表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界剣聖 ― スレイする者 ―  作者: スマイリング


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/16

第2話 灰の街レオグラード

 朝の鐘が、白い聖堂に反響した。

 低く澄んだ音が、空を切り裂くように響く。

 光の帯が窓を抜け、廊下に長い影を落とした。


 ユウは身支度を整え、聖堂の出口に立っていた。

 昨日まで包帯で覆われていた胸には、もう痛みはない。

 代わりに、薄い脈のような熱が、心臓の奥で静かに息づいている。


 「もう行かれるのですね」

 背後から声がした。

 アルマが扉のそばに立っていた。白衣の裾が朝の風に揺れ、銀の髪が光を受けてきらめく。


 「お世話になりました」

 ユウは軽く頭を下げる。

 彼女は微笑み、手を胸に当てた。

 「加護は安定しました。けれど……無理はなさらないでくださいね」


 「……ああ。もう寝てるばかりじゃ、落ち着かないからな」

 「あなたのような方は、そうでしょうね」

 その言葉に、ユウは苦笑する。

 どこか自嘲めいた笑い。彼女はそれを見て、ほんの少し寂しそうに目を伏せた。


 「外の世界は――きっと、あなたが思うよりも生き生きとしています。

 戦いも、笑いも、祈りも、すべてが同じ場所で息をしています」


 「……それを見てみたい」

 ユウは扉の取っ手に手をかけた。

 聖堂の外からは、街のざわめきが聞こえる。

 鍛冶の音、笑い声、行商人の呼び込み、遠くで響く馬車の車輪。


 アルマが静かに告げた。

 「あなたの旅は、きっと“戦う理由”を見つけるためのものになるでしょう」

 ユウは振り返り、わずかに頷く。


 「……その答えを見つけるまで、剣は抜かないさ」

 「ええ。どうか、あなたの剣が“祈り”と共にありますように」


 扉が開く。

 光が一気に流れ込み、視界が白く染まる。

 ユウは目を細めながら、一歩を踏み出した。

 冷たい石畳の感触が靴底を伝う。


 聖堂の高い塔を背に、ユウは深呼吸をした。

 新しい空気。

 その中に、血の匂いと焼き立てのパンの香りが混じっていた。


 ――ああ、これが“生きている”匂いか。


 遠くで再び鐘が鳴る。

 その音が、まるで「行け」と背中を押しているように感じられた。


 ユウは小さく呟いた。

 「ここから、始める」


 聖堂街の石段を下りながら、

 彼は初めて見る世界の色に、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。


 階段を下りきると、景色が一変した。

 聖堂街の静寂が嘘のように、目の前には人、人、人――。

 石畳の広い通りを、荷馬車や行商人、鎧姿の冒険者たちが行き交っていた。

 香ばしいパンの匂い、油の焼ける匂い、そして金属のこすれる音が混じり合う。


 ユウは思わず立ち止まり、街を見渡した。

 白い建物に、煤けた屋根。

 どこもかしこも少し灰色を帯びているのに、なぜか温かい。

 人々の声がその灰色を埋めるように、絶え間なく流れていた。


 「戦うための街、って言葉は……本当らしいな」

 呟きながら歩くと、通りの中央で子どもたちが木剣を振り回していた。

 「スレイごっこ!」

 笑い声と共に、誰かが倒れ、誰かが勝ち誇る。

 それを見ていた大人たちは笑いながら拍手を送っている。


 ――戦いが、この街では遊びでもあり、日常でもある。


 ユウは胸の奥が少しだけざわついた。

 この光景は、彼が知っている世界とはまるで違う。

 誰かが怪我をしても、それを恐れず、笑って立ち上がる。

 その姿に、“生きる”という言葉の意味を少しだけ思い出した。


