30 話 三人の多喜さん(本当にお別れ)
雨はいつの間にか止んでいた。
厚い雲の間から太陽が姿を覗かせる。
「痛え!!」
山田多喜の体はボロボロだった。
外れた左肩の関節が疼く。
三角巾はどこかに消え失せていた。
抑えようと伸ばした右手も、筋肉が断裂した激しい痛みで顔をしかめる。
ドラゴンが倒れるとともに多喜も元の大きさに戻っていた。
動かなくなったドラゴンの隣で体を起こせないでいる。
『良くやった……』
ヘラクレスの思念が響く。
「マスター!!」
多喜彦が瓦礫をかき分け、飛ぶように駆け寄る。
「立てるか」
「……無理。動けない」
「ちょっと我慢しろ」
多喜彦は多喜を背負う。
「いてて」
「マスタア……」
ぺぺちゃんが涙ぐんでいる。
その横には多喜二。
しっかりと腕をつかんで離さない。
「ぺぺちゃん……」
「タキジ……」
多喜二はぺぺちゃんを抱き寄せる。
多喜二は混乱していた。
ドラゴンが現れ、神殿が崩れ、死を覚悟した。
鏡が割れて、マスターたちが出てきた。
ギリシャマッチョマンが巨大化して、マスターと一体化し、
ドラゴンと戦った。
そして、一緒に出てきた後ろに震えている老婆と子ども。
ピレさんの行方は?
考えなければいけないこと、情報量が多すぎた。
震える手で、ぺぺちゃんをぎゅっと抱きしめると、少し頭が回転してきたような気がした。
「……そうだ、鏡」
鏡が、割れた。
鏡の住人が、具現化した。
ポータルとしての役目は、どうなる?
トクン
——帰れない……?
「……ギリシャマッチョマンは?」
すでにマスターは、元の大きさに戻っていた。
マッチョマンの姿は、見えない。
ドクン
——もう鏡を見てもマッチョマンは出てこれない?
多喜二の顔が、青ざめる。
「バアサン……お前はもう鏡の中に戻れないのか?」
多喜二は、後ろを振り返る。
そこには、しわくちゃとなった老婆と青ざめた子どもがびしょ濡れになって震えていた。
少し離れて神官がうろんな表情で見ている。
神殿を壊された怒り——
ドラゴンの恐怖——
老婆への恐れ——
それらがないまぜとなっているようだった。
「……」
老婆は何かをつぶやくが、聞いたこともない言語だった。
多喜二はため息をついた。
——鏡の外に出れば力は使えないのだろう。
その時、馬の蹄の音が聞こえた。
「ハイヤー! バンダナッ! ぺぺッ!」
ピレさんが、裸馬に騎乗して駆け寄ってくる。
馬を客車から外し、暴れる馬を必死になだめながらここまで連れてきたのだろう。
「ピレさん!」
馬から飛び降りると背嚢から布に包まれた鏡を取り出した。
「祠の鏡!」
徒歩で往復2時間ほど、馬で雨の中走って間に合う距離なのか。
——まあ間に合うんだろう。
ピレさんの無事を確認し、多喜二は安堵した。
その鏡を見ると——老婆の目が見開かれた。
「ピレさん! 無事だったか!」
多喜彦が多喜を背負って現れる。
「多喜彦さん! マスター!」
多喜彦は、多喜を石の陰にそっと降ろして座らせた。
「だけど、どうしたら帰れるんだ?」
多喜二がつぶやいた時——
「まだ……マッチョマン……俺の中にいる……」
多喜が息も絶え絶えに、掠れた声で答えた。
「帰れるんですか?」
「……老婆たちの力が……必要らしい」
「その……鏡を……」
その時、多喜の体から光が発せられる。
そして、多喜の口を借りて、ヘラクレスが宣告した。
『永遠の魔女、虚ろなる子よ——』
