第6話 スラムの灯
二日前の戦いが、まだ夢のように思えた。
アビス・ゲートは閉じ、街には平和が戻った――はずだった。
ユウはギルドの医務室で目を覚ました。
木の天井。白い包帯。
腕に少しの痛みが残っている。
でも、それよりも胸の奥が妙に重かった。
そばの壁には《セレスティア》が立てかけてある。
あの戦いで聞こえた“声”。
懐かしいのに、誰の声か思い出せない。
(……誰を、呼んだんだ)
ぼんやりとしたまま天井を見つめていると、扉が開いた。
「起きましたか?」
入ってきたのはリシアだった。
湯気の立つスープと包帯を手にして、穏やかに笑う。
「無理に動かないでくださいね」
「……世話になったな」
「私は祈っただけです。
ここまで運んだのは、カイさんとリナさんです」
ユウは少しだけ微笑んだ。
「……あいつら、元気か?」
「ええ。でも、街のほうが今は大変です」
リシアが小さく息をついた。
「スラム街で、病が広がっているんです。
アビスの瘴気に触れた人たちの一部が倒れていて……」
「瘴気の残りか……」
ユウの手が止まる。
戦いが終わっても、まだ誰かが苦しんでいる。
その事実が胸を締めつけた。
「俺たちが勝ったはずなのに……」
「“勝つ”だけでは、救いきれないんです」
リシアの声は優しかった。
「だから、これから支援に行きます。
祈り派の診療院《ローナの灯》が開いています」
「ローナ……?」
「神殿を離れた医師です。
奇跡ではなく、自分の手で人を救う人なんですよ」
ユウは少し考え、それから頷いた。
「俺も行く。戦えなくても、できることはあるはずだ」
「……ありがとうございます」
包帯を巻き直し、外套を羽織る。
窓の外では灰が舞い、街全体がまだ疲れて見えた。
それでも、どこかで小さな灯が揺れている気がした。
ユウは剣を手に取り、静かに立ち上がった。
【ブロック2:傷だらけの街(スラム街)】
ギルドを出ると、空気の匂いが変わった。
上の街の香ばしいパンの匂いは消え、
かわりに湿った土と薬草の匂いが漂っている。
「ここが……スラム街か」
ユウが呟くと、リシアが頷いた。
「ええ。光が届かない場所です。
でも、ここにも“生きようとする人”がたくさんいます」
道はでこぼこで、家々は傾いていた。
壊れた屋根の下で、子どもたちが古い毛布にくるまっている。
通りには、咳をする人と祈りを捧げる人が混ざっていた。
「……戦場のあとみたいだな」
「ここも、戦場なんです」
リシアの声は静かだった。
「貧しさも病も、祈りでしか立ち向かえない人たちがいる。
だから、私たちは来ました」
そのとき、声が飛んだ。
「ユウさーん!」
振り向くと、カイが駆けてきた。
額に汗、腕には包帯。
「よかった、やっぱ来てくれたんすね!」
「お前もか」
「はい。リナさんが診療院の手伝いしてて、俺は搬送係です!」
荷車の上には、ぐったりとした少年がいた。
顔が青く、息が浅い。
胸には黒い痣のような模様が広がっていた。
ユウは思わず膝をついた。
「この子も……瘴気に当たったのか」
「たぶん……ゲートの残りっす」カイが答える。
「爆発の時の瘴気が、風に乗ってこっちまで来たみたいで」
ユウの拳が震えた。
(俺が……守るために戦ったはずなのに)
リシアが彼の肩に手を置く。
「だから行くんです。
あなたの戦いは、まだ終わっていません」
彼女が指差す先に、小さな光が見えた。
古い建物の屋根の上で、金色の灯がゆれている。
「診療院《ローナの灯》です。
あの光が消えない限り、この街は生きています」
ユウはゆっくりと立ち上がった。
「……なら、俺もその灯を守る」
「ええ、一緒に行きましょう」
三人は荷車を押しながら、狭い路地を進んでいった。
足元の泥を踏む音と、少年の弱い息づかい。
そのどちらも、確かに“生きている音”だった。
建物の前まで来ると、焼け焦げた木の匂いがした。
屋根の上では、古いランプの炎が小さく揺れている。
壁に掲げられた木札には、かすれた文字で《ローナの灯》と書かれていた。
「ここが、診療院……」
リシアが扉を叩くと、すぐに中から声が返ってきた。
「開いてるよ、入りな!」
扉の向こうは、暖かい空気で満たされていた。
薬草と煙の匂い、包帯と血の混じった匂い。
部屋の奥では、少女から老婆まで十人近くの人々が横になっている。
祈り派の巫女たちが、手を合わせながら治療にあたっていた。
