第9話 潜行、薄明の洞
朝霧が街を包んでいた。
空気はひんやりとして、遠くで鐘の音が響く。
その音を合図に、人々が一斉に《アビス・ゲート》前の広場へ集まり始めた。
「――今日、初めて潜るんだな」
グランの低い声が響く。
鎧の留め金を締めながら、ユウは短くうなずいた。
「リシアの初陣だ。……だからこそ、静かに行かせてやりたい」
視線の先、リシアは祈りの列に立っていた。
大聖堂の神官が一人ずつの肩に手を置き、探索許可証を掲げる。
光の紋章が胸元に浮かび、刻印が淡く脈打った。
――銅級探索者、リシア・ハート。
神官の声が響くたびに、周囲から拍手が上がる。
少女は緊張した面持ちのまま、胸の前で両手を合わせた。
その姿を見て、ユウの口元がわずかにゆるむ。
(初めての戦いに向かう顔だな……)
「剣聖さん」
背後からバルドが声をかけてきた。
商人である彼も、この街の多くの者と同じように、出発を見送るために来ていた。
「うちの娘みたいなもんだ。……頼んだぞ」
「もちろんだ。俺の弟子だからな」
ユウが短く答えると、バルドは安心したように頷き、帽子を取って祈りを捧げた。
やがて鐘が二度鳴る。
それが、門が開く合図だった。
《アビス・ゲート》。
街の中央にそびえる、黒曜石のような巨大な門。
光を吸い込み、内部には闇が渦を巻いている。
その向こうが、神々の遺した迷宮――。
「リシア」
ユウが呼ぶと、少女が振り向く。
「はい!」
「怖いか?」
「……少し。でも、あの鐘の音を聞いたら、落ち着きました」
「いい耳だ。恐れを感じるうちは、まだ生きている証拠だ」
リシアは息を整え、剣を握る。
その手の震えを、ユウは見逃さなかった。
けれど、何も言わない。恐れもまた、冒険の一部だからだ。
「全員、前へ!」
グランの号令が響く。
冒険者たちが一列に並び、順に門の前へ進む。
リシアはユウの横に立ち、空を見上げた。
朝日が門の縁を照らし、黒い石に赤い光が走る。
「行こう、先生」
その一言に、ユウは頷いた。
二人の影が、ゆっくりと門の闇に溶けていく。
祈りの鐘が三度鳴り、
光と音の境界を越え――彼らの“本当の戦い”が始まった。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
温度が一気に下がり、世界の色が褪せていく。
背後にあった朝の光はもう届かず、代わりに耳鳴りのような低い音が響く。
リシアは思わず足を止めた。
「……ここが、アビス・ゲートの中……?」
声は小さく震えていた。
視界の先には、果ての見えない洞窟の道。
壁は黒曜石のように滑らかで、ところどころに青白い光苔が瞬いている。
風がないのに、髪がわずかに揺れた。まるで空気そのものが“息づいて”いるようだった。
「戻るか?」ユウが問う。
リシアはきっぱりと首を振る。
「いいえ。……ここまで来たら、もう前に進みたい」
「そうか」
ユウの目に、一瞬だけ誇らしげな光が宿った。
彼は背負っていた大剣を少しだけ抜く。
刀身が闇の中で淡く輝き、二人の足元を照らした。
「この光、すごい……」
「鍛冶街の火を宿してる。ガランの工房の名残だ」
ユウの声は落ち着いているが、その足取りは慎重だった。
地面は滑りやすく、足を踏みしめるたびに水音が響く。
リシアはユウの後ろにぴたりとつく。
どんな強がりよりも、その距離が彼女の不安を物語っていた。
「リシア」
「はい?」
「恐れるのは悪くない。……それは、“生きたい”と思う心だ」
彼の声は低く、けれど温かかった。
「恐れを捨てるな。恐れを超えろ。それが、剣を持つ者の最初の試練だ」
少女は小さく息を呑み、そして頷いた。
「はい。私……ちゃんと怖いです。でも、前を見ます」
その言葉に、ユウは微笑んだ。
「それでいい。恐れを語れる奴は、もう勇気の半分を手に入れてる」
暗闇の中で、光苔がふっと強く光る。
