第10話 次の旅は二人で
朝の空気が、公爵領にいた頃より軽い。
いや、正確には、公爵領の空気が変わったのだ。香炉を撤去してから三日。屋敷中の空気が入れ替わり、窓を開けると春の草の匂いが入ってくる。
私の体も変わっていた。朝起き上がるときの重さが、少し減った。完全に治ったわけではない。十二年間の蓄積はそう簡単には消えない。でも、指先の冷えが和らいでいる。呼吸が、ほんの少し深くなった。
薬草園で朝露に濡れた銀花草を摘んだ。冷たい甘さが指に残る。
三日間で予防薬を五十瓶調合した。領民の二割が発症しているダレス公爵領の人口三千人。六百人分の予防薬。一瓶で十人分だから六十瓶が必要だけれど、残りは新しく雇う薬師に引き継ぐ。
引き継ぎ書は三冊書いた。今度はブリジットだけでなく、家令にも渡した。
「薬草園の管理手順。予防薬の調合手順。季節ごとの収穫カレンダー。これで、次の方が来ても困らないはずです」
ブリジットが、また泣いた。
「コレット様。お戻りには……」
「なりません」
「そう、ですか」
「でも、困ったことがあれば手紙をください。鷹便なら二日で届きます」
ブリジットがうなずいた。鼻の頭が赤い。朱紋草を煎じた湯で顔を洗うといいですよ、と今度は言った。前回は言えなかったから。
薬草園を出るとき、振り返った。
銀花草が朝日に光っている。朱紋草の赤い葉が風に揺れている。父が種を蒔き、私が育てた場所。
ここは私の場所だった。でも、もう私がいなくても育つ。根は生きているから。引き継ぎ書があるから。
それでいい。
ナシェルは馬小屋の前で剣の手入れをしていた。
火傷の手にはまだ布が巻かれている。朱紋草の軟膏のおかげで、もう痛みはないはずだ。でも布を取り替えていない。
「手、見せてください」
「もう治った」
「見せてください」
布を解いた。傷は塞がっている。新しい皮膚が薄くて、少しつっぱるだろうけれど、跡はあまり残らない。
「よかった」
布を巻き直す必要はもうない。でもなぜか、手を離すのがもったいなかった。
ナシェルも離さなかった。
リュヌが私たちの間に割り込んできて、二人の手の上に顎を乗せた。重い。でも温かい。
「ナシェルさん」
「……ん」
「答えを、出しました」
ナシェルの肩が微かに硬くなった。息を止めている。
「次の旅は、二人で行きましょう」
沈黙。
ナシェルの目が少し見開かれた。それから、唇が動いた。何かを言おうとして、やめた。もう一度動いた。やめた。三度目。
「……ああ」
一語。でもその一語に、この人の全部が入っていた。
足の指先まで熱が伝わってくるような気がした。この人の体温は、どこから先に赤くなるのだろう。
リュヌの尻尾が振れた。
「どこに行く」
「分かりません。薬草がある場所へ。困っている人がいる場所へ」
「……遠いのか」
「遠いかもしれません」
「靴は持ってるか」
「靴擦れ用の軟膏なら持っています」
噛み合わない会話。でも、噛み合わなくていい。この人との会話は、いつもこうだ。
ナシェルが立ち上がった。剣を腰に差した。リュヌを呼んだ。
「行くぞ」
「はい」
街道に出た。
靴擦れは左足の薬指。右足は治った。代わりに左足。体は相変わらず完璧ではない。でも、歩ける。
空が高い。雲が薄く流れている。風は南から吹いていて、遠くに海の匂いがする。
「ナシェルさん」
「……ん」
「右ですか、左ですか」
「左」
「本当に?」
「……お前は右だと思ってるのか」
「太陽の位置的には右だと思いますけど」
「だったら右でいい。俺は方角は分かる」
「私も分かります。ただ、足が逆に動くだけで」
ナシェルの口元が、微かに動いた。笑ったのかもしれない。この人が笑うのを見たのは、初めてかもしれない。いや、笑ったのかどうか確信が持てない。口角が上がった気がしただけ。
リュヌがナシェルの靴を咥えて走り出した。革紐が解けた靴。
「リュヌ。返せ」
犬は振り向きもせず、尻尾を振りながら街道を駆けていく。
ナシェルが片足で追いかけ始めた。普段の威厳はどこにもない。
「リュヌ。戻れ。おい」
笑った。声が出た。お腹の底から。
走って追いかけた。薬草袋が背中で跳ねる。靴擦れの左足が痛い。体が重い。でも走れる。
三人と一匹が、春の街道を走っている。
「代わりを探す旅」は終わった。
代わりはいなかった。最初から。
この足で。この舌で。この鼻で。この手で。。
作れる薬がある。助けられる人がいる。隣にいてくれる人がいる。
それだけのことだった。
それだけで、十分だった。




