23 話 多喜さんの帰還(なみだの別れ)
神殿での夕食は祝宴のようだった。
倒したグリフォンの肉が振る舞われる。
ピレさんとぺぺちゃんの両親たちも加わり、久しぶりの賑やかな食事だった。
山田多喜は、左腕を攣ったまま右手で肉を頬張る。
痛みはあるが、笑顔は絶えない。
——やっと、帰れる。あとは、鏡を村に持っていくだけだ……
その安堵が、胸を満たしていた。
ぺぺちゃんが、何かを話しかけてくる。言葉は通じないが、多喜はうなずいて答える。
その横顔を見る多喜二。二人の間に流れる、言葉にならない何か。
多喜彦は、ピレさんと腕相撲をしている。負けたピレさんは、悔しそうに笑う。
賑やかな声が、神殿に響いた。
だが、多喜はふと気づいた。
この賑やかさは、明日には終わる。
村に鏡を帰しに行く。
そして日本に帰る。
その実感が、胸にじわりと広がった。
夜が更け、みんなが寝静まった頃——
多喜二と多喜彦は、そっと部屋を抜け出した。
多喜の寝息を確認してから、二人は神殿のテラスに向かう。
月明かりが、石畳を照らしていた。
「……マスター、どうします?」
多喜二が、低い声で切り出した。
「明日、鏡で帰ってもらうのが一番いいと思う」
多喜彦がうなずく。
「肩のこともあるしな。早く医者にみてもらわないと」
二人の表情は、複雑だった。
マスターを早く帰してあげたい。
それは本心だ。
だが同時に、寂しさもある。
それに自分たちも早く帰りたい。
「……最後まで、ちゃんと見届けないとな」
多喜彦が拳を握る。
「一人で残されたら、マスター、絶対不安になる」
多喜二も同意する。
「だから、俺たちは鏡を村に返しに行く。マスターはここの鏡で明日帰る」
「それが、ベストだ」
二人は、夜空を見上げた。
雲ひとつない、月夜。
呪いが解けた空は、そこまでも澄んでいた。
——でも、本当に大丈夫だろうか?
多喜二の胸に、かすかな不安が残る。
だが、その不安を口にすることはなかった。
*
翌朝——
朝食の席で二人は、多喜に告げた。
「マスター、肩大丈夫ですか?」
多喜二が心配そうに聞く。
「そりゃ痛いよ、腕上がらないし……」
多喜は苦笑する。
「その肩で、村まで帰るのは大変だと思うんです」
「ここの鏡で、先に帰って早く医者に診てもらった方が良い」
多喜彦が真剣な顔で言った。
「……でも、最後まで責任持って、鏡を村に持っていかないと」
多喜はそう言いながらも——
その顔に、ほんの少し期待の色が浮かんだ。
「それは、俺たちがやるから」
「マスターは、最後にあのクソキモババアの呪いを解いたんだ」
「先に帰るくらい、当然ですよ」
多喜は二人の顔を見た。
その目に嘘はない。
——本当にいいのか?
だが、肩の痛みが決断を後押しした。
「……そう? じゃあ。お言葉に甘えて」
多喜は、ほっとした表情を見せた。
「帰ったらマック食うんだ」
そのつぶやきに、二人は笑った。
*
食事が終わると、ぺぺちゃんが旅装を整え始めた。
多喜二と多喜彦も、それに続く。
両親とハグを交わし、何かを言い合っている。
多喜の裂けたリュックは縫われていた。
吹き飛ばされた皮靴も回収されている。
旅装を確認する三人。
ピレさんは年頃の幼さが残る顔で、三人に向かって笑顔で両手の親指を立てた。
ピレさんは旅装をしていなかった。
神殿に残るのだろう。
「ピレさんの魔法すごかったぜ!」
多喜彦が親指を立てて白い歯を見せ、背中を叩く。
「ピレさん、ありがとう!」
多喜二もピレさんと肩を抱いた。その時ピレさんが何か話した。ぺぺと聞こえた。
ぺぺちゃんを頼む的な感じ?