それはまるで、リシアの決意に応えるようだった。
やがて、二人は小さな洞窟の広間にたどり着く。
天井から水滴が落ち、静かな音を立てている。
空気の奥から、何かの気配がわずかに揺れた。
ユウは剣を構え、低くつぶやく。
「――ここからが、迷宮だ」
リシアの喉がごくりと鳴る。
恐怖と期待が入り混じったまま、
二人はゆっくりと、闇の奥へと歩みを進めた。
数歩、進むたびに空気が変わっていく。
ひんやりとした風が頬をなで、しずくの音が遠くで反響する。
それだけで、ここが“地上とは違う世界”だとわかった。
リシアは息をひそめ、足元の光苔を見つめた。
淡く揺れる緑の光が、靴のつま先を包む。
壁には、青白い光が筋のように走り、天井に反射して淡い虹をつくっている。
「……きれい」
思わずこぼれた声は、小さな囁きのようだった。
恐怖よりも、目の前の光景の美しさに心を奪われていた。
ユウは後ろからその横顔を見て、微笑む。
「そう思えるうちは、まだ人間らしい。……戦場でも、それを忘れるな」
「はい」
二人はゆっくりと歩を進めた。
壁に描かれた古い文字が、かすかに浮かび上がる。
“深き闇に踏み入る者、光を胸に抱け”
リシアが指先でなぞると、文字が一瞬だけ明るく光った。
「これ、誰が書いたんでしょう」
「昔の探索者だろう。ここに刻まれる言葉は、祈りに近い」
「祈り……」
リシアはその言葉を反芻しながら、洞窟の奥を見つめた。
少し進むと、足元の地形がゆるやかに下り坂になる。
水音が近くなり、どこからか小川のようなせせらぎが聞こえてくる。
それに混じって、何か低い唸りのような音も――。
「……先生、今の音……?」
「聞こえたか。悪くない耳だ」
ユウが軽く剣の柄に触れる。
緊張が、空気の粒を震わせた。
リシアは喉を鳴らして息を整える。
「怖いけど……この場所、すごく静かです」
「静けさは、敵より厄介だ。――油断を誘う」
そう言いながら、ユウは洞窟の天井を見上げた。
光苔の明滅が、まるで星空のように瞬いている。
その下で、二人の影がゆらゆらと重なった。
(こんな場所に、まだ“美しい”と思える光があるなんて)
リシアの胸の奥に、なにかが灯る。
それは恐怖とは違う、
“この世界をもっと知りたい”という小さな願い。
「……先生」
「なんだ」
「私、迷宮って怖い場所だと思ってました。でも……少しだけ、好きかもしれません」
「はは、それは立派な探索者の資質だな」
ユウの声には、ほんのわずかに誇らしさが混じっていた。
けれど、その優しい空気は次の瞬間、かすかな風の音にかき消される。
洞窟の奥――暗闇の向こうで、何かが動いた。
――ゴォォ……。
低いうなり声が、洞窟の奥から響いた。
風のようでもあり、獣の息づかいのようでもある。
リシアの背筋がぴんと伸びた。
「……何か、います」
「聞こえたな。足を止めろ」
ユウの声は低く、しかし揺らがない。
彼は剣に手を添えたまま、周囲の空気を読む。
光苔の揺らめきがわずかに乱れ、遠くで水滴が弾ける音が二度――。
「三つ目の音が来たら、右からだ」
リシアは息を殺し、耳を澄ませた。
沈黙が長く続く。
心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。
――ぽちゃん。
水滴の落ちる音が左からした。
リシアは思わず剣を構える。
だが、ユウがすぐにその腕を軽く押さえた。
「違う。焦るな。音の“反響”を聞け」
「反響……?」
「この洞窟は音が回る。聞こえた方向が“敵”とは限らない」
リシアはもう一度、目を閉じた。
暗闇の中に意識を沈めると、たしかに音が回り込むように聞こえる。
左で鳴ったはずの水音が、ほんの数瞬遅れて右から返ってくる。
(これが……反響)
「先生……すごい。耳で場所が分かるんですね」
「剣を振るうより前に、“気づく”ことを覚えろ。気づけた奴だけが、生き残る」
