9話 バンダナと老婆の謎(ぺぺちゃんが老婆になった件)
手に持った槍は昨晩より軽く感じた。両手で持ち、振り下ろしてみる。
驚くほど素早く空気を切り裂いた。突きから薙ぎ払いを入れ、また振り下ろす。
ビュンッ!ヒュン!と唸る槍。
佐藤多喜二は生まれてこの方、槍など持ったことはない。
不思議そうに自分の手を見る。
横を見るとマスターが片手でメイスを振り回している。
そのスピードは昨日の勇剛にも劣らない迫力だった。
「なんか筋肉から力が溢れてくるぜッ!」
マッチョが恍惚の叫びを上げた。
「うおおおおおお!!!!」
吠えるマッチョ。高速回転したバトルアクスは、竜巻でも引き起こしそうな勢いだ。
「あちょおーーー!!!!」
叫ぶマスター。メイスは残像で数十本に見える。
二人とも人間技ではなかった。
四本ツノの肉を食べたこと。それ以外の可能性は見つからなかった。
肉を食べた時に感じた生命力、湧き出る力は気のせいではなかった。
ぺぺちゃんが目を見開いて驚いている。
神官が祭壇に置いてある鐘を激しく鳴らした。
咳払いをして、二人に注意を促す。
それに気づいたマスターとマッチョは、動作を止めるとはあはあと息を切らした。
——効果持続時間とかあるのか?
多喜二は手に持つ槍を見つめた。
神官はぺぺちゃんに何かを言い、荷物を持たせる。
「バンダナっ」
ぺぺちゃんは言い、多喜二の手を取ると引っ張るように進んだ。
「いいなあ……」
マスターが羨ましそうに言った。
あの枯れた森の、光る場所への出発だった。
四人はぺぺちゃんを先頭に出発した。行く先々で村人が四人に声をかけた。
農機具を担いでいる。これから復興に向かうのだ。薄汚れ痩せこけてはいたが、目には力が宿っていた。
——喫緊の危機は去った。
しかし小さい四本ツノ、鏡の中の老婆という呪いの存在を知った今、本当の危機はまだ去っていない。気を引き締めた。
手首を見る。黒い痣は指の形で残っている。
さっきの老婆の言葉、思念の意味を考える。
——己を嘲った……
あの駅のトイレにいた時、歯科受診どころか寝る間も惜しんで教授のデータ収集と分析に追われていた。どれほどやっても、教授の機嫌を損ねれば学位は出ない。大学にも残れず、就職の望みさえ絶たれる。鏡の前で逡巡していた。
電車の発車まで残り五分。
逃げるか? 逃げてどうなる?
精神的に追い込まれていた。
今もはっきり覚えている。
確かに己を嘲った。
だが、そんな人間など、この世に腐るほどいるだろう。
なぜ自分なのか。なぜ、よりによって自分なのか。
多喜二は、じっと右手首の黒い痣を見つめていた。
物思いに耽っていたのだろう。気づくと心配そうにぺぺちゃんが振り向いて顔を見上げている。右手の痣を指差し、首を振って何か言った。
その顔は悲しげであった。
心配いらないと言うように首を振って、ぺぺちゃんににこりと笑った。
——そうだ、こっちでまだ生きてる。やらないといけないこともあるはずだ。
槍を持つ手に力が入る。
道は、集落を抜けて枯れた森へと続いていく。
陽は高くのぼり、柔らかな風が吹いている。雨でも降れば、また植物も芽生えるだろう。老婆の呪いの影響の強さを思い知らされた。
——あの老婆は一体何者なんだ?
後ろではマスターが薄汚れたスーツの上から革ベルトに吊るしたメイスの柄を握っていた。そして突然引き抜いたかと思うと、枯れた大木にメイスを叩きつけた。
「ははははっ! 見たかーッ!」
叫ぶマスター。
木の幹は簡単に砕け、折れた木はミシミシとマスターの方向に倒れた。
どーん!
「イッテ!いててっ」
木は逃げ遅れたマスターの薄くなった頭頂部に直撃した。
頭を抱えてうずくまるマスター。
それを見たマッチョが真剣な顔になる。
素早い動作で背中に背負ったバトルアクスの留め金を片手で外すと、そのまま別の大木に向かって縦に振り下ろした。無駄のない動きだった。
斧は木の幹を粉砕し勢いのまま向こう側に突き抜ける。
その衝撃は、上下にバリバリと亀裂を走らせた。
木はまっぷたつになり左右に倒れる。
「筋っ肉っ!」
吠えるマッチョ。
どどーん!!