山田ヘラクレス多喜は立ち上がる。
『お前たちの悲願は達せられる』
『永遠の鏡の呪縛から解き放たれた今——』
『……』
『我々はこのままではもう長くは持たない』
老婆が目を伏せた。
「どういうことですか?」
多喜二が尋ねる。
『長く生きすぎた、鏡の外では体はすでに朽ち果てている』
『これでようやっと……眠りにつける』
ほっとしたような、言葉だった。
そのやり取りは思念となり、この場の人間に伝わっていた。
『まさか鏡の牢獄から抜け出せるなんて……思いもよらなかったわい』
ぺぺちゃんの呪いを払う光——
ヘラクレスの救出——
そして鏡が割れたこと。
そのすべてが同時に行われなければ、このような事態は引き起こされなかった。
『この者たちを今一度元の場所に戻したい』
ヘラクレスが、老婆に協力を要請した。
それは、再び鏡の牢獄に繋がれることを意味した。
『良いのかえ?』
老婆が、問う。
『鏡に戻ったらまた狂気に取り憑かれるぞえ? またあの狂気の中へ』
『私が共に往こう。 狂気にはさせない』
ヘラクレスの言葉が、静かに響く。
『木偶の坊が! 言うようになったわい!』
老婆はフンと鼻を鳴らした。
『最後の、仕事だ』
『鏡を、持ってまいれ!』
ピレが鏡の布を取った。
『鏡に戻り今一度……』
『救い手よ、そなたを牢獄に繋ごうぞ』
老婆が鏡に触れると、鏡面が黒ずんでいった。
『ワシの可愛い坊主』
老婆は、子どもを見た。
『おぬしはここに残れ』
『そんなあ! バアサンと一緒がいい!』
子どもが、叫ぶ。
ぺぺちゃんが、子どもの肩に手を置いた。
『小娘……頼んだ』
すでに老婆は鏡の中にいた。
その顔は苦痛に歪み始めた。
『バアサン!!』
ぺぺちゃんは、聖典の言葉を唱え始めた。
ぺぺちゃんの胸から光がほとばしり——
子どもを包み込んでいった。
『そんなの……いやだよ』
呪いから解き放つ、浄化の言葉だった。
『縛り付けてすまんかったの……』
老婆の声は、優しかった。
『もうゆっくり休め』
子どもの体は徐々に透き通り始めていった。
老婆は初めて、優しい顔で微笑んだ。
『次は、もっと幸せな人生を歩むといい』
『また遊んでくれる?』
子どもは、崩れた神殿の床に立ち尽くし、多喜を見上げた。
「ああ、生まれ変わったらな」
『約束だよ……』
その言葉とともに子どもの姿が消えた。
多喜二は、涙を拭った。
——せめて、安らかに……
『さて、救い手よ——覚悟は良いか?』
老婆が言い終わらないうちに——
多喜の体から光が抜け出て、鏡に吸い込まれていった。
多喜が崩れ落ちる。
一人では立っていられないほど衰弱していた。
「マスター! 大丈夫ですか?」
多喜二と多喜彦が両側から支える。
『勇者たちよ——』
鏡にはヘラクレスが現れている。
『元の場所に戻そう。わかっているだろうが……一人ずつだ』
多喜たちは、顔を見合わせた。
「……誰から、帰る?」
多喜彦がぽつりとつぶやいた。
多喜二と、ぺぺちゃんの目があった。
「ぺぺちゃん……」
多喜二の声が、震える。
「タキジ……」
ぺぺちゃんは、もう涙を流していた。
「自分は、一番最後でいいです」
多喜二の声は、かすれていた。
ぺぺちゃんとの時間を、
少しでも長く。
多喜彦と多喜は、その様子を黙って見守った。
「……マスターは一晩は、休んだ方がいいと思います」
多喜彦がうなずいた。
「じゃあ、あの蔵の二階まで、おぶっていくか」