ユウの言葉は静かだが、胸に深く響いた。
リシアは再び息を整え、剣を構え直す。
足元の水面が揺れ、青い光が散った。
その時――。
洞窟の奥、闇の隙間で何かが瞬いた。
金色の目。
リシアの呼吸が止まる。
「……っ!」
獣の気配が一気に広がった。湿った空気の中に、獣臭と金属のような血の匂い。
ユウは一歩前に出る。
「落ち着け。まだ仕掛けるな」
「で、でも――」
「見ろ。やつはまだ“こちらを計ってる”」
リシアは恐怖に喉が震えた。
けれど、ユウの背が少し前に出た瞬間、その影が盾のように見えた。
「怖いなら、それでいい。……その恐れを、剣に変えろ」
次の瞬間、獣が吠えた。
風が吹き抜け、光苔が一斉に散る。
ユウが剣を抜く音が、洞窟の空気を裂いた。
「来るぞ――リシア、目で追うな。耳で聴け!」
轟音と共に、闇が牙をむいた。
闇が唸りを上げた。
飛び出してきたのは、獣と虫の中間のような魔獣――
黒い毛並みの間に、硬質な殻が走っている。
その目が金色に光り、光苔を反射していた。
リシアは反射的に剣を振るう。
だが刃が届く前に、ユウがその肩を押して横へ弾く。
「下がれッ!」
直後、魔獣の爪が空を裂いた。
岩肌に叩きつけられた衝撃で火花が散る。
リシアは地面を転がり、息を呑んだ。
「今だ、足を見ろ!」
ユウの声が飛ぶ。
見ると、魔獣の後脚が光苔の上を滑った瞬間、僅かにバランスを崩していた。
リシアは体を起こし、息を吸い込む。
(ここで、終わらせる!)
地を蹴り、一直線に踏み込んだ。
木剣が空気を裂く。
魔獣が再び爪を振り下ろす――その瞬間、ユウの大剣が横から走った。
「行け!」
二人の剣が交差し、衝撃が洞窟に響く。
光苔の粒が宙に舞い、青い光が渦を巻いた。
刃が魔獣の首筋をかすめ、黒い霧のような血が散る。
「やった……!」
リシアの声に合わせるように、魔獣の体が崩れ落ちた。
重い音とともに静寂が戻る。
彼女は剣を握ったまま、その場に膝をついた。
息が荒く、胸が熱い。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響いている。
「これが……戦い……」
ユウがそっと彼女の肩に手を置く。
「よくやった。怖さを残したまま、剣を振れたな」
「でも……怖かったです。途中で足が動かなくなりそうで」
「それでいい。恐怖を感じながら立つことが、“生きる”ってことだ」
ユウが言葉を区切ると、光苔の反射が彼の横顔を照らした。
その光が、リシアの頬にも映る。
血のように赤い一筋の線――頬をかすめた傷。
「先生、これ……」
「勲章だ」
ユウは穏やかに笑う。
「初めて“生き延びた”証だ」
リシアは小さく頷いた。
恐怖も、痛みも、今は全部が“現実”の証だった。
自分が確かにここにいるという証拠。
――生きている。
その実感が胸に満ちた時、
遠くの通路で、また別の光が瞬いた。
「行こう。まだ、終わりじゃない」
ユウの言葉に、リシアは立ち上がった。
剣を握り直し、目を細める。
“戦う”という言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。
戦いの音が消えると、洞窟の空気が一気に静まった。
遠くで滴る水の音だけが、時間を刻むように響く。
リシアは剣を下ろし、荒い息を整えた。
光苔の明かりが揺れて、倒れた魔獣の姿を照らす。
その体はすでに霧のように崩れ、黒い粒子が空に溶けていく。
「……消えた?」
「スレイされた証だ。討たれた者は、光に還る」
ユウの言葉に、リシアは小さく息をのんだ。
まるで魂が空へ昇るように、黒い粒が天井の光へ吸い込まれていく。
それは、静かで、悲しくて――でも、どこか救いのある光景だった。
「……きれい、ですね」
「そう思えるのは、お前がまだ人間だからだ」
ユウはゆっくりと歩き出す。
