告された時には、本当に大地震も起きております」
クラウスの表情が止まる。
「地震は起きたのか?」
「はい。ただし予言を受けて危険な住宅から住民を退去させ、補強したため、百人の死者は零人になりました」
エドガーはクラウスから目を逸らさない。
「十八年間、四十七件。そのすべてで、警告された惨事につながる危険が実際に確認されております。地震を止めたのではありません。大雨を止めたのでも、魔獣を消したのでもない。危険を知ったから人を逃がし、井戸を閉じ、兵を置き、道を塞いだのです」
「結果論だ!」
クラウスは叫んだ。
「対策したから助かったと言えば、何でも予言が正しかったことにできるではないか!」
エドガーは首を横へ振った。
「四十七回すべて、警告された場所に危険がございました。それを結果論と呼ばれるのでしたら、私から申し上げることはございません」
「なら、最初からそう説明すればよかっただろう! 余にも分かる資料を作るところまでがお前たちの仕事だ!」
「公開査定で申し上げようといたしました」
エドガーの声は静かだった。
「陛下が、『今は予言官の査定中だ』と止められましたので」
クラウスは口を開きかけ、閉じた。
それでも謝らなかった。
「……いずれにせよ、今は責任論をしている時ではない! 王都を救う手段について、検討を加速させるべきだ!」
エドガーが眼下へ目を向けた。
すでに王都の大通りから、何本もの水柱が上がっている。
「陛下。もう沈み始めております」
クラウスは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……だからこそだ! 復興まで含めて検討を加速させろ!」
エドガーはもう何も答えなかった。
◇
正午が近づくにつれ、大地の震えが高台にまで伝わってきた。
王都中央の噴水から巨大な水柱が上がり、市場を横切る石畳には長い亀裂が走っている。高台へ逃れた人々は、自分たちの家や店が並ぶ街から目を離せなかった。
やがて、王宮の鐘が正午を告げ始める。
最後の鐘が鳴り終わる直前、大地の奥から轟音が響いた。
王都中央が沈んだ。
地下に押し込められていた巨大な水脈が噴き上がり、広場を呑み、市場へ濁流が流れ込む。何百年も並んでいた家々が傾き、商店が水へ消え、白亜の王宮を囲む城壁にも巨大な亀裂が走った。
セレスティアは笑わなかった。
「……外したかった」
誰にも聞かせるつもりのない声が漏れた。
命は助かっても、失うものは多い。生まれ育った家を失う者がいる。何代も続いた店を失う者もいる。家族との思い出も、一生かけて築いた財産も、水に沈めば簡単には戻らない。
それでも、人々は生きていた。
子供を抱く母親がいる。泣き崩れた者の背を支える隣人がいる。エドガーが守り続けた備蓄から毛布を受け取り、その毛布をさらに幼い子供へ掛ける者もいた。
最後まで水面に残ったのは、王宮の鐘楼だった。
セレスティアは、その姿を昨日の水晶で見ている。
鐘楼がゆっくりと傾き、水中へ消えた。
十八年間で初めて、セレスティアが予言した最悪の結末は、そのまま現実になった。
◇
翌朝、クラウスは避難民の前に立っていた。
王冠も礼装も水の底へ沈んだため借り物の外套をまとっていたが、その声には昨日までと同じ力が戻っている。
「今回の災害は、当時得られていた技術的知見からは予測困難な、想定を大きく超える事態であった!」
少し離れた場所で、セレスティアとエドガーが演説を聞いていた。
「しかし我が政権は、異常確認後ただちに避難体制へ移行し、多くの民の命を守ることに成功した! 今は過去の判断について責任を争う時ではない。再発防止策の検討を加速させるとともに、スピード感を持って復興へ取り組んでいく!」
まばらな拍手が起きた。
近くにいた男が「王様が早く逃がしてくれたから助かったのか」と呟くと、昨日セレスティアと話した女性がすぐに首を振った。
「違うよ。夜中に走り回ってたのは防災局と予言官様たちだ。王様は最初、避難するなって怒ってたじゃないか」
周囲からも、「そうだった」「警報を出したのはエドガー様だ」と声が上がった。
エドガーは小さく息を吐いた。
「成果の集計だけは、相変わらずお早いことで」
セレスティアは返事をしなかった。
その日の午後、クラウスは彼女を仮設の王幕へ呼び出した。
机にはすでに《王都復興計画》と書かれた書類が積み上がり、財務卿や側近たちが並んでいる。
「今回の件を踏まえ、予言官制度は再評価することにした! 名称も《国家危機予測官》へ改め、予算も大幅に増やす。セレスティア、そなたをその責任者へ任命する!」
謝罪ではなかった。
昨日とは違う結果が出たので、査定結果を変更する。それだけのことだと、クラウスは本気で思っているらしい。
