5話 多喜さんの明日 (ポンコツたちの逆襲)
四本ツノは祭壇の後ろに続く木の扉の前で咆哮を上げていた。
中には村人たちが立てこもっているのだろう。巨体で木の扉に体当たりをし、ツノを振り回し荒れ狂っていた。
神殿の脇から祭壇を覗いた時、その四本ツノと目が合った。
その魔物は単なる獣ではなかった。
頭から突き出す二本のツノは、獲物を貫く槍のように鋭く尖っている。顎から湾曲して伸びるもう二本は、首元を守りながら逃げる獲物を絡めとるための鉤爪。
熊のように太い前脚。その巨体は、重厚でありながらしなやかに動く。
——人間を捕食するだけに生まれた生き物だ。
一瞬で凍りつく山田多喜とバンダナ。
多喜は、松明を落とした。
バンダナは震える手で槍を構え、内股になっていた。
マッチョも震えながら、筋肉を誇示するように斧を構える。吐く息が荒い。
多喜がメイスを構えようとしたその時——
脳天から肛門に稲妻が走った。
前触れもなく、鋭い痛みが下腹部を襲う。
昼間のプロテイン?さっきの泥水?
——こんな時に腹痛なんて!
額に脂汗がにじむ。
意識が肛門に全集中した。
肛門が呼吸をしないよう、きゅっと力を込めた。
「下がれ!」
勇剛が叫ぶが、耳に届かない。
——行くならあそこだ!
鋭い目で捉えたのは、近くの木立だった。
巨体の四本ツノと勇剛は、目と目を合わせて対峙していた。
三人を守るように前に立ち、剣先を獣の顔に絶えず向ける。
四本ツノが一歩前進し、勇剛が一歩後ずさる。
勇剛の長剣を警戒しつつも、首をふり間合いを測る四本ツノ。
「……また俺のせいで……仲間を危険にさらすのか?」
勇剛の口から呟きが漏れた。
「くそっ……今度こそ……誰も死なせない……」
過去の何かが脳裏をよぎったのか、勇剛の足が一瞬すくむ。
勇剛の背中の後ろで、三人は武器を構えて震えていた。
互いの息遣いが聞こえてくる。
勇剛は唇を噛みしめていた。
四本ツノは対峙に飽きたかのように、首を低くし前足を上げる。獲物を捉える肉食獣の動きだった。
その時、多喜の下腹部に束の間の平穏が訪れた。
強烈な第一波が去っていく。だが第二波はもっと過酷になるはずだ。
ここで敗れれば、自らの「存在」に深い爪痕を残すことになる。
——今しかない!
多喜はメイスを握り直した。
かつて野球部でキャッチャーをしていた時の感覚が蘇った。あの日、チームを敗北に導いた自分が重なる。
「今度は、違う!」
四本ツノの顔をセカンド送球に見立て、狙いを定めメイスを振りかぶる。
「くそだらああ!!」
左足を踏み出し、全身をひねってメイスを投擲した。
野球と決別したあの日の悔いを、母への怒りを、理不尽な人生への憤りを——すべてを乗せたメイスは、四本ツノの顔面に向かって飛んでいった。
その瞬間、再び多喜の下腹部に激痛が走った。
第二波の到来だ。多喜は右手で尻を押さえて駆け出す。
メイスは空気を裂き、四本ツノの顎を粉砕した。
鈍い破裂音と共に、牙とツノが砕け散り、巨体がのけぞった。
血飛沫が上がり、薄暗い松明が赤黒く飛び散った血を照らす。
出鼻をくじかれた四本ツノは苦痛の叫びを上げる。
勇剛の目前を多喜が駆け抜けた。
「……!?」
勇剛が何かを叫んでいるようだったが、多喜の耳には入らない。
後ろ足で立ち上がり、怒りの咆哮を上げ、多喜に狙いを定める四本ツノ。
「……今だ!」
勇剛が動いた。一歩踏み込み、居合の構え。
時が止まった——
次の瞬間、閃光が走る。