右側に倒れた木が、まだうずくまっているマスターの頭頂部に寸分たがわず直撃した。
「いてッ! もうッ!」
怒るマスター。
ぺぺちゃんが怖い顔をして睨んでいた。
多喜二は冷酷な目をして見下ろした。
しゅんとする二人。
——しかし、枯れているとはいえ大木だった。頭に二回も直撃して「いてっ」で済むものだろうか?四本ツノの肉の効果……?自分だったら怪我じゃすまない。
四人は黙って歩いていた。
マスターは両脇に手をやり、マッチョは時折周囲を警戒するように首を回していた。
ぺぺちゃんだけが、黙々と前を向いて歩いていた。
しばらく歩いた頃、マスターがポツリと口を開いた。
「……なあ、あの老婆は何者だと思う?」
多喜二も同じことを考えていた。
「この世界に自分たちを連れ込んだ張本人だけど……」
多喜二が言い淀んだ。
「鏡の住人、あのギリシャマッチョもだよな?」
マッチョが勇剛を鏡にひきずり込んだ手を思い出す。
「それに……あの子どもの笑い声……」
老婆の夢を見ると、必ず子どもの笑い声が聞こえてくることを伝えた。
「ドラゴンの絵も描いてあったな」
「……老婆は、鏡の牢獄から抜け出せない」
多喜二は推理する。
「すべてを滅ぼす、そう老婆は言った。そのために力を欲している。おそらく負の力を呪いを通して集めている……でもなんのために?」
マスターが両脇に手を当てた。
「俺にもその痣あるけど、みんなは……」
マスターが多喜二の手首の痣を見て二人に聞く。
「俺にはないみたいだ」
マッチョが言った。タンクトップから見える体には痣らしきものはなかった。
多喜二も、右手首の痣以外に痣はなかった。
「……どういうこと?」
沈黙のまま歩を進める一行。
しばらく歩くとぺぺちゃんが立ち止まった。胸元のペンダントを握りしめている。
弓を持つ右手が震えていた。
周囲を警戒していた。微かな獣臭が漂っている。
風の音だけが、枯れた木の枝を揺らした。獣の気配はない。
ぺぺちゃんは口に指を立てると、静かに登り坂を歩いていく。
開けた小高い丘の上に、祠のようなものが見えた。
白い石が不自然なほど輝いて見える。光るものの正体とすぐに分かった。
石でできた、神社のお堂のような雰囲気だった。
神官とぺぺちゃんは、なぜここに自分たちを連れてきたのだろう?
祠の階段の前に立つと、ぺぺちゃんは持ってきた食べ物を供えた。
跪き、両手を組み合わせ何かを唱えている。
獣臭がさらに強くなってきているのに気づく三人。
祠の裏を覗くと枯れ枝が敷き詰められた三、四メートルほどの窪みがあった。
四本ツノの巣? 他にもいる?
「ちょっとぺぺちゃん?」
ぺぺちゃんの肩に触れたとき、体がぐらりと揺れた。
チュニックの右袖が捲れ、上腕に黒い痣があるのが見えた。
意識がない?
その時、ぺぺちゃんの記憶——過去の映像が多喜二の脳裏に流れ込んできた。
右手首の痣がうずく。
緑豊かな森、澄み渡る沢、鳥や小動物の姿、緑に囲まれた祠、そこにぺぺちゃんが立っていた。しかしすぐに場面は変わり、枯れ果てた森の祠で鏡を見るぺぺちゃん。
老婆が現れ右腕を掴む。その恐怖に見開かれた目が、バンダナを見つめる。
そして祠の奥を指差した、
そこに自分がいる、というように。
気がつくとぺぺちゃんは息をしていなかった。支えるように手を伸ばす。
「ぺぺちゃん? ぺぺちゃん!」
多喜二の腕の中で糸が切れたように崩れ落ちるぺぺちゃん。
ペンダントが胸元できらりと光った。そこに刻まれた紋様は祭壇の四本ツノに描かれた護符と似ていることに気づいた。
次の瞬間、多喜二の右手首の黒い痣がぼうっと熱くうかび上がり、黒い霧となってぺぺちゃんの右腕の痣へ吸い込まれていった。
多喜二の右手首の痣はなくなっていた。
そして操り人形のように頭をうなだれ、重力を感じない動きで浮かび上がる。
ぺぺちゃんがゆっくり頭をもたげた。
可憐だった顔が歪み、筋肉が引きつる。口角がありえない角度まで釣り上がった。
その顔はあの老婆になっていた。
嘲笑の顔を三人に向ける。
『お前らは死んで、呪いの元となれ!』
言葉ではない、思念として意識に届く。
その背後に子どもの笑い声が響いた。
晴れていた空が、渦巻く厚い雲に覆われていく。雷が鳴り響く。
『すべて、……すべて、……我を含めて、すべて滅びろ!』
老婆の苦しげな嘲笑が枯れた木々を震わせる。
理不尽で不条理で圧倒的な力を感じた。
どれだけ呪われているのだろう。
深淵を覗き込むような虚無感、絶望感——が、老婆の思念として多喜二の精神に深く刻み込まれた。
その時、窪みの影が動く。
小さなツノを生やした四本ツノが三体、四体、五体と起き上がり、祠の影から姿を現した。
老婆の叫びのような思念が意識に轟く。
『皆殺しじゃあ!!』
『あはははは……』
背後に子どもの笑い声が響く。
雷が森に落ち、閃光と轟音が響いた。
老婆の影がぺぺちゃんから離れ、四本ツノにまとわりついていく。
ぺぺちゃんが地面に崩れ落ちた。
「ぺぺちゃん!」
多喜二の悲痛な叫びが枯れた木々にこだました。
小熊のような四本ツノは唸り声を上げると、影を吸収し、みるみる体が膨れ上がる。
それはたちまちのうちに牛ほどの大きさとなった。
燃えるような目が狂気に満ちている。
マスターがメイスを構えた。昨晩とはうって変わって頼もしく見える。
斧を構えたマッチョはさすがの安心感だ。
多喜二は心象風景で見た祠の奥、そしてその前で倒れているぺぺちゃん——四本ツノよりそちらに気を取られていた。
息を静かに吐くと高鳴る胸を押さえ、槍を構えた。
五頭の四本ツノが一斉に咆哮を上げ、襲いかかってきた。




