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『君の代わりなんていくらでもいる』と言われたので、代わりを探す旅に出ます  作者: 九葉(くずは)


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第1話 代わりを探しに

「君の代わりなんていくらでもいる」


応接間の空気が、少しだけ変わった。

花の匂いが強くなったような気がした。いや、違う。隣に座ったマリアンヌ・セレスの香水だ。甘い百合。鼻の奥に貼りつく。


オスヴィン様は、紅茶のカップを置いた。受け皿にぶつかる音が、部屋の天井に跳ね返る。


「この婚約は、本日をもって解消とする」


私はその言葉を聞きながら、壁際のサイドボードに置かれた花瓶の水がそろそろ替え時だな、と考えていた。茎が少し茶色い。あれは放っておくと花が三日早く枯れる。


「コレット。聞いているのか」


「ええ。聞いています」


そう答えてから、ひとつだけ気になっていたことを訊いた。


「薬草園の管理は、今後どなたがなさるのですか」


オスヴィンの目が泳いだ。まばたきが二回。一回目が長くて二回目が短い。分からないときの癖だ。六年間の許嫁生活で、癖だけはよく覚えた。それ以外のことは、あまり覚えていない。


「そんなことは――」


「薬草園の銀花草は来月が収穫時期です。刈るのが三日遅れるだけで薬効が半分になります。朱紋草の乾燥は南棟の二階でないと湿気で駄目になります。それから予防薬の調合手順は――」


「コレット」


オスヴィンが遮った。声は苛立っていたけれど、顔は困っていた。マリアンヌが小さく息を吸い込むのが聞こえた。


というか、この人は私の話を聞きたくないのだ。そうだった。いつもそうだった。薬草園のことも、予防薬のことも、領民の冬支度のことも。「細かいことは任せる」がこの人の口癖で、任せた結果に興味はない。


「失礼しました。薬草の話はブリジットにお伝えします」


立ち上がった。膝が少し笑ったのは、緊張していたからだろうか。それとも朝から何も食べていないからだろうか。多分、両方。


部屋を出るとき、マリアンヌと目が合った。勝ち誇るような顔を予想していたけれど、実際の表情は奇妙だった。何かを恐れている。唇の端が微かに引きつっている。持病の頭痛が出ているのかもしれない。ああ、あれは私の予防薬で抑えていたはずだけれど、もう関係ないか。


廊下に出た瞬間、あの甘い香――公爵邸のどこにでも漂う魔除けの香から離れて、空気が少しだけ軽くなった。


いつも嫌だった、あの香り。理由は分からない。ただ、この屋敷にいると体が重くなるのは、病弱のせいだとずっと思っていた。



ブリジットは泣いていた。


私は泣いていなかったので、少し申し訳ない気持ちになった。


「予防薬の在庫は三ヶ月分、南棟の薬品庫にあります。使い方はこの紙に」


「コレット様……」


「一瓶で大人十人分。子供は半量です。冬の変わり目に飲ませてください。忘れずにオスヴィン様にお伝えを」


ブリジットは紙を受け取り、何度もうなずいた。目が赤い。鼻の頭も赤い。こういうとき、朱紋草を煎じた湯で顔を洗うと腫れが引くのだけれど、今それを言うのは違う気がした。


「あと、リュヌは」


仔犬のときから育てた嗅覚犬。銀花草と月見蓮の匂いの違いを嗅ぎ分ける天才。あの子が私の膝の上で丸くなって眠るときの重さを、手のひらがまだ覚えている。


いえ。今は考えない。


「リュヌのことは、ナシェル様がお引き取りになりました」


ナシェル。オスヴィンの弟。辺境の騎士団にいるはずの、ほとんど会ったことのない人。なぜリュヌを。不思議に思ったけれど、訊ける相手はもうここにはいない。


「大事にしてもらえるなら」


それだけ言って、部屋に戻った。


着替えは三日分。薬草袋。乾燥させた銀花草の束。石臼は重いから置いていく。父の薬草図鑑だけは、何があっても持っていく。


革の装丁を開いた。ページの端が少し黄ばんでいて、父の字で書き込みがびっしりある。「銀花草は夜明け前に摘むこと」「万象草の自生地は北方雪山の標高二千以上」。几帳面な字。でもときどき走り書きになる。急いでいたのだろう。患者が待っていたから。


図鑑を閉じた。鼻を近づける。革と、微かに薬草の残り香。もうこの匂いは父のものではない。乾いた記憶の匂いだ。



実家の門をくぐったとき、母が庭に立っていた。手には洗い物の入った籠。


「あら」と母は言った。「早かったわね」


この人は、こういうときに泣かない。男爵家を一人で維持してきた手。その手のひらの硬さを、私は知っている。


「お母様、私、旅に出ます」


母は洗い物の籠を地面に置いた。しゃがんで、立ち上がって、それから私の顔をじっと見た。


「どこに?」


「分かりません。薬草を探しに。自分の体を治せる薬草を見つけるまで」


嘘ではなかった。でも全部でもなかった。本当は――ここにいたら、ずっと「代わりのきく人間」のままだ。それが怖いだけだった。でもそれを口に出すと、ただの意地になりそうで。


母は少し考えてから、家の奥に入り、戻ってきた。布に包んだ銀貨三十枚。


「お父さんの薬草図鑑は持っていくの?」


「はい」


「そう」


母は私の肩に手を置いた。力加減がちょうどいい。強すぎず、引き留めない。


「あなたの代わりは、私が探さなくていいわ」


その言葉の意味を噛みしめるより先に、鼻の奥がつんとした。薬草図鑑の革の装丁を抱きしめた。風が庭から吹き込んで、母の洗い物の匂いがした。石鹸と、日向の匂い。


泣かなかった。でも、目の奥が熱かったことは認める。



街道に出た。


靴擦れが右足の小指に当たる。荷物は薬草袋と図鑑と着替え。銀貨三十枚。方角は――南。多分、南。太陽の位置がそう言っている。


風が吹いた。魔除けの香の匂いがしない。公爵邸を離れて初めて気づく。あの匂いは、いつも私の周りにあった。


ない。今、ない。


足が軽い。というか、体が軽い。病弱は相変わらずだけれど、何かが一枚、はがれた感じがする。


街道の土は乾いていて、踏むとさくさくと小気味いい音がした。遠くに馬車の車輪が軋む音。鳥の声は三種類。名前が分からない鳥が二種類と、たぶん雀。


「私の代わりを探してきます」


誰にともなく呟いた。皮肉のつもりだった。でも口に出したら、少しだけ笑えた。


街道の向こうに、見たことのない丘が並んでいた。丘の斜面は淡い緑で、もう春の草が伸び始めている。あの丘の土には何が生えるだろう。薬草があるかもしれない。ないかもしれない。


知らないことが、今は怖くなかった。


薬草袋の紐を握り直して、歩き始めた。


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