19 話 多喜さんと老婆の誘惑(隠し事はいけないの)
山を見上げると、中腹に神殿がそびえているのが見えた。
その背後には、雪を頂く遥かな山脈が連なっている。
「あれ登るの? えー!?」
スミレが不満の声を上げる。
山田多喜も、げんなりした。
ぺぺちゃんが工房から出てくると、スミレが身振り手振りで神殿について聞いている。
ぺぺちゃんが指差したのも、同じ中腹の神殿だった。
「登山の準備が必要かな」
マッチョが言う。
その時、ピレさんが工房から出てきた。
ぺぺちゃんと何か話をし、二人して神殿を見る。
有無を言わせない出立だった。
「それにしても大きな街だな」
マッチョが関心したように声を上げた。
「神殿の門前町ですかね? かつては多くの巡礼者を集めていたんでしょう」
バンダナが答える。
「でも本当に人がいないわね」
スミレが割り込んで言った。
「きっと四本ツノのときみたいに、グリフォンに食われたんだよ」
多喜が言ったとたんに、バンダナに睨まれた。
「そんな感じはしないです。……何か、呪い的な感じがします」
人気のない廃墟のような街だが、人の生活感は残っていた。
その時、建物の一階の窓に人影が見えた。
窓がキーっと閉まる音が聞こえる。
一瞬見えた人影——その痩せ細った体は、黒い痣に覆われていた。
それを見たぺぺちゃんが目を背ける。
バンダナと目が合った。
その顔は怯え、胸元のペンダントを握りしめていた。
バンダナは自らの顔の呪いの痣を指差す。
「同じ、呪い……?」
ぺぺちゃんが、頷いた。
多喜はそのやり取りを見て、背筋がぞっとした。
『ヒーッヒッヒ……』
老婆の笑いが聞こえた気がした。
小川に沿って石畳の道を山に向かって進む。
三日間歩き通しだった体に、登山は堪える。
橋を越えると土の道に変わり、本格的な登りが始まった。
道の両側には、枯れた針葉樹が渦巻く空に伸びている。
森に入ると、空気が変わった。
生暖かい風が吹き抜け、遠くで翼の音が聞こえる。
——ギャース……
どこかで聞いた鳴き声が、微かに響いた。
リュックが重い。
多喜は、自分の背中を意識する。
リュックの底に隠した、鏡の破片。
——バレていないだろうか?
『よう来たのう……ヒヒヒ』
耳元で、老婆の笑い声が聞こえた気がした。
振り返るが、誰もいない。
心臓が早鐘を打つ。
その時、多喜の腹部にかすかな痛みが走った。
腹を押さえる。手が震えている。
バンダナも青白い顔で右頬を押さえている。
マッチョを見ると、両手に違和感を感じているようだった。
「ト、トイレ……」
バンダナとマッチョが、多喜を見た。
「……あれよりは、マシかな?」
森の奥に向かう多喜の背に、バンダナがぼそっとつぶやいた。
戻ってきた多喜に、ぺぺちゃんが水を差し出す。
「ありがとう」
だが、その手は震えていた。
「マスター?」
バンダナが、不審そうな目で見ている。
「だ、大丈夫……」
慌てて水を飲み干す。
再び、登り始める。
息が上がる。足が重い。
その時、また老婆の声が聞こえた。
『力が欲しいかえ?』
脳裏に、炎を吐くドラゴンの姿が浮かぶ。
『もうすぐじゃ……もうすぐ、お前は英雄になれる……』
老婆の声が、甘く囁く。
「……マスター?」
バンダナの声に、はっと我に返る。
「どうしたんですか? 顔色悪いですよ」
「な、何でもない……」
バンダナの目が、疑念に満ちている。
さらに登り続ける。
多喜は、リュックの重さを感じていた。
いや、重いのは——
罪悪感だった。
——みんなを裏切っている。
だが、足がもつれる。
ふらついた多喜を、マッチョが支えた。
「マスター、無理しないで」
その優しさが、かえって胸に突き刺さる。
休憩する一行。
多喜は、渡された干し肉を噛みしめる。
味がしない。
「また、肉か……」
だれもが水を見た時、肉以外のものが食べられると期待したのだ。
「あの老婆! 許せないな!」
マッチョが拳を握る。
「許すまじ! あのクソキモババア!」
多喜が叫んだ時、一段と雲が黒さを増し、辺りを薄暗くさせた。
多喜は、ふと考えた。
——すべての存在には原因がある。
哲学科で学んだ、形而上学的命題。
——なら、あの老婆が存在する原因は?
