第9話 帰還
懐かしい匂いがした。同時に、吐き気がした。
翌朝、ナシェルと話をした。宿の入口で、向かい合って。ナシェルは私の目を見なかった。私も見なかった。リュヌだけが二人の間を行ったり来たりしていた。
「兄のことは、すまないと思っている」
「謝られても困ります。あなたが何かしたわけではないでしょう」
「……ああ」
「ただ、一つだけ訊きます。旅の間、私に嘘をついたことは、他にありますか」
「ない」
「薬草を間違えたことは?」
「……あった」
笑ってしまった。この人はこういう嘘のつけなさで信用を取り戻す。
その日の夕方、宮廷薬師トビアスからの鷹便が届いた。正式な依頼状。「師匠の娘へ。ダレス公爵領の疫病対策を依頼する」。父の弟子からの手紙に、断る理由はなかった。
ナシェルに見せた。「行く」とだけ言って、彼は荷物をまとめ始めた。一緒に行くとは言わなかった。ただ同じ方向に歩き出しただけだった。いつものように。
三日後。ダレス公爵邸。
玄関広間の石造りの壁。磨かれた床。そして、空気に混じるあの甘い香り。魔除けの香。
膝が折れそうになった。口の中に苦い唾が溜まる。こめかみが脈打つ。
三歩。四歩。足がもつれた。
ナシェルの手が私の肘を掴んだ。乱暴な力加減。でもそのおかげで転ばなかった。
「この匂い」
声が震えていた。自分の声が遠い。
旅の間、体が楽だったのはこの匂いから離れていたからだ。カーヴォの温泉で呼吸が少し深くなったのも。ノーラの海風の中で走れたのも。全部、この香りがなかったからだ。
ナシェルが私を壁際に座らせ、広間を見回した。その目が何かを探している。鋭い。騎士の目だ。
壁の窪みに、銅の香炉が置いてあった。細い煙が立ち昇っている。魔除けの香。
ナシェルが三歩で香炉に近づき、素手で掴んだ。熱いはずだ。構わず持ち上げた。
そして、床に叩きつけた。
銅が石の床にぶつかる音が広間に響き渡った。灰が散った。煙が途切れた。
「これだ」
ナシェルの声が低い。拳を開いた。掌が赤い。火傷だ。
「ダレス家の魔除けの香。成分に蒼毒蘭の花粉が入ってる。微量だが、長期間吸い続ければ体を蝕む」
蒼毒蘭。知っている。吸入すれば免疫を落とし、慢性的な倦怠感、浅い呼吸、体温調節の異常を引き起こす。
私の症状と、一致する。
「お前はずっとこれで弱っていた。病弱なんかじゃない。この香がお前の体質と最悪の相性だった。お前がこの屋敷にいる間、ずっと」
十二年。
六歳でこの屋敷に来てから、十二年。毎日この香りの中で。体が弱い。それが当たり前だと。薬を飲んでも治らないのは。
万象草が効かなかったのは、「病気」ではなかったから。
でもそれは「体質」でもなかった。
毒だった。
「私は、病気じゃなかった?」
「ああ」
笑った。
なぜ笑ったのか分からない。怒るべきだ。十二年間、毒を。でも怒りより先に、笑いが喉の奥からせり上がってきた。おかしい。おかしくて、おかしくて。
「ずっと自分が弱いんだと思ってた」
声が裏返った。
「薬草を探して、雪山を登って、効かなくて、生まれつきだと思って。全部、この。この香炉の。せい?」
笑いが止まらなかった。涙ではなく笑い。目の端が熱い。でも涙じゃない。たぶん。
ナシェルが私の肩を掴んだ。強い力。
「笑うな」
「笑うしかないでしょう」
「笑うな。お前が苦しかったのは本当だ」
その言葉で、笑いが止まった。
奥の扉が開いた。
オスヴィンが現れた。以前より頬がこけている。目の下に隈。仕立ての良い服が体に合っていない。痩せたのだ。
その後ろから、マリアンヌが顔を出した。私と目が合った瞬間、一歩下がった。
「コレット。来てくれたか」
来たくて来たわけではなかった。トビアスからの正式依頼だ。
「疫病の状況を教えてください」