 通りを進むと、露店の店主たちが元気よく声を張り上げていた。

 「新鮮な薬草だよ! 二日酔いにも剣傷にも効く!」

 「安いぞ、修繕用の革! 血の跡つきは割引だ!」

 どの声にも力がある。

 生き延びた者たちの声――そんな気がした。


 ユウは無意識に胸を押さえた。

 包帯の下の刻印が、微かに熱を帯びる。

 まるで、この街の息吹に反応しているかのようだ。


 「おいおい、よそ見してっと危ねぇぞ!」

 がっしりした腕が、ユウの肩をつかんだ。

 振り返ると、樽のように太い男が笑っていた。

 髭を整えた丸顔、商人風のエプロン。


 「すまん」

 「構わねぇさ。だがあんた、旅人だろ? 顔に“迷ってます”って書いてあるぜ」

 豪快に笑うその男の背後には、立派な店構えの建物があった。

 看板には『フォルド商会』の文字。

 武具、薬品、日用品――何でも扱っているようだ。


 「ここは商人の街か?」

 「ここは“生き延びるための街”さ。

 戦う奴も、祈る奴も、商人も、みんな同じだよ」

 男は胸を張って笑った。

 「名前はバルド・フォルド。元冒険者、今は商会主だ」


 その声の明るさに、ユウは不思議と息が軽くなった。

 この街の人間は、恐れを笑い飛ばすように生きている。

 彼の中にあった重い沈黙が、少しだけほどけていく。


 「よかったら寄ってけ。

 あんたのその上着、見るからに旅人用だろ? こっちじゃ風邪ひくぜ」


 バルドはぐいと腕を掴み、笑顔のまま店の中へと引っ張った。

 ユウは抵抗もできずに、その背に引かれていく。


 ――不思議だ。

 ほんの数時間前まで、神の声を聞き、死と生の狭間にいたのに。

 今、自分は人の喧騒の中にいる。

 胸の刻印が熱を帯びるのは、恐怖ではなく――確かに、生の証だった。


 フォルド商会の扉をくぐった瞬間、ユウは思わず息を止めた。

 店の中は、外の喧騒と違って温かい空気に包まれていた。

 壁には剣や盾が並び、奥の棚には薬草や瓶詰めの薬液が整然と並んでいる。

 革の匂いと鉄の匂いが混ざり合い、不思議な落ち着きをもって漂っていた。


 「へぇ、綺麗にしてるんだな」

 ユウがそう言うと、バルドはにやりと笑った。

 「そりゃそうさ。戦場に出る奴らの命を預かるもんを売ってんだ。

 血と泥の匂いだけにしちゃ、縁起が悪いだろ?」


 彼はカウンターの奥に回ると、どっかと腰を下ろした。

 「で、あんた。聖堂帰りの顔してるな。加護の手当てでも受けたか?」

 「……見てわかるのか」

 「そりゃな。そういう顔をもう何百人も見てきた」


 バルドの目は、笑っているようで、どこか鋭かった。

 商人というより、かつての戦士の目。

 その視線に射抜かれて、ユウは思わず黙り込む。


 「安心しな。詮索なんてしねぇよ。

 こっちは物を売るのが仕事だ。過去は値段がつかねぇからな」


 その一言に、ユウの胸の奥が少しだけ軽くなった。

 この街の人間は、誰も“理由”を聞かない。

 ただ、生きているかどうか、それだけを見ている。


 「……じゃあ、旅人用の外套を頼む」

 「へい。風よけの厚手のやつと、軽い戦闘用のやつ、どっちにする?」

 「軽い方だ」

 「了解。……っと、サイズは――ほう、鍛えてやがるな」


 バルドが笑いながら肩のあたりを測る。

 その仕草が雑なのに、不思議と手際がいい。

 「剣士だな。

 握りのタコの形、剣を振るう奴の手だ。

 ……腕を隠すなら黒布だ。血も目立たねぇ」


 「戦う気は、まだない」

 「“まだ”か。いいねぇ。まだって言えるうちは、生きてる証拠だ」

 バルドは外套を畳みながら、にかっと笑う。

 「俺も昔は剣を振るってた。

 仲間が倒れた日、剣を商売道具に変えたんだ」


 「剣を……売る方に?」

 「ああ。戦う奴を支えるのも、立派な戦いさ」

 彼の笑い声は朗らかだが、その奥に一瞬だけ、深い影が走った。