セレスティアは首を横へ振った。
「お断りいたします」
「なぜだ!? 今回はそなたの能力が有用だと分かった! 俸給も以前の倍を出す!」
「金額の問題ではございません」
「では何が不満なんだ!? 誤った評価があれば修正する! 成果が証明された人材は再評価する! むしろ柔軟な政治ではないか!」
セレスティアは少しだけ悲しそうに笑った。
「陛下は、まだ私の仕事を理解しておられません」
「今回当てただろう! だから評価しているんだ!」
「……だからでございます」
クラウスが眉をひそめる。
セレスティアは王幕の外へ視線を向けた。昨日まで王都だった場所には、大きな水面が広がっている。
「十八年間で四十七回、私は予言した惨事を起こさずに済みました。その四十七回を、陛下は成果零と評価なさいました。そして四十八回目、初めて王都を沈めてしまった途端に、私を高く評価すると仰る」
「実際に大きな結果が出たのだから当然だろう!」
「それが、一番悲しいのです」
クラウスは苛立ったように机を叩いた。
「感情論だ! 国家は成果で人を評価する! そこまで言うなら好きにしろ。そなた一人に依存する組織など健全ではない! 代わりの予言官を探す!」
エドガーが静かに咳払いした。
「陛下。《星詠み》は現在確認されている限り、セレスティア殿ただ一人でございます」
「……っ」
クラウスは一瞬だけ黙った。
だが、それでもすぐに顔を上げる。
「なら代替手段の検討を加速させろ!!」
エドガーは返事をしなかった。
セレスティアは、とうとう小さく笑った。
「それでは陛下。十八年間、お世話になりました」
今度こそ、彼女は振り返らなかった。
◇
数年後。
隣国の王宮で、セレスティアは新しい占いの結果を提出していた。
《春、北部の町が雪解け水に呑まれ、多くの家が流される》
国王は報告書を読み終えると、その場で技師長を呼んだ。
「北部の川と堤防を調べろ。雪が解ける前にだ」
「補修が必要となれば、かなりの費用が掛かるかもしれません」
「調べる前から金の心配をするな。危険がなければ使わずに済むし、危険があれば必要な金だ」
調査の結果、上流の堤防内部に大きな亀裂が見つかった。
補修費の見積もりを見た国王は「高いなあ」と心底嫌そうな顔をしたが、それでも書類へ署名した。
「町を一つ建て直すよりは安い。直せ」
その春、雪解け水で川は大きく増水した。
だが補強された堤防は耐え、町は流されなかった。
翌年には、《港から病が入り、町に喪服があふれる》という兆しが出た。検疫を強化すると病毒を持ち込んだ船が見つかり、患者は隔離されたため、疫病は港から先へ広がらなかった。
さらに翌年、《二つの国の旗が血に染まった野で向かい合う》という凶兆が現れた。国境では実際に小競り合いが起きたが、外交官たちが何度も往復し、新しい条約を結んだことで大戦にはならなかった。
ある日、若い役人が過去の記録を整理しながら首を傾げた。
「考えてみれば、セレスティア様がこの国へ来られてから、予言された惨事は一つも起きておりませんね。これでは、予言官として当たっていないことになるのでしょうか」
近くで書類を読んでいた国王が顔を上げた。
「北部の川は増水したか?」
「はい。補強前なら堤防は決壊していたと、技師が申しております」
「病を運ぶ船は?」
「実際に来ました。国境でも戦闘そのものは起きています」
国王は報告書を閉じた。
「なら危険は全部あったのだろう。そのうえで町は流されず、疫病は広がらず、戦争にもならなかった」
「はい」
国王は不思議そうに首を傾げた。
「なら成功ではないか。何を悩んでいる?」
セレスティアは、しばらくその言葉を聞いていた。
まだ十代だった頃、一度だけ自分の予言が外れたと謝った日のことを思い出す。
《西区より赤熱病が広がり、千を超える者が死ぬ》
指定した井戸から病毒が見つかり、すぐに封鎖された。その結果、一人の死者も出なかったことを報告すると、先王アルフレッドは不思議そうな顔をした。
『何を謝っている。千人死ぬ予言が当たって、誰が喜ぶんだ』
そして、いつものように笑った。
『今回も外せたな』
あれから、随分と時間が経った。
セレスティアも笑った。
「はい。今回も外すことができました」
予言者セレスティア・アルノーが告げる惨事は、その後も驚くほどよく外れた。
災いの兆しが示されるたび、医師が調べ、技師が直し、騎士が備え、役人が動いた。地震や大雨そのものを止められない時には人を逃がし、病を消せない時には広がる前に隔離した。
そして何も起きなければ、人々はそれを失敗とは呼ばなかった。
悪い未来を言い当てることよりも、知ってしまった悪い未来を皆で外すことの方が、ずっと大切なのだから。




