21話 多喜さんと「存在」の証明(不憫対決なのです)
『あっはっはーはッ!』
暗闇の中に、影が浮かび上がる。
中世ヨーロッパの貴族のような衣装を着た、冷酷そうな子ども。
神殿の本で見た、あの顔だった。
『静かにせい!』
老婆が苛立つ。
『ずうっとおじさんを見てたけど、ぼくを呼び出せるほどの負のチカラを持ってるなんてすごいや!』
『やめぬかッ!』
老婆の体から、黒い影が抜けていく。
『呪った相手から同情されちゃあ、力もらえないね』
冷酷な目で老婆を見る子ども。
『バアサン、もうチカラはないよ!』
老婆の顔が蒼白になる。
『もともと弱ってたからね。タキさんたちを連れてきたのはいいけど……アテが外れたね!』
子どもの口元に、冷酷な微笑が浮かんだ。
『チカラとれないんじゃ、回復できないしね。それに……』
子どもが冷たく宣告した。
『バアサンのチカラ、ぼくが横取りしてたんだよ!』
その黒い影は、子どもの周りを渦巻いていく。
『ば、馬鹿な……』
老婆の体が、透けるように薄くなっていく。
『おじちゃん? 助けてあげようか?』
「ん? 助けるって?」
なんだか嫌な予感がした。
『簡単だよ? この問題が解けたら、助けてあげようかなあ』
ぞわり、と背筋に嫌な汗が伝う。
「ちょっと待って待って、一旦持ち帰って検討して良い?」
『あーはっはっ! 持ち帰るってどこに帰るのさ! 面白いなあ!』
「……分かった! 約束だぞっ!」
言い終わらないうちに、子どもの声がかぶさる。
『このバアサンの不憫の原因ってなーんだ?』
このクソババアの不憫の原因?
この不憫なクソババアが存在する理由?
不憫の原因と、存在の原因の理由?
——すべての存在には原因がある。
哲学科で学んだ命題が、脳裏に浮かぶ。
——だが、「原因」だけでは「存在」を説明できない。
ライプニッツは「理由なしには存在しない」と言った。
しかしそれはキリスト教的神の天地創造が土台にある。
カントは「原因で、存在そのものを説明することはできない」と言った。
形而上学的には、「原因でなく、存在そのものの意味を問うべき」
重要なのは、
——存在そのものの「意味」だ。
不憫なクソババアの、存在の意味。
老婆自身が、不憫を受け入れていない?
「クソババアが、自分自身を受け入れなかったことこそが不憫の原因だ!」
そう答えを導き出した多喜——
だが、自分の心も痛んだ。
——俺も、そうだ。
自分を受け入れられなかった。
何もできない自分を、認められなかった。
だから、力を求めた。
だから、老婆に騙された。
——俺も、老婆と同じだったんだ……
その気づきが、胸を突き刺す。
俺も……
自分のその痛む心に、決別するように——
多喜は、手に持つ鏡の破片を老婆に向かって投げつけた。
「もう、終わりにしろ!」
多喜は、叫んだ。
「お前も、俺も——これ以上、不憫なままでいるな!」
破片が、老婆に向かって飛んでいく。
『きゃははッ! そうだってさー、バアサン!』
子どもは多喜にウィンクをすると、老婆に言った。
『じゃあねーバアサン』
子どもはそう言うと、何やら詠唱を唱え始めた。
その詠唱は徐々に声量が上がり、老婆は苦しみ出す。
ついには、苦痛の叫びを上げた。
キエエエエエ!!!
『おのれえええ! 認めん!! 認めんぞおおおお!!!』
老婆の金切り声が響き渡る。
『待っておれ! 今度こそ……今度こそ……』
狂気じみた声を残し、老婆の姿は薄れて消えた。
『次は、わしの可愛いドラゴンを……』
最後の言葉が、闇に消えた。
『行っちゃったね』
くすくすと笑う子ども。
無邪気に手を叩いている。
『バアサンも面白いよね! 宇宙なんて滅ぼせるわけないのにさ!』
ニヤニヤしながら言う。
「あれで、あのババアは消滅したのか?」
確認するように問いかける。
『まさか! ただ追っ払っただけだよ! でも呪いは全部解けちゃったよ!』
『消滅させられないのは残念だけどね』
ふと悲しそうな顔をした。
「お前は何が目的なんだ?」
多喜が問いかける。
『知らないよ! そんなの!』
子どもは無邪気に笑った。
『でも、ぼくは退屈が嫌いなんだ』
『みんなの面白おかしい不幸を見てると、退屈しなくて済むからね!』
その笑顔には一切の悪意がなかった。その無邪気さに多喜は寒気を覚えた。
——こいつは、老婆より恐ろしい……
「で、ここから出られるんだよね?」
念を押す多喜。
『うん、そうだよ』
そう言った子どもの顔が曇る。
『約束だからね』
その時、多喜は両脇を力強い手で掴まれた。
——この感覚……
ギリシャマッチョマンだ。
勇剛を送り返した、あの住人。
目を閉じる。
『筋肉のおじさんも大変だね、毎回毎回尻拭いさせられて』
子どもが、寂しそうに言った。
『おじさん、また遊ぼうね!』
——もう、ご免こうむる……
と思った時、一瞬の浮遊感——
はっ、と目を開ける。
だが、目の前は真っ暗だった。
——まだ、鏡の世界?
