第5話 万象草
白い花が咲いていた。雪の中で、それだけが光っていた。
雪山の峠サルヴァ。標高が高くなるにつれ空気が薄くなり、足が重くなった。ナシェルは私の歩幅に合わせて速度を落としている。気を遣われていることに気づいていないふりをした。
リュヌが斜面を駆け上がり、鳴いた。短く、二回。見つけた合図だ。
万象草。
父の図鑑に「雪山の標高二千以上にのみ自生。伝説の万能薬草」と書かれていた。あの走り書きの字が頭に浮かぶ。父は見たことがあったのだろうか。手に取ったことは。
岩陰の雪の切れ目に、白い花が三輪。花弁が薄くて、光を通す。夜なら青白く発光するという。匂いを嗅いだ。雪解け水のような無味無臭。だから見つけにくい。嗅覚では探せない。リュヌは匂いではなく、花の放つ微かな熱を感じ取ったのかもしれない。
手が震えた。寒さではなく、期待で。
根ごと引き抜いた。根は白くて細い。持ち帰って乾燥させる余裕はない。今ここで調合する。
ナシェルが黙って風除けになった。岩を背にして座り、毛布を広げて風を遮ってくれた。私はその陰でしゃがみ、万象草の根を石で擂り始めた。
指先の感覚だけが頼りだった。万象草は匂いがないから、潰し具合は触感で判断するしかない。繊維がほぐれて、とろりとした粘液が出る。それを水に溶かす。
「できた」
自分の唇に匙を当てた。
飲んだ。
味がない。匂いもない。ただ、喉を通るとき微かに温かい。体の芯に何かが沁みていく感覚がある。
これだ。これが万象草だ。父が図鑑に書いていた「体の根本に作用する」とはこういうことか。
期待が膨らむ。明日の朝、少しでも体が楽になっていたら。
一時間が過ぎた。
変化がない。
体は相変わらず重い。指先は冷たいまま。呼吸の浅さも変わらない。もう少し待てばと思った。もう少し。
夜になった。
何も、変わらなかった。
「効いて、ない」
声が震えた。自分でも驚くほど小さな声だった。
万象草は「病の原因そのもの」に作用する。つまり、効かないということは。
私の体の弱さは、病気ではない。
体質。最初から、ずっと。薬じゃ、どうにも。
知っていたのかもしれない。薬草を扱う人間として、どこかで分かっていた。でも認めたくなかった。「旅の目的」があるうちは歩き続けられると思ったから。
足の力が抜けた。雪の上にしゃがみ込んだまま、立てなくなった。
視界がぼやけた。寒い。体温が下がっている。疲労と寒さと、たぶん、もうひとつ別の何か。
ナシェルの声が遠くから聞こえた。名前を呼ばれている。コレット。お前。おい。声の調子がいつもと違う。
背中に温かいものが触れた。持ち上げられている。ナシェルの腕だ。革鎧の硬さと、その下の体温。
「降ろして、ください。自分で」
「黙れ」
初めて聞く声だった。怒っているのでも命令しているのでもない。もっと別の何か。切羽詰まった声。
山を降りた記憶は曖昧だ。背中の揺れと、ナシェルの息遣いと、リュヌが横で走る足音。宿に着いて、毛布をかけられて、額に冷たい布を当てられた。
目が覚めたとき、窓の外が暗かった。
ナシェルが椅子に座って、壁に頭をもたせかけていた。眠っているのかと思ったら、目が開いた。
「なぜ」
声がかすれた。
「なぜ、助けるんですか。私は薬草が少し分かるだけの、体が弱いだけの人間です。あなたに何の利益もない」
ナシェルは黙っていた。長い沈黙。窓の外で風が鳴った。
「理由がいるのか」
四つの単語。それだけだった。
私は答えられなかった。
「役に立つから」でしか自分の存在を測れなかった。公爵邸でも、男爵家でも、どこにいても「何ができるか」が先に来た。薬を作れるから置いてもらえる。予防薬を調合できるから許嫁でいられる。それが無くなったら――。
「私は。ただの」
薬草が少し。体が弱い。それだけの。
口が止まった。
ナシェルは何も言わなかった。
代わりに、手を伸ばした。私の手に、何かが握らされた。
銀花草の束だった。雑草は混じっていない。
「さっき採ってきた。今度は間違えてない」
声が少し低い。図鑑で覚えたのだ。あの鉄蕨の日から。
私は銀花草を握りしめた。冷たい甘さが手のひらに沁みた。
泣かなかった。でも、薬草袋の紐を握る指先が、しばらく離せなかった。
扉を叩く音がした。宿の女将が手紙を持ってきた。タッソの村から。
「あなたの薬に助けられた。息子は元気に走り回っている」
読み終えて、紙を膝の上に置いた。手紙の端が少し湿っていた。村の母親の涙の痕だろうか。
窓の外で雪が降り始めた。白い花びらみたいに、音もなく。
旅の目的は消えた。自分の体は治せない。
でも、タッソの子供は治った。カーヴォの患者たちも。
何のために旅をしているのか、まだ分からない。でも、銀花草を握ったままの手を開くことが、今はできなかった。