事務的に訊いた。オスヴィンの顔が曇った。泣いて感謝すると思っていたのかもしれない。
「領民の二割が発症している。予防薬の在庫は一ヶ月前に底を突いた。マリアンヌが調合を試みたが」
「失敗したと聞いています」
オスヴィンの口が閉じた。マリアンヌの顔から血の気が引いた。
「マリアンヌ様」
名前を呼んだ。彼女の肩が跳ねた。
「あなたの慢性頭痛。私が調合した予防薬で抑えていましたね。それを『効かない』とおっしゃっていたと聞きましたが」
マリアンヌの唇が薄く開いた。何も出てこない。
「調合に失敗なさったのは当然です。あのレシピは銀花草の収穫時期と乾燥条件で配分が変わります。私が十年かけて完成させたものですから」
泣き演技の達人が、初めて泣けない顔をしていた。目が泳いで、オスヴィンの袖を掴もうとした。オスヴィンは気づかなかった。気づく余裕がなかった。
「オスヴィン殿」
殿。かつての「様」ではなく。
「予防薬を調合します。ただし、条件があります」
「条件?」
「この屋敷の全ての香炉を撤去してください。魔除けの香の中に蒼毒蘭の花粉が含まれています。長期間の吸入は健康を害します。私が十二年間病弱だったのは、この香のせいです」
オスヴィンの顔が白くなった。口が開いて、閉じて、また開いた。言葉を探しているが見つからない。いつもは弁が立つ人なのに。
「それと」
「何だ」
「代わりはいくらでもいるとおっしゃいましたね」
オスヴィンの肩が落ちた。強張ったのではない。落ちた。
「どうぞお探しください。私は依頼された仕事をして帰ります。それだけです」
声は震えず、丁寧語も崩さなかった。爪が掌に食い込んでいたことには、後で気づいた。
オスヴィンが何か言いかけた。「待ってくれ」だったかもしれない。でも私はもう背を向けていた。マリアンヌが小さく悲鳴のような声を上げたのが聞こえた。オスヴィンの袖を掴む手が震えていた。あの二人はきっと、今夜から互いを責め始めるだろう。
薬草園に向かった。荒れていた。銀花草は収穫時期を過ぎて枯れかけている。朱紋草の乾燥が雨に当たって黴びていた。
でも、根は生きている。
ここからやり直せる。私がやるのではなく、次の薬師に引き継げるように。
調合室に入った。父が使っていた石臼がまだあった。手に馴染む。十年間、毎日触っていた石の冷たさ。
薬を作ろう。
それが私にできることの全てだ。
夕暮れ。調合室から出ると、ナシェルが廊下に立っていた。
火傷の手に布を巻いている。不器用な巻き方。
「手、見せてください」
「いい」
「良くないです」
半ば無理やり手を取った。掌の火傷は思ったより深くない。朱紋草の軟膏を塗って、布を巻き直した。
「なんで素手で掴んだんですか」
「急いでいた」
「手袋をすればいいのに」
「考える前に動いた」
この人はいつもそうだ。考えるより先に体が動く。
手当てが終わっても、ナシェルは私の手を離さなかった。というか、私が離さなかった。手のひらが温かい。火傷の熱ではなく、この人の体温。
「コレット」
「はい」
「俺は兄の代わりじゃない。お前の……その。代わりを、探したいとか、そういうんじゃなくて」
言葉が足りない。いつもの三倍は喋っているのに、まだ足りない。
「……お前がいないと、困る。俺が」
目を逸らした。首筋まで赤い。
私は答えなかった。
口を開こうとした。何か出てくると思った。でも喉の奥が詰まって、代わりに息だけが漏れた。手のひらがまだ温かい。それだけが分かる。それ以外のことは、今は。
「少し、考えさせてください」
いつもの台詞。でも今回は声が少し掠れた。
ナシェルはうなずいた。手を離した。離れた手のひらが、しばらく温かいまま残った。
廊下の窓から夕日が差し込んでいた。この廊下を十二年間歩いた。でも、魔除けの香がない今、空気が全く違う。
軽い。
体が、軽い。