鏡の牢獄。永遠の時。狂気——
——あの老婆も、何かの被害者なのか?
その思考が、多喜の心に引っかかった。
——いや、違う。俺は何を考えている?
頭を振って、その考えを追い払おうとする。
だが、一度芽生えた疑問は、消えなかった。
『ひひひひ……』
老婆の声が、頭の中に響く。
『おやあ? 呼んだかい?』
驚いて周りを見渡すが、誰も気がついていない。
額に脂汗が流れる。
『おやおや、ちゃーんと鏡は持ってきてくれているようだねえ』
心臓が、バクバクと鳴る。
『ご褒美を楽しみにしておいで……』
『けけけけ……』
その瞬間、視界が暗転した——
「マスター! マスター!」
気を失っていたらしい。
目の前に、心配そうなバンダナとマッチョの顔が見える。
「貧血でも起こしたか?」
マッチョが言う。
「糖尿病って言われたことない?」
スミレが眉を寄せている。
多喜は首を振った。
「帰ったら病院行ってね」
スミレの真剣な言葉が、胸に刺さる。
「呪いじゃないですよね?」
バンダナが、じっと多喜を見つめた。
疑問形の発言だったが、確信したような言い方だった。
「……」
無言は、肯定と同意だった。
はーっ、とため息をつくバンダナ。
「何か隠してるでしょ?」
バンダナが、追い詰める。
多喜は、隠した破片のことは言えなかった。
「お腹の痛みも、まだそれ程じゃない。眠れてないから、寝落ちしただけ……」
それは事実でもあった。
嘘はついてない——
「工房で鏡を渡す時、手が震えてましたよ」
ドキリとする。
「昨日の夜も、リュックをいじってましたよね?」
——バレてる!?
「登山中も、何度もぼーっとして……老婆の声が聞こえてるんじゃないですか?」
その言葉に、多喜は思わず息を呑んだ。
「やっぱり……」
バンダナが、目を細める。
「マスター、何かしましたね?」
「し、してない……」
その時、多喜の心に、ある考えが浮かんだ。
——すべての存在には原因がある。
なら、自分がここにいる原因は?
母親に見捨てられ、職を転々とし、何一つうまくいかなかった人生。
——でも、それは「原因」じゃない。
形而上学的には、「存在そのものの意味」を問うべきだ。
——俺が、ここに存在する意味は?
その答えは、まだ見えない。
だが、老婆を「不憫だ」と思った自分に、多喜は気づいていた。
「なら、リュック見せてください」
バンダナが、手を伸ばす。
「や、やめろ!」
思わず叫んでしまった。
多喜は自分が叫んだ声に、一番驚いた。
その瞬間、全員の視線が多喜に集まった。
沈黙。
「……やっぱり」
バンダナが、静かに言った。
「何をしたんですか?」
追い詰められた多喜。
だが、その時、上から地響きが起こった。
大気を震わせるような重い足音。
……ギャアアアアアス!!
グリフォンの咆哮が、森を震わせた。
「来たか……」
マッチョが、斧を背中から引き抜く。
バンダナも、槍を構える。
その目は、まだ多喜への疑念を残していた。
だが今は、戦うしかない。
スミレが、お玉を握りしめる。
「やるしか、ないわね……」
ぺぺちゃんは、弓を持つ。
その手は震えていたが、矢をつがえた。
ピレさんが、杖の先を上に向ける。
多喜は、メイスの柄を握りしめた。
リュックが、重い。
——俺は、何をしてしまったんだ……
だが、今はそれを考えている暇はない。
グリフォンが、迫っている。
腹部の痛みが、また疼き始めた。
——戦うしかない。
多喜は、メイスを構えた。
その時、多喜の脳裏に、ある言葉が浮かんだ。
——すべての存在には原因がある。
なら、あの老婆が「不憫」な原因は——?
その答えを、多喜はまだ見つけていなかった。
いよいよ、決戦の時が近づいていた




