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『君の代わりなんていくらでもいる』と言われたので、代わりを探す旅に出ます  作者: 九葉(くずは)


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第6話 代わりのない道

朝の光が白く滲んで、毛布の匂いが他人のものだった。


目を開けた。宿の天井。木目が波打っている。壁際の椅子が空だった。ナシェルはいない。


起き上がった。体は重い。でも昨日よりは少しましだ。少しだけ。


窓を開けると、雪が止んでいた。空気が澄んでいて、遠くの山稜が朝日で白く光っている。深く息を吸った。冷気が喉の奥まで降りてきて、肺の端が締まる感じがした。雪解けの匂いがした。土と針葉樹の樹液が交じった、この季節だけの匂い。薬草袋の底に残った乾燥ハーブが、その匂いにわずかに反応した。体がまだ、仕事をしようとしている。


階下に降りると、ナシェルが宿の入口に立っていた。リュヌが足元で丸くなっている。手に何かを持っている。干し肉の包み。


「朝飯」


「……ありがとうございます」


受け取った。干し肉を噛んだ。塩が多い。舌の奥で塩化ナトリウムの濃度が分かってしまう。私の舌は便利だが、食事を純粋に楽しむには向いていない。


「塩分が多いです。腎臓に悪いですよ」


「……」


ナシェルは干し肉を黙って噛んだ。返事をしない。でも耳の付け根が少し赤い気がした。気のせいかもしれない。


食べ終えて、外に出た。


雪山の峠を降りて、南の街道に戻る。歩きながら、昨日のことを考えた。万象草は効かなかった。私の体質は治せない。旅の目的は消えた。


じゃあ、なぜ歩いている。


足は止まっていない。荷物は背負ったまま。薬草袋は肩にかかっている。止まる理由がないから歩いているのか。それとも。


「ナシェルさん」


「……」


「あなたは何のために旅をしているんですか」


長い沈黙。リュヌの足音だけが続いた。


「……探しものだ」


「何を」


「まだ分からん」


噛み合わない会話。でも、不思議と不快ではなかった。分からないことを「分からない」と言える人間は、嘘をつく人間より信用できる。オスヴィンは常に答えを用意していた。その答えが全部間違っていたとしても。


街道沿いの小さな集落を通り過ぎるとき、荷馬車の御者に声をかけられた。


「薬草のお嬢さんだろう? タッソの村で子供を治した。港町ノーラまで乗せていくよ」


噂は足が速い。


御者は荷台の隅を指差して、それから何も言わなかった。干し草の上に腰を下ろした。乾いた草の匂いが立った。ラベンダーに似ているが、もっと素朴な匂いだ。薬効はない。でも、鎖骨の下がふっと緩む感じは、薬草とは別の種類の心地よさだった。


荷馬車の荷台に揺られながら、私は膝の上で薬草図鑑を広げていた。万象草のページ。父の字。「先天性の体質には効果なし。ただし、体質そのものが薬効の感知能力を高める可能性あり」


この一文を、私は見落としていた。いや、見たくなかったのだ。


父は知っていた。私の体質が治せないことを。でも同時に、この体質が薬草の微細な違いを見分ける異能であることも。


荷馬車が石畳の凹凸を踏むたび、図鑑のページが小さく揺れた。父の書き込みは端の余白にまで続いていた。インクの色が場所によって違う。何年もかけて、少しずつ書き足してきた痕跡だ。父はこのページを何度も開いただろう。私が生まれた日より前から。


病弱だから、弱い。ずっとそう思っていた。


でも父は、「病弱だからこそ、見えるものがある」と書いていたのだ。


ナシェルが荷馬車の縁に座って、外の景色を眺めていた。横顔だけが見える。顎の線が硬い。でもリュヌが膝に乗っているせいで、少し緩んでいる。


「ナシェルさん」


「……ん」


「代わりがいないのはお前のほうだ、って言いましたよね」


「……言ったか?」


「昨夜。私が倒れたとき」


ナシェルの耳の付け根が赤くなった。三度目。もう見慣れてきた。


「……覚えてない」


嘘だ。この人は嘘が下手だ。


でも、追及はしなかった。その言葉が、今も胸のどこかに残っていることだけを知っていればいい。倒れた夜のことはほとんど覚えていないのに、あの言葉だけははっきりと聞こえていた。暗い場所で拾った、小さな火のかけら。


荷馬車が丘を越えた。眼下に青い海が広がった。港町ノーラの屋根が並んでいる。潮の匂い。風に混じる微かな苦み。夕凪草が自生しているはずだ。磯の塩気と夕凪草の揮発成分が重なると、奥歯の裏側がじわりと刺激される。昨日まで何も感じられなかった体が、今はちゃんと反応していた。壊れてはいなかった。ただ、疲れていただけだ。


「私、旅を続けます」


声に出した。ナシェルに向けてではなく、自分に向けて。


「自分の体は治せない。でも、自分の体だから分かる薬がある。自分にしか作れない薬がある。それを必要としている人がいるなら、そこに行く」


ナシェルは黙って聞いていた。


「それが、新しい旅の理由です」


返事はなかった。でもナシェルの肩が、少しだけ下がった。安堵のように見えた。


リュヌが尻尾を振った。港の方角から、魚を焼く匂いが流れてきた。脂が炭に落ちる、少し焦げた匂い。腹の奥がかすかに動いた。


海の見える坂道を降りていく。足取りは軽くない。体は相変わらず重い。荷物の重さも変わっていない。それでも、荷物が重いのは薬草が詰まっているからで、薬草が詰まっているのはまだ使う気でいるからだ。でも、歩く方角だけは、もう迷っていなかった。


途中ですれ違った旅商人が、ぼそりと言った。


「北のほうで疫病が出たって噂があるよ。ダレス公爵領のあたりだ」


足が止まった。振り返る前に、ナシェルの視線を感じた。


私は前を向いた。まだ噂だ。噂は確かめてから動けばいい。


今は、目の前の海をただ見ていたかった。それだけでよかった。


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