「ローナ先生!」リシアが呼ぶと、奥から一人の女性が現れた。
茶色の髪を後ろでまとめ、白衣の袖をまくり上げている。
額には疲れが見えるが、その目は澄んでいた。
「久しぶりね、リシア。……そっちの子が、患者?」
「はい、瘴気に当たった少年です」
カイが急いで荷車を押し、ベッドへ運ぶ。
ローナは手際よく聴診器を当て、目を細めた。
「肺が弱ってる。瘴気が血に混じってるわね」
「治せますか?」ユウが問う。
ローナは顔を上げた。
「“治す”のは神様の仕事。
私は“助ける”ことしかできないわ」
その言葉に、リシアが静かにうなずいた。
ローナは短く息を吐き、周囲に指示を出す。
「水を。あと薬草を細かく刻んで。火は強めて」
巫女たちが慌ただしく動く。
その様子を、ユウは黙って見つめていた。
(剣じゃ、何もできない……)
自分の指が震えていることに気づく。
戦場では迷いなく動けたのに、今はただ立っていることしかできない。
ローナが少年の胸に手を当て、目を閉じた。
「……まだ、生きてる」
安堵の息とともに、小さく呟く。
その声には、祈りにも似た響きがあった。
「あなたは……?」
ローナが顔を上げ、ユウを見た。
「剣士ね。手がそう言ってる」
「……ええ」
「戦場帰りの匂いがするわ。
でもここは、“斬る”場所じゃないのよ」
その言葉に、ユウは目を細めた。
「分かっています」
「そう? でも、あなたの目はまだ戦ってる」
ローナは少年を見下ろしながら、言葉を続けた。
「この子を苦しめたのは瘴気。
その瘴気を広げたのは、誰?」
ユウの胸が痛んだ。
返す言葉が出てこない。
ローナはわずかに息を吐き、目線を戻す。
「責めてるわけじゃないの。
でもね、戦う人がいる限り、戦場の灰は誰かの家に降るのよ」
リシアが口を開きかけたが、ユウが手で制した。
「……分かっています。
けれど、戦わなければ守れない命もある」
ローナは短く首を振った。
「守るために剣を抜く人と、救うために手を伸ばす人。
どちらも命を懸けてる。
でも、救う側から見れば――剣はあまりに遠い」
空気が重くなった。
焚き火の音が、部屋の隅でぱち、と鳴る。
ローナはそれを見つめたまま呟いた。
「あなたの剣は命を奪う。
でも、私は命を縫い合わせる。
それが、私の“祈り”よ」
ユウは何も言えなかった。
その言葉が、静かに胸に沈んでいく。
戦いの勝利よりも、ずっと重く感じた。
「……ローナの灯は、夜でも消えないんですね」
リシアの言葉に、ローナが小さく笑った。
「消せないのよ。
この街の誰かが生きている限り、火は燃え続ける」
その火が、ユウの心の中にも小さく灯った気がした。
夜が降りてきた。
スラム街の空は、星よりも煙の方が多い。
診療院の屋根の上に、細い三日月だけがかすかに光っていた。
ユウは外に出て、静かに息を吐いた。
夜風は冷たく、胸の包帯の間から入りこんでくる。
さっきまで聞こえていた子どもたちの泣き声も、今はない。
ローナと巫女たちが治療を続けているのだろう。
火の匂いがまだ残る空気の中で、
ユウは《セレスティア》を抜かずに膝の上へ置いた。
刃は薄闇の中で静かに光っている。
(……俺は、間違っていたのか)
戦うたびに失う記憶。
救った命の陰で、苦しむ人々。
ローナの言葉が頭の中を何度も繰り返す。
“戦う人がいる限り、戦場の灰は誰かの家に降るのよ。”
その言葉が胸に刺さったまま抜けない。
守るために斬ってきた。
でも、それが誰かの痛みを増やしているなら――
それは本当に“守る”と呼べるのか。
ユウは拳を握りしめた。
包帯の下で、古い傷がうずく。
「……結局、俺は何も変わってないのかもしれない」
そのとき、背後から声がした。
「そんな顔、似合いませんよ」
振り向くと、リシアが立っていた。
灯りを持ち、風に髪をなびかせながら、少し笑っている。
「……寝なくていいのか?」
「祈り番の当番なんです。
眠れない時は、みんなの夢を見守る役ですよ」
リシアが灯りを屋根の端に置き、隣に座る。
しばらく二人とも黙っていた。
火の揺らめきだけが、壁に影を描く。
「さっきのローナさんの言葉、気にしてますね」
「……見透かされてるな」
「だって顔に出てますもん」
リシアは空を見上げた。
「先生はきっと、“戦う人を責めてる”わけじゃないと思います。
ただ……“救うことの重さ”を知ってる人なんです」
「救うことの重さ……?」
「はい。
