第2話 薬草と剣と野盗
三日目の朝、靴擦れの痛みで目が覚めた。
野宿は二日で限界だった。体が弱いことを忘れていたわけではない。ただ、忘れていたかった。街道沿いの木の根元で毛布にくるまって眠ると、夜露で髪が湿る。朝の空気は冷たくて、こめかみの奥まで刺してくるような冷気だった。
今日こそ宿のある村に着かなければ。
問題は、その村がどちらの方角にあるのか分からないことだった。
昨日の分岐点で右に行くべきだった。多分、右。いや、左だったかもしれない。太陽は東から昇るから、南に向かうには……えっと。
考えている間に、足は勝手に動いていた。
気がついたら獣道に入っていた。
「あ」
両側から木の枝が迫っている。地面は苔むしていて、人が通った形跡がない。これは街道ではない。完全に逸れた。
引き返そうとした瞬間、目の前に人影が現れた。三つ。
「おい、嬢ちゃん。こんなところで何してる」
野盗。
三人とも体格がよく、腰に短剣を差している。一番手前の男は顎髭を伸ばしていて、その下の皮膚がわずかに黄色い。
私の足は止まった。膝の裏が冷たくなる。逃げるべきだ。逃げなければ。でも足が動かない。
代わりに、口が動いた。
「あなた、肝臓が悪いわね」
三人が固まった。
沈黙が落ちた。鳥が一羽、頭上を横切る音だけが聞こえた。
「……はあ?」
「顎の下、黄疸が出ています。お酒の量を減らして、苦蓬草を煎じて毎朝飲んでください。放っておくと半年で歩けなくなります」
自分でも何を言っているのか分かっていた。分かっていて止められなかった。人の顔色を見ると勝手に診断が始まる。父譲りの悪癖だ。
顎髭の男が半歩後ずさった。「お、おい、こいつ頭がおかしい――」
背後で風が鳴った。
何かが横を通り過ぎた。速い。
次の瞬間、三人の野盗は地面に転がっていた。
立っていたのは、一人の男。背が高い。革鎧を着ていて、右手に抜き身の剣。剣の先は地面を向いている。峰打ちだったらしい。
男は野盗を一瞥してから、私を見た。
目が暗い。暗いというか、深い。表情がない。
「……道を間違えてる」
それが、最初に聞いた言葉だった。
「知っています」
嘘だった。
男は剣を鞘に収めた。野盗たちは呻きながら這って逃げていく。顎髭の男が最後に振り返り、私の顔を見て、それから自分の顎の下を触っていた。気にしているらしい。苦蓬草を飲んでくれるといいのだけれど。
「街道はあっちだ」
男が指さした方向は、私が来た方向の真逆だった。
「……ありがとうございます」
歩き始めると、男も歩き始めた。同じ方向に。
「あの、ついてきていますか」
「同じ方向だ」
「そうですか」
三歩。五歩。十歩。男の歩幅は大きくて、私は小走りになる。
「あの」
「……」
「お名前を伺っても」
「ナシェル」
姓を名乗らなかった。私も「コレット」とだけ返した。
ナシェルの後ろから、小さな影が駆けてきた。犬だ。茶色い毛に白い斑点。耳が大きくて、鼻が黒い。
犬は私を見た瞬間、尻尾を振り始めた。
駆け寄ってきて、私の足元にまとわりついた。靴の匂いを嗅ぎ、薬草袋に鼻を押しつけ、そして膝に前足をかけてきた。初対面とは思えない懐き方だった。
「リュヌ」とナシェルが低い声で呼んだ。
犬はちらりとナシェルを見て、それから私の手を舐めた。
リュヌ。その名前。聞いたことがある。いや――。
「この子、お連れですか」
「……ああ」
「よく躾けられていますね。嗅覚が鋭い。薬草の匂いに反応している」
リュヌは私の薬草袋に顔を突っ込み、くんくんと熱心に嗅いでいた。銀花草の乾燥束を見つけて、鼻先でつついている。
不思議な犬だった。私の持ち物の匂いに、異様に親しげに反応する。
でも初対面の犬に嫌われるよりはずっといい。むしろ嬉しい。動物に好かれると、ふっと肩の力が抜ける。
「リュヌ。いい名前」
月、という意味だろう。この子の目が、たしかに三日月みたいに細い。
ナシェルは何も答えなかった。ただ、私がリュヌの頭を撫でるのを、少しだけ長く見ていた気がする。振り返ったときにはもう前を向いていたから、気のせいかもしれない。
「街道まで案内する。その後は好きにしろ」
「ありがとうございます」
歩き始めた。ナシェルが前、私が真ん中、リュヌが横をちょろちょろ走る。三人と一匹の隊列。
街道に出たとき、ナシェルは立ち止まった。
「どこに行く」
「南の方へ。薬草を探しに」
「……一人で?」
「ええ」
ナシェルは何か言いかけて、やめた。代わりにリュヌを見た。リュヌは私の足元に座り込んでいて、動く気配がなかった。
長い沈黙。
「……南なら、同じ方向だ」
二度目のその台詞を聞いて、私は少し笑った。本当に同じ方向なのか、それとも別の理由があるのかは分からない。
ただ、一人で歩くよりは獣道に迷い込む確率が減る。それは認めざるを得なかった。
靴擦れの右足を庇いながら、歩き出す。ナシェルの背中は広い。日除けになるな、と思った。実用的な理由だけで、それ以上の意味はない。
しばらく歩いて、ナシェルが足を止めた。足元に転がっていた野盗の水筒を拾い上げ、中身を嗅いで顔をしかめている。
「捨てろ。酒だ」
「少しいいですか」
受け取って匂いを嗅いだ。安い麦酒。でもそれだけじゃない。奥にかすかな酸味がある。保存状態が悪い。
「安い酒ですね。しかも傷んでいる。これを飲んでいたら肝臓が悪くなるのも当然です」
ナシェルが私を見た。いや、見たというより、観察した。獣を見定めるような目だった。
「……お前、変わってるな」
「よく言われます」
嘘だった。こんなことを面と向かって言われたのは初めてだ。公爵邸では「変わっている」ではなく「役に立たない」と言われていたから。
水筒を地面に置いて、歩き出した。
午後の日差しが傾いて、道の右側に長い影が伸びていた。ナシェルの影は大きくて、私の影はその半分もない。リュヌの影だけがせわしなく動いている。
三つの影を踏みながら歩く。一人じゃないのは久しぶりで、不思議な気分だった。嬉しいとも心細いとも違う、なんというか。
うまく言えない。
ただ、足は前に出ていた。それで十分だと思った。