 「命ってのは、金より軽いようで重い。

 使いどころを間違えたら、二度と取り返せねぇ。

 金も命も、使いどころを間違えちゃいけねぇ――俺の口癖だ」


 その言葉が、ユウの胸に残った。

 命も金も、“使う”もの――守るだけじゃない。

 戦神の教えとは違う、生の哲学。


 「……いい言葉だ」

 「だろ? よかったら刻んどけ。タダでいい」

 バルドは豪快に笑いながら、外套をユウに渡した。


 「で、宿は決まってるか?」

 「いや、まだ」

 「じゃあ、白獅子亭に行け。飯がうまいし、看板娘が元気すぎて退屈しねぇ」

 「……元気すぎる?」

 「ま、会えばわかるさ。あんたみたいに無表情な男には、丁度いい薬になる」


 ユウはわずかに苦笑し、代金を置いた。

 バルドはそれを片手で押し返した。

 「初めての客には景気づけだ。今日は“生き直し”の記念日なんだろ?」


 「……ありがとな」

 その一言だけ残して、ユウは外に出た。

 背中で、バルドの声が明るく響く。

 「命張る覚悟がねぇなら、依頼書に名前を書くなよー!」


 街の喧騒が再びユウを包む。

 外套の感触が、温かい。

 それがまるで“人のぬくもり”のように思えた。


 昼下がりの商店街は、陽の匂いで満ちていた。

 屋台の呼び声と、焼き肉の煙。

 バルドに教えられた道を歩くうちに、ユウは自然と足を止めていた。


 そこにあったのは、白い獅子の看板が掲げられた食堂――「白獅子亭」。

 木の扉の隙間からは、香ばしいバターとスープの匂いが漏れてくる。

 腹の奥がぐうと鳴った。


 「……そういえば、食ってなかったな」


 扉を押すと、明るい声が飛び込んできた。

 「いらっしゃいませー! お兄さん、初めての顔だね!」


 店の奥から、エプロン姿の少女が駆け寄ってきた。

 栗色の髪を高く結び、緑の瞳が元気に輝いている。

 年の頃は十六、七か。笑うたびに、空気が少し明るくなるような笑顔だった。


 「席、空いてますよ! 今日はシチューが人気です!」

 「……じゃあ、それを」

 「はーい、マリア特製! ちょっと待っててくださいね!」


 少女――マリアが奥へ走っていく。

 ユウは窓際の席に腰を下ろした。

 外からの光がテーブルを照らし、スプーンの影が柔らかく揺れている。

 この数日の静けさの中で、初めて“生活の音”を聞いた気がした。


 (人が生きてる音って、こういうものなんだな……)


 厨房からの話し声、皿のぶつかる音、笑い声。

 聖堂では聞こえなかった、生のリズム。


 やがて、マリアが湯気の立つ皿を運んできた。

 「はい、お待たせ! シチューとパンのセット、熱いから気をつけて!」

 湯気の向こうに、彼女の笑顔。

 ユウは思わず「ありがとう」と口にした。


 スプーンを取り、そっと口に運ぶ。

 とろりとしたルーが舌に触れた瞬間、

 懐かしいような、胸の奥が震えるような感覚が走った。


 「……うまい」

 それはただの言葉ではなく、呼吸に近かった。

 味を“感じた”のは、いつ以来だろう。


 マリアが目を丸くして笑う。

 「よかった! お兄さん、顔は怖いけど、反応が素直でいいね!」

 「怖い、か……」

 「うん。でも優しそう。あ、そうだ。名前、教えてもらってもいい?」

 「ユウ・ハルヴァード」

 「ユウさん! 覚えた!」

 マリアは嬉しそうに胸を張った。


 ユウはパンをちぎりながら、ふと尋ねた。

 「この街の人間、みんな元気だな」

 「そう見える? うん、元気だよ。

 でもね、毎日誰かが迷宮に行って、帰ってこない。

 だから、今日笑えるうちは思いっきり笑っとくの」


 その言葉を聞いて、ユウはスプーンを止めた。

 マリアはそれを見て、明るく笑う。

 「暗い話に聞こえるけど、ぜんぜんそんなことないよ?