誰かを助けようとすると、自分が傷つくこともある。
それでも手を伸ばす――それが祈りなんです」
ユウはしばらく黙っていた。
祈り。
その言葉を何度聞いても、まだ完全には掴めない。
でも、胸の奥に少しだけ温かいものが灯った。
「……俺にも、できるのかな。
斬ることじゃなくて、救うことが」
「できますよ」リシアが迷わず答える。
「あなたの剣は、誰かを守るために光った。
それを忘れない限り、きっと救えるはずです」
灯りがふっと揺れた。
風が止み、静寂が戻る。
ユウは小さく笑った。
「……お前は、強いな」
「いえ、私もまだ怖いです。
でも、“怖い”って思えるうちは、生きてる証拠です」
ユウは小さくうなずき、立ち上がった。
「ありがとな。少し、軽くなった」
「ふふっ、それならよかったです」
リシアが灯りを手に取り、微笑む。
「あなたも、もう少し“灯りのそば”にいてください」
ユウは空を見上げた。
煙の切れ間に、小さな星がひとつだけ見えた。
それは、まるで“まだ消えない火”のように瞬いていた。
夜がさらに深くなっていた。
スラム街の上には、灰色の雲がゆっくりと流れている。
風は冷たいのに、どこか澄んでいて、
昼間の薬草と血の匂いがやっと消えかけていた。
ユウは診療院の屋上に出て、ひとり空を見上げた。
屋根瓦の隙間から、ランプの光がこぼれている。
下では、ローナがまだ治療を続けているのだろう。
声は聞こえないが、その動きの気配が確かにあった。
ユウはポケットから、リシアが貸してくれた祈りの鈴を取り出した。
銀色に光る小さな鈴。
戦いの時とは違う――静かな“音の武器”。
「……祈り、か」
鈴を軽く鳴らす。
ちりん、と風の中で小さな音がした。
それは、刃を抜いた時の金属音とはまるで違う。
柔らかくて、どこまでも遠くへ届くような響きだった。
(これは、誰のための祈りなんだろう)
ユウは目を閉じた。
戦場で斬った敵の顔も、守った人の顔も、
すべて霧のようにぼやけている。
でも――あの少年の弱い呼吸だけは、まだ胸の奥に残っていた。
(あの子がもう一度笑えますように)
(もう、誰も苦しまないように)
鈴をもう一度鳴らす。
音が夜風に混じって消えていった。
「……それが、あなたの祈りですよ」
背後から声がして、ユウは振り返った。
リシアが立っていた。
ランプを片手に、柔らかく笑っている。
「聞いてたのか」
「はい。……とても優しい音でした」
ユウは少し照れたように眉を寄せた。
「俺には、そんな立派なもんじゃない」
「立派でなくていいんです。
“生きていたい”って思うこと、それがもう祈りです」
リシアは屋上の端に歩み寄り、空を見上げた。
「祈りって、神様に届くためのものじゃありません。
生きる力を取り戻すための言葉です」
「……力、か」
ユウは鈴を見下ろした。
自分の手のひらの中で、小さく光っている。
火のように消えそうで、けれど確かに温かい。
「……俺の祈りが、誰かを照らせる日が来るのかな」
「きっと来ます」リシアが微笑む。
「だってあなたは、“奪わない剣”を選んだ人ですから」
その言葉に、ユウは静かに目を閉じた。
心の奥で、炎のようなものが静かに燃えた。
戦場の光ではなく、
誰かの命をそっと照らすための“灯り”。
「ありがとう、リシア」
「どういたしまして。……さあ、下へ戻りましょう。
ローナ先生が“交代で仮眠を取れ”って怒ってましたよ」
「怒る元気があるなら大丈夫だな」
二人の笑い声が夜の風に混じる。
屋根の上の灯りが揺れ、鈴が小さく鳴った。
その音は、遠くの路地の闇の中に溶けていった。
夜明け前の空は、まだ青とも灰ともつかない色をしていた。
診療院の中では、焚き火の残り火がゆらゆらと揺れている。
人々は疲れ果てて眠り、静かな寝息だけが響いていた。
ユウは椅子に座ったまま、うとうとしていた。
手には、さっき屋上で鳴らした祈りの鈴。
小さな音が、まだ耳の奥に残っている気がした。
その時――
かすかな声が聞こえた。
「……おかあ、さん……」
ユウが顔を上げる。
ベッドの上で、あの少年が目を開けていた。
顔色はまだ悪いが、呼吸は落ち着いている。
ローナがすぐに駆け寄り、少年の手を握った。
「起きたのね。大丈夫、もう怖くないわ」
少年はぼんやりとローナを見つめ、
次の瞬間、小さく頷いた。
ユウの胸の奥に、静かな熱が灯った。
