第8話 ダレスの名前
あの犬は、最初から知っていたのだろうか。
きっかけは些細なことだった。港町ノーラの宿で、ナシェルが鷹便を受け取る場面を見た。それだけなら何でもない。旅の途中で手紙が届くことは珍しくない。鷹は窓枠に一瞬だけ止まって、すぐに飛び去った。羽ばたきの音が高い天井に響いた。
ただ、封蝋の紋章が見えた。
獅子と盾。ダレス公爵家の紋章だ。
足が止まった。ナシェルは気づいていない。手紙を読み、表情を変えずに内ポケットにしまった。
その動作を、私は壁の陰から見ていた。見るつもりはなかった。階段を降りようとしたら、偶然見えただけだ。
偶然。
でも、偶然の後に来たのは偶然ではなかった。
リュヌ。
あの犬は、出会ったその日から私に懐いた。初対面の犬が、ここまで特定の人間に懐くだろうか。薬草の匂いに反応していると思った。でも、それだけではない。
私がリュヌを撫でると、ナシェルの表情が変わる。微かに。目を逸らす速度が速くなる。
それだけではなかった。リュヌは私の手の甲を嗅ぐとき、いつも同じ順序で鼻を動かした。指先、手首、手の甲の順。仔犬の頃にそう教えた覚えはない。でも、そうする。まるで確認するように。あの頃の匂いを、今も探しているかのように。
公爵家の紋章。異常に懐く犬。姓を名乗らない男。
三つの点が、線になった。
私は階段を降りて、ナシェルの前に立った。
「ナシェル・ダレス」
フルネームで呼んだ。ナシェルの肩が、微かに硬くなった。
「オスヴィンの、弟ですね」
沈黙が落ちた。宿の帳場で女将が皿を洗う音だけが続いた。
ナシェルは目を逸らさなかった。逸らさないということは、認めているのだ。
「……ダレスの次男だ」
「リュヌは、公爵家の犬ですね。私が仔犬の時に育てた」
「……ああ」
「あなたが公爵家を出るときに連れ出した」
「……ああ」
返事が短くなっている。いつも短い人の言葉が、さらに削られていく。
私は怒るべきだったのかもしれない。騙されていたのだから。名前を偽って近づいてきた男に。
でも怒りは来なかった。代わりに、疲れたため息が出た。
「道理で、薬草と雑草の区別がつかないわけですね。あの家の人は」
ナシェルの目が一瞬見開かれた。予想していた反応ではなかったのだろう。
「お前……怒らないのか」
「怒る体力がもったいないです」
半分本当だった。もう半分は、分からなかった。怒りなのか悲しみなのか失望なのか、自分でも判別がつかない。薬草袋の紐を握る指先に、少し力が入った。
「なぜ、黙っていたんですか」
「言えば、お前は俺を拒絶した」
正論だった。
「兄の婚約破棄を知って、お前を探した。兄の代わりに来たんじゃない。俺は……」
言葉が途切れた。ナシェルの唇が動いたけれど、音にならなかった。この人はいつも、大事なことほど言葉にできない。
「俺は、兄とは違う」
それだけ言って、黙った。奥歯を噛み締めている。こめかみが微かに動いた。窓から差し込む夕日が、ナシェルの横顔を半分だけ照らした。オスヴィンとは似ていない。目の形も、眉の角度も違う。それでも、あの家の血だと今は分かる。分かってしまう。
リュヌが私の足元に来て、鼻を押しつけた。尻尾は振っていない。代わりに、くぅんと小さく鳴いた。
この犬は知っていた。最初から。
私の匂いを覚えていた。仔犬の頃に私が世話をした記憶が、鼻先に残っていた。だから懐いた。だからナシェルと私の間を行ったり来たりしていた。
リュヌの頭を撫でた。耳の後ろ。仔犬の頃は耳が大きすぎて顔が隠れていたのに、今はちょうどいい大きさになっている。あの頃、耳をぴんと立てようとするたびにへにゃりと折れていた。見るたびに笑った。今では折れることもなく、私の声に向けてまっすぐに立つ。それが誇らしいのか、少し物悲しいのかは、うまく言葉にならない。
「リュヌ。大きくなったね」
声が震えなかったのは、我慢していたからではなく、震えるだけの力が残っていなかっただけかもしれない。
「コレット」
「少し、一人にしてください」
ナシェルは黙って部屋を出た。リュヌだけが残った。
一人になった。
窓の外を見た。港の灯りが海面に揺れている。潮の匂い。夕凪草の苦み。
手が震えていた。薬草袋を握りしめたまま、膝を抱えた。布の粗い感触が掌に食い込んだ。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。
ただ、また「ダレス」という名前に囲い込まれそうな気がして、それが怖かった。あの邸の高い天井。冷たい石の廊下。笑いかたを忘れた婚約者。全部が、一つの名前の中に詰まっている。
リュヌが膝の上に顎を乗せた。温かい。犬の体温は人間より少し高い。三十八度前後。
数字で分かることと、体で分かることは違う。今、膝の上にあるこの温もりを、数字では測れない。
しばらくそうしていた。
何も考えなかった。というか、考えるのをやめた。
ナシェルが持ってきた薬草は、間違いなく銀花草だった。雑草は混じっていなかった。図鑑を見て覚えたのだ。あの日の失敗から。銀花草の葉は縁が白く、光に透かすと細い葉脈が見える。雑草のカラシナに似ているが、触れると違いは分かる。指先で感じる、葉の硬さが違う。誰かが手間をかけて覚えた証拠は、そういう小さな正確さに宿る。
それは嘘のない事実で、紋章や姓よりもずっと揺るぎないことだった。
窓を閉めると、潮の音が遠くなった。リュヌの頭を撫でた。明日、もう一度ナシェルと話そう。
今日はまだ、言葉が足りない。私の言葉も、ナシェルの言葉も。