胸がざわつく。
多喜の前に出るピレさん。
ピレさんは潤んだ瞳で多喜を見た。
あの絶望的なグリフォンの戦いでは、誰もが死を覚悟した。
それを救ったのは、多喜だった。
その思いは誰もが共通していた。
感極まったようにピレさんは多喜に駆け寄る。
そして、熱く左腕ごと抱擁した。
「マスタアァーー!!!」
「ッテッエェェー!!!」
多喜の断末魔のような絶叫が神殿に響いた。
「ぺぺちゃん」
多喜二は、ぺぺちゃんに多喜を指差し鏡の布を取るジェスチャーをしてみせる。
頷くぺぺちゃん。
多喜は、大きく息を吐き出すと神殿を見回した。
この世界ともいよいよお別れだ。
太い石柱。
祭壇。
その上のタペストリー。
この神殿の山脈を背景に、老婆と子どもとグリフォン。
そしてその背後には、この山の主のようなドラゴンが描かれていた。
——ドラゴン……本当にいるんだ……
嫌なものを、最後に見てしまった……
多喜は、目を背けた。
「マスター」
多喜二が、ノートを差し出した。
「俺たちの連絡先、書いてあるから」
「帰ったら連絡くださいね」
「うちのジムに絶対来いよ」
多喜彦が、多喜の肩を叩く。
「大会、見にきてくれよな」
多喜は、二人の手を握った。
言葉にならない、熱いものが込み上げる。
——本当に、ありがとう。
涙腺が、緩んだ。
「ぺぺたんもピレさんも、ありがとう」
多喜は、深々と頭を下げた。
ぺぺちゃんが、微笑んでうなずく。
鼻水をすすった多喜は鏡に向き合った。
「じゃあ、行きますか」
多喜二が、ぺぺちゃんに合図をする。
ぺぺちゃんが、緊張した顔で布に手をかけた。
多喜は、大きく息を吸った。
——いよいよ帰れる。長かった。辛かった。でも、やっと終わる。
——日本のソウルフード……マック、牛丼、ラーメン……
帰ったら最初に何を食べよう……
その想像で、胸がいっぱいになった。
布が取られる——
鏡面に、多喜の顔が映った。
その顔が、ゆっくりと、
筋骨隆々としたギリシャ彫刻のような男に変わっていく。
「っしゃ!」
多喜は、思わず右手でガッツポーズをした。
「じゃ、先に東京で待ってるからな!」
鏡の中から腕が伸びてくる。
その腕が、多喜の脇を掴んだ。
瞬間、多喜は違和感を覚えた。
——こそばゆい?
——なにか違う……?
だが、考える間もなく——
多喜の体は、鏡に吸い込まれていった。
「マスター!」
多喜二が手を振る。
「また東京で!」
多喜彦も叫ぶ。
多喜の姿が、光の中に消えた。
ほっ、と二人は肩の力を抜いた。
「……良かった」
多喜二が、安堵の息を吐く。
「あの子ども、出てこなかったな」
多喜彦も、笑顔を見せた。
ぺぺちゃんが鏡に布を被せる。
その顔にも、安堵の色が浮かんでいた。
「じゃ、俺たちも行くか」
多喜彦がリュックを担ぐ。
「村に鏡を帰しに」
三人は、神殿を出た。
広場では、若者たちがグリフォンを解体している。
呪いが解けた街の人々、その顔は明るかった。
『おーい!』
現場を指揮している神官が、ぺぺちゃんに手を振った。
ぺぺちゃんがその声に明るくよく通る声で返した。
どっと笑いがおこる若者たち。
三人への声援が大きくなる。
二人はおうように手を振った。
——マスターは、無事に帰った。
その確信が、胸を満たしていた。
だが——
*
多喜は暗闇の中にいた。
「ちょっ、ちょっと……ここ、どこ?」
「あはははッ!」
子どもの笑い声が響いた。
「筋肉のおじさんの真似、上手だったでしょ?」
多喜の腰が、文字通り抜けた。
「た、助けてッ!」
叫ぶが、声は誰にも届かない。
「おうちに、帰して……」
多喜は泣いていた。
「あっははははは」
子どもが、手を叩いて笑う。
「どうしようかなあ?」
その目が冷酷に光った。
「百回笑わせてくれたら、ここから出してあげるッ!」
「……」
「”約束”する!」
「………」
拒否をしようと口を開くが、言葉にならない。
それはこの支配者からの絶対的な”約束”だった。
「コ……コマネチッ!」
………
「パワーーッ!!」
………
「だっふんだ!」
………
「ひき肉です」
………
「ぷっ!」
「ぶははははッ!」
子どもが、堪えきれずに笑いだした。
「あっははははッ!」
「だめだなあ、ギャグは面白くないけど、おじさんが面白いなあ!」
多喜は膝から崩れ落ちた。
「さっき、暗闇にいた時のあの絶望の顔……」
子どもが満足そうに言った。
「あれは最高だった!」
その目は限りなく冷酷に光る。
「こんな新鮮な不幸だったら、バアサンすぐ復活しちゃうなあ!」
多喜の体が震えた。
——老婆が、復活する?
その恐怖が、全身を駆け巡る。
「ずっと、ずぅーっとー」
子どもが囁いた。
「おじさんの不幸、見ててあげる!」
その笑い声が、暗闇に溶け込んだ。
そして——
遠くで、老婆の嘲笑が聞こえた気がした。
『ひーひっひっ……』
多喜は、絶望の淵に立っていた。