その先に、古びた石造りの祭壇が見えた。
「これが……目的地?」
「ああ。古代の祈祷場《沈黙の祭壇》。初回探索の最終地点だ」
近づくと、祭壇の表面にびっしりと文字が刻まれていた。
リシアが手をかざすと、淡い光が文字をなぞるように流れていく。
その中の一文が、特に強く輝いた。
> “光は心の奥より生まれる。”
「……先生、これ……」
ユウはその言葉を黙って見つめていた。
どこか懐かしげに、そして少しだけ寂しそうに。
「俺たちが戦う理由は、きっとこれだ」
「光を……心の奥から?」
「そうだ。恐れや憎しみの外に、ほんの少しの希望を残す。それができた者だけが、次へ進める」
リシアはその言葉を胸に刻むように、剣を胸の前で立てた。
「じゃあ、私も……少しだけ光を見つけられたかもしれません」
「……そうだな」
ユウは微笑み、剣を鞘に納めた。
祭壇の光が二人の姿を包み込み、洞窟の闇を静かに押し返していく。
「先生」
「なんだ」
「この世界って、怖いだけじゃないんですね」
「そうだ。怖さの奥に、きっと美しさがある」
その言葉とともに、祭壇の光が消えた。
再び暗闇が戻るが、不思議と寒くはなかった。
リシアの胸の奥に、温かなものが灯っていたからだ。
「帰りましょう、先生」
「……ああ。地上でまた、朝を見よう」
二人は並んで歩き出す。
背後の祭壇は静まり返り、残された光の粒がゆっくりと浮かんで消えていった。
祭壇を後にすると、再び水音だけの世界が広がった。
洞窟の奥には小さな石床があり、その中央に淡く輝く紋が描かれている。
円環のようなその模様から、薄青い光がゆらゆらと立ちのぼっていた。
「これが……帰還魔法陣ですね」
リシアが足を止めて見つめる。
緊張の名残がまだ指先に残っているのか、手が少し震えていた。
ユウは頷きながら、その中心に立った。
「迷宮で得たスレイを記録し、帰還者の名を刻む場所だ。……お前の初スレイ、忘れるなよ」
「はい」
リシアの声は、少しだけ誇らしげだった。
二人が魔法陣の上に立つと、光が足元から広がる。
淡い風が吹き抜け、衣の裾を揺らした。
次の瞬間、視界が一面の白に包まれる。
――音が消えた。
重力の感覚もなく、ただ光だけが身体を撫でていく。
その中で、ユウの声が微かに響いた。
「リシア。お前は今日、“生きて帰る”ことを学んだ。……それだけで十分だ」
「はい……でも、また行きたいです」
「ほう?」
「怖かったけど、もっと見たい。もっと強くなりたい。……この世界を、知りたいです」
白い光が少しずつ薄れ、空の色が戻る。
気づけば、レオグラードの空の下――《アビス・ゲート》前の広場だった。
朝の鐘が、三度鳴る。
人々が集まり、帰還者の姿に歓声が上がった。
グランが腕を組み、笑いながら近づいてくる。
「無事に帰ってきたな。……どうだった、初めての迷宮は」
リシアは一瞬迷い、そして笑顔で答えた。
「怖くて、きれいで、……生きてるって感じました!」
その言葉に、グランが大笑いした。
「はは! そいつは上等だ!」
ユウはそのやりとりを黙って見つめる。
心の奥に、ほのかな温かさが広がっていく。
(あの祭壇の言葉――“光は心の奥より生まれる”。
本当に、そうなのかもしれない)
リシアが振り向く。
「先生。また潜りましょう。次はもっと奥まで!」
「……ああ。だが、焦るな。光は急ぐ者には見えない」
「じゃあ、ゆっくり見つけます。先生と一緒に」
その言葉に、ユウの唇がゆるんだ。
太陽が昇り、黒い門を黄金色に染めていく。
朝の光が二人を包み込み、影が一つに重なった。
――こうして、剣聖と弟子の最初の探索は終わった。
だが、それは終わりではなく、“始まり”の一歩だった。
初めての迷宮には、恐怖と同じだけの美しさがあった。
“怖い”と思える心こそが、人を前へ進ませる力になる。
――剣聖と弟子の旅は、いま光の奥へと歩み始める。




