第3話 銀花草の夜
誰かのために薬を作るのは、久しぶりだった。
山間の村タッソに着いたのは、旅を始めて六日目の夕暮れだった。石積みの家が斜面に沿って並んでいて、煙突から細い煙が上がっている。宿を探していたら、広場の井戸端で女が泣いていた。
「子供が、三日も熱が下がらなくて」
駆け寄る前に足が動いていた。ナシェルが「おい」と言ったのが聞こえたけれど、振り返る余裕はなかった。
女に連れられて入った家は暗くて、干し肉の匂いと汗の匂いが混じっていた。寝台に横たわった男の子は五つか六つで、頬が赤く、額に布が載っている。布は乾いていた。替える余裕もなかったのだろう。
手の甲を額に当てた。熱い。ただの風邪ではない。
舌の奥で空気を味わった。部屋の空気に微かな苦みがある。これは――山気熱だ。標高の高い土地で、季節の変わり目に発症する。大人なら寝ていれば治るけれど、子供には危険がある。
「銀花草はありますか」
女は首を振った。
「リュヌ」
犬の名前を呼んだ。不思議なことに、リュヌは最初から私の声に反応する。ナシェルの犬のはずなのに。
薬草袋を開いて匂いを嗅がせた。銀花草の乾燥束。冬の朝の空気みたいな冷たい甘さ。リュヌは鼻をひくつかせてから、扉の外に飛び出した。
「村の裏手に沢があるなら、その近くに自生しているかもしれません。リュヌが探します」
ナシェルが扉の枠に肩を預けて立っていた。腕を組んでいる。何も言わない。でも、リュヌが飛び出した方向を目で追っていた。
待っている間に、できることをする。
手持ちの朱紋草を擂って粉にし、湯に溶かした。解熱の効果は銀花草に劣るけれど、応急処置にはなる。子供の唇に匙を当てると、苦い顔をしながら飲み込んでくれた。
「頑張ったね」
声が自然に出た。公爵邸では、こんなふうに患者に声をかけることはなかった。いや、患者という概念すらなかった。私は「薬を作る人」で、「人を治す人」ではなかった。オスヴィンにとって、私の調合した予防薬は「ダレス家の功績」であって、私個人の技術ではなかったのだ。
父なら、こういうとき何て言っただろう。
石臼のごりごりという低い音を思い出す。あれが私の子守唄だった。父は患者が来ると夜通し調合していた。「薬は待ってくれないが、病はもっと待ってくれない」が口癖だった。
父の手は大きくて、指先だけが妙に繊細だった。あの指先の動きを真似て薬草を擂り潰すのに、十年かかった。
リュヌが戻ってきた。口に銀花草を咥えている。根ごと引き抜いてきたらしい。鼻先に土がついている。
「よくやった、リュヌ」
頭を撫でた。尻尾が左右に振れる。
銀花草の状態を確認する。葉を指で挟んで、匂いを嗅ぐ。冷たい甘さの奥に、微かな渋みがある。まだ若い。薬効はやや弱い。だから量を増やす。
石で擂る代わりに、手のひらで揉んだ。繊維が潰れて、青い汁が出る。それを布で漉して、朱紋草の湯に混ぜた。
調合中は、体の弱さを忘れる。指先に集中しているとき、世界は薬草の匂いと手触りだけになる。
子供に飲ませた。一口。二口。三口目で眉間の皺が少し緩んだ。
「……苦い」
「苦くないと効かないの」
「ほんと?」
「嘘。苦くなくても効く薬はあるけど、今はこれしかないから我慢して」
子供が小さく笑った。母親の目から涙が零れた。
朝まで付き添った。明け方近くに熱が引き始め、子供の呼吸が穏やかになった。寝台の横に座り込んだまま、私のほうが眠りそうになる。体が重い。当然だ。自分の体調だって良くないのに、半日動きっぱなしだった。
ふと、肩に重みを感じた。布。ナシェルのマントだった。
振り向くと、ナシェルは壁に背を預けて目を閉じていた。いつからそこにいたのか分からない。マントがないせいで、薄い上衣の肩が少し寒そうに見えた。
起こすのは悪いと思って、何も言わなかった。
マントは革と、微かに犬の匂いがした。嫌ではなかった。
夜が明けて、子供の熱は完全に下がった。
母親が何度も頭を下げた。村人が集まってきて、「ダレス家の予防薬より効くんじゃないか」と誰かが言った。
その言葉に、私は少し口ごもった。ダレス家の予防薬。あれは私が調合していたものだ。つまり、同じ人間が作っている。効くのは当然だろう。
でもそれを説明するのは面倒だし、もう関係のないことだった。
村を出るとき、リュヌの背中の薬草袋が少し膨らんでいた。
見ると、ナシェルが黙って村の裏手で採ってきた草が詰め込まれていた。銀花草。いや、半分は雑草が混じっている。でも、薬草を採ろうとしたのだ。
何も言わなかった。言う代わりに、薬草袋の紐を結び直した。雑草は後でこっそり抜けばいい。
街道に戻る。朝の風が冷たくて、鼻の奥がすっとする。リュヌが先を走り、ナシェルが後ろを歩き、私は真ん中で薬草図鑑をめくっていた。
父なら、もっと早く治せただろう。でも、父はもういない。
私がいる。それだけのことだった。