 だって――“今日生きてる”って、すっごく特別なことだもん」


 その一言が胸の奥に刺さる。

 昨日まで、“生きること”が恐怖だった。

 だが今は、“生きている”という感覚が確かにある。


 ユウは少しだけ笑って答えた。

 「……あんた、いいこと言うな」

 「えへへ、でしょ?」

 マリアは満面の笑みを浮かべて、空の皿を片づけた。


 「また来てね! ユウさんみたいな顔してる人、結構好きだから!」

 「……褒められてる気がしないな」

 「褒めてるって!」


 笑い声が店に響く。

 ユウはその音を背に、外へ出た。

 胸の奥で何かがほどけるように軽くなっていた。


 街のざわめきが、さっきよりも近く感じた。


 白獅子亭を出ると、昼の光がまぶしかった。

 人波を抜けた先に、賑やかな声が聞こえてくる。

 木剣を打ち合わせる音、掛け声、笑い声。

 通りを折れた先に、広い石畳の広場があった。


 そこは冒険者たちの訓練場だった。

 若い男女が十数人、木剣を手に向かい合っている。

 風に揺れる布の旗には、銀色の鷹の紋章――冒険者ギルド《銀の鷹亭》。


 ユウは無意識に足を止めた。

 「戦いが、ここでは遊びみたいなものか……」

 剣がぶつかる音の向こうで、誰かが笑って転がる。

 それを見て仲間たちが駆け寄り、手を差し伸べる。

 誰も怒らない。誰も死なない。

 それでも確かに“戦っている”。


 その光景に、胸の奥がじんと熱くなる。

 (これが……この街の“日常”なんだな)


 見ているだけで、体の奥の何かがざわめく。

 握りしめた拳の中で、包帯の下の刻印が脈を打った。

 ――ドクン。

 心臓の鼓動とは違うリズム。まるで戦場の記憶を呼び覚ますような重さだった。


 「おい、そこの兄ちゃん!」

 誰かの声で我に返る。

 顔を上げると、訓練場の中央で若い男が手を振っていた。

 金髪に浅黒い肌、軽装の革鎧。

 「見学か? よかったら一本どうだ!」


 「いや、俺は――」

 「遠慮すんなって! うちの若ぇのが相手してやる!」

 笑いながら押し出されるように、ユウは木剣を手渡された。

 柄を握った瞬間、手の中に“懐かしい感覚”が走る。

 指先に重みが伝わり、呼吸が自然と整う。


 (……覚えてる。剣を、振るう感覚)