剣筋は美しい軌道を描き、ツノの間を切り裂いた。
血が一拍遅れて吹き出す。
「うおおおおお!!」
苦痛に荒れ狂う四本ツノに、マッチョの戦斧が叩き込まれた。小柄な筋肉の塊が躍動し、鋼の重みが肉を抉る。
「こっちだ!!」
バンダナが反対側から槍を繰り出す。死角から脇腹へ、鋭い刃が深々と突き刺さった。
そして勇剛の長剣が、巨獣を切り裂いていった——
*
多喜は木陰まで走っていくとズボン、パンツを下げ、即座に腰を下ろした。
間一髪とはこのことだった。
はあ、と顔を上げる。
渦巻く空が不気味な夜を演出していると思ったその時、続けて下腹部に閃光が走った。
「うぅっ!」
多喜がパンツとズボンを上げた時、
「ひいいいいい!!!」
しわがれた絶叫が闇夜に響いた。
あの老婆の顔が浮かび、ぞくっと背筋が凍った。
多喜の「存在」は、ぎりぎりで保たれた。
祭壇の前に戻ってきた時、黒褐色の巨体が血の海に倒れていた。
勇剛の長剣が、脳天に深々と突き刺さっていた。
三人は息を切らしている。
三人は疲れた笑みを浮かべ、手を叩き合い健闘を讃え合った。
しれっとその輪に加わろうとした多喜の手は、空を切った。
三人は無言で視線を逸らす。
マッチョの白いタンクトップが返り血で赤く染まっている。
バンダナは槍を杖代わりに息を整えていた。
三人とも生きていることが信じられないような顔をしていた。
勇剛はメイスが砕いた四本ツノの顎、斧が切り裂いた胴体と首、槍が貫いた脇腹を一瞥した。
そして多喜をまっすぐ見据え、無言で拳を突き出した。
多喜も笑みを浮かべ、拳を合わせて返す。
緊張から解き放たれた勇剛は疲労したように伸びをした。
そして何かに導かれるように、祭壇に向かって歩いていく。
「……助けようと思った自分が、助けられたな」
勇剛は小さく呟いた。
「あの時も、仲間に頼ることができたら……」
祭壇にもたれかかった時、重いビロードの布がずるりと落ちた。
勇剛の目が驚愕に見開かれる。
現れたのは黒ずんだ大きな鏡だった。
驚く間もなく、鏡の中から伸びた腕が勇剛をつかんだ。
「うわっ!」
三人の目の前で、勇剛は鏡の中に強引に引きずり込まれた。
勇剛が鏡の向こうに消えた瞬間、黒ずんだ鏡面にびしっと一本の線が走った。
慌てて駆け寄る三人。
古ぼけて割れた鏡に、歪んだ三人の間の抜けた顔がぼんやりと浮かんだ。
「今の見ました?」
バンダナが言う。
「見た見た! あの鏡から出てきた腕! すごいマッチョだった!」
マッチョは興奮している。
「そこじゃない」
山田多喜は突っ込む。
引きずり込まれる勇剛の背景——鏡に映っていたのは、LEDの冷たい光と電子看板に照らされた見慣れた都会。
「帰った? あれ新宿でしたよね?」
バンダナが言う。
「やっぱり帰れるんだ」
「鏡があればな」
山田多喜が答える。
「早く帰って、あの腕みたいに仕上げるぜ」
マッチョは力瘤を見せた。
三人は無言で顔を見合わせた。
——帰れるかもしれない。
その思いが三人の胸を満たしていた。
山田多喜は、床に転がるメイスに視線をやり、それから自分の手を見た。
投擲したメイスの手応えは、まだその手に残っている。
確かに何かを成し遂げた証だった。
——日本に帰って、もう一度やり直すんだ。
山田多喜は拳を固く握る。
その手に、かすかな力が宿っているのを感じた。
——そのためには、鏡を探さなければ……
夜空では、雲が裂け、満月が姿を現していた。
月光が神殿を静かに照らしていた。




