第7話 選択
港町の朝市が、いつもと違う静けさに包まれていた。
魚を並べる声がない。代わりに咳が聞こえた。あちこちから。磯の匂いだけが風に乗っている。水揚げされた魚が台の上で光っているのに、それを見る人がいない。
ノーラの漁村で食中毒が広がっていた。井戸の水が原因らしい。下痢と嘔吐で動けなくなった漁師が十人以上。子供も三人。
宿に荷物を置く暇もなく、漁村に入った。ナシェルが「無茶するな」と言ったけれど、足が止まらなかった。
井戸の水を一口含んだ。吐き出す。舌の奥に、微かな金属の味。鉄と、もう一つ。藻だ。井戸の底で繁殖した毒藻の成分が溶け出している。
解毒は簡単ではない。でも手元にある薬草で組み合わせを考える。朱紋草で胃壁を保護し、銀花草で炎症を抑え、夕凪草で痙攣を緩和する。三種の調合。父が「三草の基本」と呼んでいた組み合わせだ。
石の上で薬草を擂った。リュヌが海辺を走り回って夕凪草を採ってきてくれた。潮風に混じる微かな苦みがする草。これだ。乾いた石の面に擂りつけると、青みがかった汁が滲み出してくる。塩気と草の匂いが混ざって、肩甲骨の間がぴりりと反応するような鋭さがある。この匂いを嗅ぐたびに、父の作業台を思い出す。
一人ずつ飲ませた。子供には量を減らし、蜂蜜を混ぜる。苦い顔をしながらも飲んでくれた。
三時間で症状が落ち着き始めた。嘔吐が止まり、顔に血色が戻る。患者の手首を取るたびに、脈の強さが少しずつ戻ってくるのが分かる。細い糸のようだったのが、確かな打ちになってくる。その変化が、指先越しにじわりと伝わってくる。
私の体は限界だった。立っているのがやっとで、指先の感覚が鈍くなっていた。膝の裏がじわじわと痛む。石畳の冷たさが足の裏から上がってくる。でもまだ残り四人。
ナシェルが黙って私の隣に立った。薬草を擂る石を受け取り、力任せに潰し始めた。粗い。でも、ないよりずっといい。
「もう少し、細かく」
「……こうか」
「もう少し」
無言の連携が生まれていた。私が指示し、ナシェルが力仕事をする。リュヌが薬草を運ぶ。三人と一匹の診療所。石を擂る音と、波の音と、風の音だけが続いた。
日が暮れる頃、全員の治療が終わった。空が橙から紫に変わって、潮の匂いが少し甘くなった。疲れているのに、その色だけがはっきりと目に入った。
宿に戻る足が重い。ナシェルが肩を貸そうとしたけれど、「大丈夫です」と断った。嘘だったけれど、今だけは自分の足で歩きたかった。砂利道の感触が靴の底を通して伝わってくる。それだけを感じながら、一歩ずつ進んだ。
宿の帳場に、見覚えのない男が立っていた。ダレス公爵家の紋章が入った外套を着ている。使者だ。
「コレット・アーベイン殿。ダレス公爵領にて疫病が発生しております。至急、ご帰還いただきたく」
手紙を渡された。差出人はブリジット。
「予防薬の在庫が底を突きました。マリアンヌ様が調合を試みましたが、失敗。領民の間に不安が広がっています。使用人の中から『コレット様がいれば』という声が出ています。オスヴィン様は面目を失い、新しい薬師を雇おうとしていますが、レシピが分からないため誰も引き受けません」
読み終えた。手紙を折り畳んだ。
マリアンヌが調合を試みた。あの人は私の薬で自分の頭痛を治していたのに、「効かない」と吹聴していた。それが、いざ自分で作ろうとしたら失敗した。当然だ。あのレシピは私が十年かけて完成させたものだ。
胃の底が重い。怒りではなく、もっと複雑な感情。あのレシピの一行一行に、何年もの試行錯誤が詰まっている。それを「効かない」と言い捨てた人が、今になって「来てください」と言ってくる。手紙の紙が、指の間でかすかに震えた。
目の前の漁村はまだ完全に回復していない。明日も経過を診る必要がある。公爵領は三千人の領地。漁村は五十人。数の論理なら、公爵領を優先すべきだ。
でも。
「コレット」
ナシェルの声。名前で呼ばれたのは初めてだった。いつも「お前」だったのに。
「……どうする」
訊いているだけだった。判断を委ねているのでも、急かしているのでもない。ただ、私がどう決めるかを聞いている。
漁村の子供の顔が浮かんだ。蜂蜜入りの薬を飲んで、「苦い」と笑った顔。薬の苦みごと受け入れて、それでも笑える顔。
公爵領の領民の顔は、思い出せなかった。六年間そこにいたのに。名前も、表情も。自分がどれだけあの場所に馴染んでいなかったか、今になってはっきりする。
「公爵領には、他の薬師もいます。宮廷薬師の紹介状を出せば、誰かが行く。でもこの村には、今、私しかいません」
使者が眉をひそめた。
「しかし、公爵家の要請でございます」
「公爵家に薬を作っていたのは、私です。私が抜けた穴は私にしか分かりません。だからこそ、すぐには行けない。ここの治療が終わってから、公爵領に向かいます」
嘘ではなかった。でも全部でもなかった。
公爵領に行きたくないのだ。あの匂いのする屋敷に。でも、それは理由にならない。
使者は不満そうに去っていった。外套の裾が扉に挟まりかけ、乱暴に引き抜いた音がした。
ナシェルが何も言わなかった。ただ、私が手紙を握りしめる手を見て、それからリュヌの頭を撫でた。
漁村の子供がよろよろと起き上がって、窓から手を振った。
「お姉ちゃん、顔色悪いね」
その声が、妙に遠くから聞こえた。笑った。「いつものことよ」
いつものことだ。でも「いつものこと」が、今夜は少しだけ、確かに温かかった。