戦いでは見られなかった“勝利”が、ここにあった。
「……助かったんだな」
ユウが呟くと、ローナは軽く微笑んだ。
「ええ。あなたたちが連れてきてくれたおかげよ」
「俺たちは……何もできなかった」
「違うわ」ローナは首を振る。
「誰かを助けるって、力だけじゃないの。
運ぶことも、祈ることも、見守ることも――全部、救いなの」
ユウはその言葉に黙ってうなずいた。
炎の光が、ローナの横顔をやさしく照らす。
「あなたの剣は、人を傷つけるためのものかもしれない。
でもね、あなた自身が“誰かを守りたい”と願うなら、
その剣にも意味が生まれるの」
ローナの声は静かで、あたたかかった。
ユウはゆっくりと剣の柄に手を置いた。
《セレスティア》が淡く光る。
その光は、炎とは違う優しさを持っていた。
「……剣を抜かなくても、救える命がある。
でも、剣を持っているからこそ、守れるものもある。
どちらも、同じ“生きようとする力”なんですね」
ローナが微笑む。
「そう。
だから、あなたの火を絶やさないで。
誰かの痛みを見て、それでも立ち止まらないでほしい」
外の空が、少しずつ明るくなっていく。
屋根の隙間から差し込む朝の光が、部屋を包んだ。
少年の頬に光が落ち、まるで新しい息を吹き込むようだった。
リシアがそっと手を合わせ、祈りの言葉を唱える。
「夜が終わります。
今日という光が、また誰かを救いますように」
ユウは立ち上がり、ローナに頭を下げた。
「……ありがとう」
「礼なんていらないわ」ローナが笑う。
「あなたの顔に、やっと“人の温度”が戻ったから」
ユウは思わず口元を緩めた。
手のひらの鈴が小さく鳴った。
その音は、夜を越えて朝へと溶けていくようだった。
夜が明けた。
スラム街の屋根の上に、ゆっくりと朝日がのぼっていく。
金色の光が瓦を照らし、灰に覆われた街が少しずつ色を取り戻していった。
ユウは診療院の外に立っていた。
手の中には《セレスティア》。
刃は朝の光を受けて、まるで新しい命を宿したように輝いている。
(この剣で、誰かを守れたなら――)
リシアが後ろから静かに声をかけた。
「朝ですね」
ユウが振り向くと、彼女は灯りを消して手を合わせていた。
「夜の灯が消えても、朝の光がそれを受け継ぐ。
それが“ローナの灯”なんです」
「……いい名前だ」
「ええ。先生が言ってました。
“誰かが生きる限り、この灯は消えない”って」
ローナが診療院の扉から顔を出した。
「おはよう、剣士さん。
少しは休めた?」
ユウは頷いた。
「ええ。けど、胸の奥がまだ熱い」
「それはいいことよ。
人を救うときに大事なのは、“痛みを感じる心”だから」
ローナは朝の光を浴びて、目を細めた。
「この街を出ても忘れないでね。
剣を振るうだけが勇気じゃないってことを」
「忘れません」
ユウはまっすぐに答えた。
そして、剣を腰に収める。
刃が鞘におさまる音が、静かな朝の空気に響いた。
カイが診療院の横で、子どもたちにパンを配っていた。
リナも加わり、笑顔が広がっていく。
それを見て、ユウの胸が少し温かくなった。
(戦うことも、救うことも――どちらも“生きる”なんだ)
ユウは空を見上げた。
雲の切れ間から光が差し込み、街全体が柔らかく照らされている。
その光の中で、鈴が風に鳴った。
「……俺は、斬るためじゃなく、生かすためにこの剣を持つ」
小さく呟く。
その言葉が、朝の空へ溶けていった。
リシアが笑顔で隣に立つ。
「それが、あなたの祈りですね」
ユウは頷いた。
「そうだな。今度こそ、ちゃんと見つけた」
ローナが背後から軽く手を振った。
「行ってらっしゃい、剣士さん。
この街の灯が、またあなたを照らしますように」
ユウは静かに微笑んだ。
朝日が顔を照らし、灰の中に金色の光が広がる。
その光の中で、彼の影がまっすぐ前へ伸びていた。
新しい一日が、始まった。
第6話「スラムの灯」は、“戦わない強さ”を描いた章です。
剣を抜くことしか知らなかったユウが、
人を救う“灯”に触れて初めて、「生きる」ことの意味を理解しました。
ローナの言葉は、ユウの心に残る重要な転機です。
彼女が示した「救う者の視点」が、今後の物語で
ユウを“守る剣聖”へと導いていきます。
リシアとの関係も、この章で少しずつ温かさを帯びました。
剣と祈り、戦いと癒し――この二つが重なることで、
物語は次の段階、「剣聖、再び歩き出す」へと進みます。