いや、違う。
ひんやりとした石床の感触が、片方の靴下越しに伝わる。
頭に、布がかぶさっている。
布を取ると——
目の前に、古ぼけた鏡が見えた。
——神殿の祭壇だ。
戻ってきたのか……?
薄暗い神殿の祭壇の上に載っているその鏡に、一本のヒビが入った。
パキッ、パキパキッ——
さらに細かく亀裂が入り、パラパラと黒い膜のようなものが剥がれ落ちていく。
そして——
鏡が、光り輝いた。
まるで、長い呪いから解放されたかのように。
パキッ
多喜が投げたはずの鏡の破片が、足元で音を立てて粉々に砕けた。
——呪いが解けた……? もう割ってしまった鏡も呪われない?
多喜は、ワイシャツをめくって自分の腹部を見る。
真っ黒だったお腹は、元の色に戻っていた。
その腹部は、もう突き出た前のお腹ではない。まだたるんではいるが、徐々に引き締まってきていた。
多喜は、光り輝く鏡に布をかける。
その瞬間——
鏡に、何かが映った気がした。
意味ありげに笑う、子どもの顔——
だが、多喜は気づかなかった。
左腕の激痛が、思考の余裕を奪っていた。
腕がぶらぶらしていた。
手に力が入らない。
——そうだ、みんなは?
その時、ギャ……という鳴き声が聞こえた。
心なしか、悲しげに響いた。
痛む左腕を庇うように抱え、足を引きずりながらゆっくりと広場に向かった。
*
「……終わりだ」
バンダナがそう呟いた時、グリフォンに異変が起こった。
ギャギャギャッと叫ぶと、苦しみ出したのだ。
呆然として見上げる、バンダナとマッチョ。
空に視線を移すと、渦巻く雲のスピードが上がった。
まるで倍速で逆再生動画を見ているかのように、みるみる雲が消失していく。
「呪いが解けた?」
握力が戻るのを感じるマッチョ。
「なんで……?」
バンダナを苦しめる歯の疼きが、無くなっていた。
グリフォンの体から影が浮き上がり、徐々に体が萎んでいく。
ピレさんの杖の先から、閃光が放たれる。
顎の下で炎を上げ、苦悶の咆哮を上げた。
その体は、前に戦った時のグリフォンと同じくらいのサイズになった。
「やれる!」
マッチョとバンダナは、視線を交差する。
ぺぺちゃんも起き上がり、矢筒から矢を引き抜いた。
スミレの手からは、お玉が転げ落ちていた。
まだ気絶していた。
バンダナは、スミレを肩に担いで森の中に引きずっていく。
それを守るように、マッチョは斧を構えて威嚇した。
怒りの目で、マッチョを睨むグリフォン。
そこにぺぺちゃんの矢が放たれ、目に突き立った。
ピレさんの魔法が火を吹く。
マッチョの斧が肉を断つ。
バンダナの槍が皮を貫く。
呪いが解けたグリフォンの動きは、鈍かった。
最後に、マッチョの斧が首を切り裂いた。
グリフォンは息絶え、血の中に沈み込んだ。
ピレさんは、魔法を使いすぎたのだろうか。
青白い顔をして膝をつく。
明らかに先のグリフォン戦よりも、強い魔法を連発していた。
「マスタァァ…」
倒れたグリフォンを見下ろし、バンダナは目に涙を浮かべた。
マッチョも叫ぶ。
「助けられなかった! 俺が! 俺が! 弱かったせいで……」
拳を握り、俯いた頬に一筋の雫が溢れた。
スミレは、グリフォンが倒れた時の振動で目が覚めた。
グリフォンが倒れているのを見て、安堵はしたが——
マスターの姿が見当たらない。
泣いている二人を見て、心臓が冷たくなる。
「まさか? え? マスターさん? え?……食べられちゃった、の……?」
広場でお玉を回収したその手は、震えていた。
がくっと膝をつく。
その時、ぺぺちゃんの目が見開いた。
ありえないものを見た顔をしている。
「あれをやっつけたんだ! すごいじゃん! で、なんで泣いてんの?」
バンダナとマッチョの後ろから、グリフォンを見上げる多喜。
大粒の涙をこぼし泣いている二人を見て、なぜか多喜も悲しくなった。
涙腺がゆるんでいるらしい。
後ろで一緒に泣き出す多喜だった。
「……」
ぺぺちゃんが、バンダナを小突いた。
後ろを指差す。
バンダナが振り向くと——
そこに、マスターが立っていた。
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、一緒に泣いている。
「ま、マスター……?」
呪いか? 亡霊か?
信じられない顔をするバンダナ。
「本物……ですか?」
おそるおそる、手を伸ばす。
マスターの肩に触れた。
温かい——
「本当に……良かった……」
バンダナの目から、また涙が溢れた。
急に脱力する二人だった。
「なーに、あんたが泣いてんのよ!」
スミレが怒った顔をして、お玉で多喜の頭を殴った。
ゴツン!
「イテッ!」
その痛みは、自分がここにいるという存在を証明するかのようであった。




