第4話 噂と手紙
温泉町カーヴォに着いたとき、私の名前がすでにそこにあった。
正確には名前ではなく、噂。「薬草のお嬢さんが旅をしている」「ダレス家の予防薬より効く」。商人の行商ルートに乗って、私の足より先に噂が走っていたらしい。
宿の女将が「あんたが薬草の?」と私を見た瞬間、奥から咳をする老人が出てきて、並んでいた旅商人が「俺のほうが先だ」と言い出して、気がつけば宿の帳場が臨時の診療所になっていた。
ナシェルは宿の隅で黙って座っていた。リュヌが膝の上で丸くなっている。
カーヴォは温泉が有名で、湯治客が多い。つまり体の不調を抱えた人が集まる町だ。私のような薬草使いには需要がある。温泉街特有の、湿気と硫黄が混じった空気の中では、乾燥した道中より薬草の香りが遠くまで届く。患者を呼び込む気はなかったのに、鞄から取り出した束草の匂いだけで、帳場の人間が三人増えた。
薬問屋の主人が訪ねてきた。恰幅のいい男で、禿げ上がった頭が湯気で光っている。
「お嬢さん、あんたの薬の評判がね、タッソの村から流れてきてるんだ。ダレス公爵家の予防薬より効くってのは本当かい」
「比べたことがないので、何とも」
嘘だった。同じ人間が作っているのだから、効くに決まっている。でもそう言うのは角が立つ。
「まあ、ものは試しだ。うちの女房が膝を悪くしてるんだが、診てもらえるかね」
診た。膝の内側が腫れている。触ると熱い。炎症だ。夕凪草の湿布と、朱紋草を煎じた湯を処方した。夕凪草は腫れを引かせる力が強いが、乾燥させすぎると成分が飛んでしまう。この鞄の中の束はまだ三日分しか経っていない。使い頃だった。
薬問屋の主人は銀貨を三枚差し出した。コレットの調合報酬にしては多い。
「いえ、一枚で」
「二枚は口止め料だ。うちが仕入れてるダレス家の予防薬に比べて、あんたの薬のほうが効くなんて、大声では言えんからな」
笑い声。私は笑えなかった。
あの予防薬のレシピは、私の頭の中にしかない。オスヴィンは「ダレス家の予防薬」として領民に配っていたけれど、調合していたのは私だ。在庫の三ヶ月分が尽きたら、あの領地はどうなるのだろう。
いや。もう私の心配することではない。
宿に戻ると、ナシェルが何かを抱えて立っていた。
草の束。葉が五枚ずつ互生して、茎が角張っている。
「採ってきた」
私は受け取って匂いを嗅いだ。青臭い。薬効成分の香りは何もない。土の匂いと、川岸に育つ雑草特有のわずかな酸味だけ。
「……ナシェルさん。これは薬草ではなく、ただの鉄蕨です」
「……」
「雑草です」
「……ああ」
ナシェルの耳の付け根が、微かに赤くなった。一瞬で目を逸らす。リュヌがナシェルの足元で小さく「くぅん」と鳴いた。犬にまで同情されている。
「でも、ありがとうございます。気持ちは嬉しいです」
嘘ではなかった。薬草を採ろうとしてくれたこと自体が、私にとっては新しい経験だった。公爵邸では誰も薬草園を手伝おうとしなかった。「女の遊び」と呼ばれていた。
ナシェルは何も答えずに、鉄蕨の束を黙って窓の外に投げた。リュヌが追いかけて走っていった。
「今度は図鑑を見せますから。覚えなくていいので、葉の形だけ」
「……別にいい」
「良くないです。間違って毒草を採ったら死にますから」
ナシェルの眉が動いた。少し驚いたように見えた。薬草の世界には本当に命に関わるものがある。外見がほとんど同じで、片方は解熱に使い、もう片方は心臓を止める草がある。剣で人を守る人と、薬で人を守る人では、見えている危険の種類が違う。
「……一応、聞く」
短い返事だった。私は鞄から小さな図鑑を取り出して、夕凪草のページを開いた。ナシェルは黙って隣に立ち、ページを覗き込んだ。距離が近い。この人は、他人との距離感を考えない。
夜。宿の二階の窓を開けると、温泉の湯気が流れ込んできた。硫黄の匂い。その奥に、鉄分と微量のマグネシウム。成分が舌の奥で分かってしまうのは便利なのか不便なのか。カーヴォの泉質は鉄泉に近い。貧血気味の湯治客には向いているはずだ。今日診た老人も、顔色からして鉄分不足だった。
温泉に浸かりたかったけれど、人前で服を脱ぐ体力がない。今日は患者を三人診て、薬を二種類調合した。体が限界を訴えている。指先が震えている。
ぼんやり窓の外を眺めていたら、鷹便の鳥が宿の軒先に降りた。
手紙。差出人はブリジット。
読んだ。
「予防薬の在庫が、予定より早く減っています。オスヴィン様は新しい調合師を雇う予定はないとのことです。コレット様にお伝えすべきか迷いましたが、お知らせだけ」
紙を折り畳んだ。胃の底に小さな重りが落ちた気がした。
三ヶ月分あったはずの在庫が、もう減り始めている。あの人、使い方を間違えているのだ。一瓶で大人十人分だと書いたのに。調合指示書も同封して渡した。読まなかったのか、読んでも理解できなかったのか。どちらにしても私には分からない。私はもうあの屋敷にいない。
手紙をもう一度開こうとして、やめた。読み直しても変わらない。変わらないものを何度も確かめる癖は、薬草の観察でも役に立たない。
ナシェルが階段を上がってきた足音がした。重い靴の音。この人の足音は分かりやすい。
扉を叩かずに声だけかけてきた。
「……大丈夫か」
「ええ。大丈夫です」
嘘だった。でも、本当のことを言う相手を、私はまだ決めかねていた。窓の外では湯気が白く立ち上り、硫黄の匂いとともに夜の空気に溶けていった。