神殿裏の蔵は、ドラゴンの攻撃から外れ無事だった。
改めてみると、
神殿の屋根は無惨に崩れ落ちていた。
祭壇裏の扉があった辺りも崩れていた。
その時——
地下へと続く扉が開き、避難していた村人が出てきた。
崩れた神殿の有様を見て、悲嘆の声が上がり膝をついている。
そのうちの一人が叫んだ。
神殿前の広場にドラゴンが倒れていた。
『倒した……のか?』
次の瞬間、村人たちから歓声が上がった。
『勝ったんだ!!』
『異界人たちが、ドラゴンを倒した!!』
*
三人とぺぺちゃんは蔵の二階にいた。
まだ一週間あまりしか経っていないのに——
ここで過ごした日々がはるか昔のような気がしていた。
「いろいろ、あったなあ」
多喜彦が、つぶやく。
「ほんとっすね」
多喜二が同意する。
「マスター、大丈夫ですか?」
濡れたスーツを脱がせ、神官服に着替えさせると毛布の上に横にさせる。
「いてて……もっと大事に扱ってよ!」
「大丈夫そうっすね」
「今日これから、多喜彦さんが帰ります」
多喜が静かにうなずく。
「明日の朝、マスターの番ですからね! いいですか?」
「マッチョ、ありがとうな」
多喜は、痛む手を多喜彦に伸ばす。
「待ってるからな!絶対ジムに来いよ!」
「東京で……」
多喜彦はその手をがっしりと握った。
「ってえええええーーー!!」
多喜の絶叫が蔵に響き渡った。
ぷっと吹き出す、ぺぺちゃん。
「マスター、変わらないっすね」
「痛いもんは痛い」
三人は、笑い合った。
やがて、日が傾き始めた。
多喜彦が立ち上がる。
「そろそろ、行くか」
多喜と多喜二がうなずいた。
*
村人たちが集まっていた。
多喜彦は、一人ひとりに白い歯を見せて筋肉を誇示していった。
言葉は通じない。握手をし、肩を叩き合う。
それだけで十分だった。
夕刻の太陽が、破壊された神殿を照らしている。
祭壇周りの瓦礫は、村人たちが片付けをしていた。
「じゃ、マスターをよろしく」
「ジムで会いましょう!」
多喜彦が苦笑する。
「ジムがあればな」
いざ帰還するとなると、急に現実的になってきた。
金勘定が頭を占めてくる。
「まあ、なんとかなるか……金以外は」
多喜彦はつぶやくと、多喜二と硬い握手を交わす。
「帰ったら連絡します」
「東京で飲みにいくぞ」
「スミレさんのごはんも、ご馳走にならないとですね」
「楽しみだな」
多喜彦は白い歯を覗かせると、ぺぺちゃんたちに向き直る。
「ぺぺちゃんも、ピレさんも、神官さんも、ありがとうな」
茶色になり穴の空いたタンクトップでフロント・ダブル・バイセップスを決めたが、痩せた体では、前ほどのインパクトは残せなかった。
「……マッチョ」
ぺぺちゃんは涙ぐんでいる。
「元気にやれよ」
ぺぺちゃんに手を振り、白い歯を見せる。
四人が見守る中、神官が鏡にかかった布を取る。
多喜彦は、鏡に向き合う。
『勇者よ。ありがとう』
ヘラクレスの太い腕が伸びてくる。
——ああッ!!
多喜彦は目を見開き、目の前に迫るその逞しい体を目に焼き付けた。
戦いの最中は必死で直視できなかった。
改めて見ると、それは、多喜彦が理想とし、追い求めてきた完璧な肉体だったのだ。
「……これこそが完成形だ!」
恍惚の表情が浮かぶ多喜彦。
「俺もこの領域に行く!必ずこの高みに立つ!」
多喜彦は涙を流していた。
幸福感に包まれたまま多喜彦は、
鏡の中に吸い込まれていった——




