31 話 多喜さんの帰還(ほんとに最後)
多喜彦が鏡に吸い込まれてしばらくすると、鏡に一本の線が入る。
神官が布をかけた。
「帰っちゃった……」
多喜二の胸に、取り残された焦燥感と寂寥感が忍び寄る。
……マスターもこんな気持ちだったんだな。
いや、もっと酷かった。
山の神殿で子どもに痛めつけられ、ひとりぼっちでどんなに心細かっただろう。
ぺぺちゃんが潤んだ瞳で多喜二を見ていた。
——次はマスターの番だ。
今夜は、マスターのそばについていよう。
多喜二が顔を上げると周りに村人が遠巻きにして、同じように泣いているのが見えた。
ドラゴンの爪痕は、神殿だけでなく畑や水路、住居にも被害をもたらしていた。
——あのドラゴンも食べるのだろうか?
ふと思い、苦笑する。
雨上がりの村に輝く西陽に目を細めながら、村の方向を見る。
晴れ渡った空に虹が架かっていた。
それは、希望と別れの橋のように多喜二には感じられた。
ぺぺちゃんが隣に来て寄り添う。
「アシタ、マスター、カエル」
ゆっくりと多喜二はぺぺちゃんに伝える。
ぺぺちゃんがうなずく。
「アシタ ノ アシタ タキジ カエル……」
ぺぺちゃんの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ぺぺちゃん……」
ぺぺちゃんは多喜二に抱きついた。
多喜二もぺぺちゃんを抱きしめる。
「タキジ……」
二人は見つめ合う。
どちらからともなく目を閉じ、顔を近づける。
お互いの唇と唇が触れ合いそうになったその瞬間、
ズシーン!!
背後の神殿の瓦礫から、柱が鈍い音を立てて倒れた。
二人ははっと我に返る。
ぺぺちゃんは顔を赤らめて多喜二から身を離した。
神殿の瓦礫の片付けをしている村人のもとに走っていく。
「タキジッ! アトデッ!」
振り返って手を振るぺぺちゃんの顔は、まだ赤い。
「ぺぺちゃん……」
多喜二はため息をつくと、頭を振り多喜の待つ蔵の二階に戻っていった。
——あと少しだったのに……
*
「多喜彦さんは無事帰りましたよ。マスター大丈夫ですか?……ん?」
多喜二が扉を開けると、多喜は恍惚の声を上げていた。
「そこ! そこ! ギモジイイ……」
多喜は村人に按摩をしてもらっていた。
「バンダナくん、君もやってもらったらいい」
「……」
はー、とため息をつく多喜二。
「なんたってあのドラゴンを、プロレス技で倒した英雄様だからな。もうちょっと右」
村人にマッサージの指示を飛ばす多喜は、当然というような顔をする。
「なんなら、ずっとここにいます?」
少しでも同情した自分がアホらしくなり、冷ややかな目で言い放つ。
「そんなあ。そんなこと言わないでイッテテテ! そこはだめ!!」
苦悶の表情で呻く多喜。
「明日は大丈夫そうですね?」
「おうよ! 明日の朝、帰るぞ!」
「多喜彦さん、無事帰りましたよ」
「……ああ」
沈黙。
それぞれの胸にこの世界に来てからの出来事が去来していた。
「最初、あの荒野で一人きりで、もしマスターに会わなかったらと思うとぞっとします」
しばらくして多喜二が口を開いた。
「こっちもあのお茶の味、まだ覚えてる」
多喜二が最初の出会いを思いだして苦笑する。
「最初会った時、二晩いたって言ってたの嘘でしょ」
多喜がばつの悪そうな顔をした。
「プロレス技をかけて遊んだのは、子どもの時以来だったなあ」
しみじみと多喜は口にする。
「その腕じゃ、しばらく関節技はかけられないですね」
「……」
しばらくすると、ぺぺちゃんがバスケットに焼いた肉とお茶を持って入ってきた。
入れ替わりに村人が頭を下げて出ていく。
「ぺぺたん、ありがと」
寝たまま手を伸ばした多喜が、肉の塊を噛みちぎる。
「ドラゴン、ニク」
「ぶっ!!」
思わず吐きだすと、ぺぺちゃんが吹き出した。
その笑顔に見惚れる多喜二。
おそるおそるドラゴンの肉に手をつける。
「やっぱり食べるんすね、こんな経験なかなかないすよ」
「帰ったら、マッチョに自慢しような」
「……」
——ぺぺちゃんを置いて帰れるのか。
もっと一緒にいたい。
言葉も覚えたい。
でも……
日本で待つ家族もいる。
やりかけの研究もある。
教授に潰されかけた、あの日々。
それでも、前に進まないといけない。
ぺぺちゃんが神殿を守る使命があるように——
俺にも、やり残したことがある。
多喜二の心は千々に乱れた。
その葛藤を紛らわすように、ドラゴンの肉を口に運ぶ。
「結構いけるぞ。塩加減がいい」
「……スミレさんのおかげですかね?」
多喜は眉にシワを寄せている多喜二を横目で見る。
「……帰るよな?」
多喜はぼそっとつぶやく。
「わかんないっす……」
「……バンダナが思うようにしたらいい」
「……」
「今日は疲れた……もう寝るわ」
多喜はごろんと背を向けた。
多喜二はため息をつき、ぺぺちゃんに目を向ける。
「タキジ、アシタ」
ぺぺちゃんも立ち上がる。
多喜二も横になり毛布をかぶる。
今日はいろいろあった。
目を閉じると、ぺぺちゃんの顔が浮かぶ。
笑った顔。
泣いた顔。
祠で抱きしめた後の温もり。
全部、忘れたくはない。
でも——
明日、マスターを見送る。
その後、ぺぺちゃんと一日を過ごす。
決断は、その時でいい。
多喜二は、そう自分に言い聞かせた。
眠れぬ夜が、静かに更けていく。
*
翌朝は晴れ渡っていた。
冷え切った空気の中、多喜は目を覚ます。
痛む体を起こして、ぺぺちゃんが持ってきたスーツに着替えた。
まだ湿ってはいたが、まさかこの服のままで帰るわけにはいかない。
怪我をした左肩はずきずきと痛む。
三角巾で左腕を固定してもらう。
多喜二に支えられながら、蔵を出た。
神殿に着くと、村人が集まっていた。
ピレさんもまだ村にいた。
「マスタア……」
ピレさんが潤んだ目で多喜に声をかける。
いよいよ多喜の帰還の時だった。
「マスター、アリガト」
ぺぺちゃんが多喜に感謝の思いを伝える。
そして、ぺぺちゃんは多喜に小さな磨かれた石を渡した。
「ドラゴン、ツノ……」
受け取り、じっと見る多喜。
小さな石だった。
磨かれて、光を反射している。
——これは、あの戦いの証だ。
多喜は、ぎゅっと握りしめた。
ポケットにしまい、やがて顔を上げる。
「ありがとう、大切にする。ぺぺちゃんも元気でな」
多喜は、ぺぺちゃんに微笑んだ。
「じゃあ、バンダナくん、行くわ」
二人に手を振る。
ぺぺちゃんが布を取る。その目は潤んでいた。
黒ずんだ鏡に多喜の顔が映り、それはすぐさまヘラクレスの顔に変わった。
その逞しい腕が伸びる。
「……ありがとう」
多喜は目を閉じて、つぶやいた。
そして、鏡の中に吸い込まれた。