 対面に立ったのは、まだ少年と言っていいほどの若い冒険者。

 「よろしくお願いします!」

 元気な声と同時に、彼が踏み込んできた。

 木剣が空を切る。反射的に腕が動く。

 打ち合いの音が、空気を震わせた。


 周囲から歓声が上がる。

 ユウの動きは無駄がなく、流れるようだった。

 少年の剣を受け流し、踏み込み、軽く胴を打つ。

 「す、すげぇ……!」

 見ていた者たちのどよめき。

 ユウは息を吐き、木剣を下ろした。


 「……悪い。手が勝手に動いた」

 「いや、すごかったっす! まさか聖堂帰りの兄さんが、こんなに!」

 少年が笑い、仲間たちが手を叩く。

 その笑顔の輪の中に、自分がいることが信じられなかった。


 ユウは手のひらを見つめた。

 木剣の柄の跡が赤く残っている。

 ――胸の刻印が、静かに光っていた。


 「兄ちゃん、いい腕してんな! あんたもギルドに来いよ!」

 金髪の男が笑いながら肩を叩いた。

 「冒険者ギルド《銀の鷹亭》、明日の朝に新規登録がある。

 名前書くだけでいいからさ」


 「ギルド……」

 ユウは空を見上げた。

 白い雲が流れ、鐘の音が遠くで響いている。

 その音がまるで、“次の場所へ行け”と告げているようだった。


 「考えておく」

 短く答えると、金髪の男は笑って親指を立てた。

 「待ってるぜ、剣聖さん!」


 その言葉に、ユウは目を細めた。

 ――剣聖。

 それは、かつて神に呼ばれた名。

 だが、今はただの“生き直した男”でいい。


 風が吹いた。

 白い布の旗がはためき、剣の音が響く。

 その音が、どこか懐かしく、そして少し切なかった。


 訓練場を抜けると、夕方の光が通りを斜めに照らしていた。

 陽が傾くたびに、街の喧騒が少しずつ落ち着き、代わりに焚き火と酒の匂いが漂いはじめる。

 ユウは歩きながら、さっきの木剣の感触を何度も確かめていた。

 ――戦う。

 その言葉が、以前よりも少しだけ“怖くない”と思えた。


 角を曲がると、冒険者ギルド《銀の鷹亭》の看板が見えた。

 扉の上で、銀色の鷹が翼を広げている。

 中に入ると、木の香りと人の熱気がどっと押し寄せた。

 テーブルでは酒を酌み交わす者たちの笑い声。

 壁際では、受付嬢が次々と依頼票を張り替えている。


 「……これが、ギルド」

 ユウは呟いた。

 バルドが言っていた“生き延びる者の集まり”とは、こういうことか。

 生と死の境目に、笑い声がある。

 それがこの街の生き方なのだ。


 掲示板の前に立つと、羊皮紙の依頼がびっしりと貼られていた。

 「スライム討伐」「薬草採取」「野犬駆除」「行方不明者の捜索」……。

 どれも“戦い”の延長にあるが、同時に“生活の仕事”でもある。


 ユウはひとつの紙に目を留めた。

 小さな文字で書かれた依頼――《孤児院への荷物護衛》。

 報酬は安い。だが、依頼人の欄にはこう書かれていた。

 《依頼主:アークソル聖堂 巫女アルマ・レーヴェン》


 「……あいつの名前だ」

 指先が自然と紙に触れる。

 胸の奥で刻印が、かすかに光った気がした。


 「お、兄ちゃん、新入りか?」

 低い声に振り向くと、受付カウンターの奥から髭の男が顔を出した。

 「依頼見るのはタダだが、受けるには登録がいる。どうする?」

 「登録……って、誰でもできるのか?」

 「ああ、名前と血の契約印を残すだけだ。

 生きる覚悟があるなら、誰でも冒険者になれる」


 ――生きる覚悟。

 その言葉が妙に胸に残った。

 ユウは無意識に拳を握る。

 あの時、戦神ヴァルドが言った声が蘇る。


 ≪逃げる者に救いはない≫


 “逃げる”――あの世界では、それが日常だった。

 けれど今は、逃げずに歩くことを選べる。

 戦うためじゃなく、守るために。


 ユウは依頼票をもう一度見つめた。

 アルマの文字が、淡く震えるように見えた。

 (……これは、俺への呼びかけかもしれないな)


 「登録、お願いする」

 「おう。名前を」

 「ユウ・ハルヴァード」

 男が帳簿にペンを走らせる。

 次に差し出された小刀で、ユウは指先を切り、羊皮紙に血を一滴落とした。


 赤い染みが広がる。

 その瞬間、胸の刻印が熱を帯びた。

 光がわずかに溢れ、血の上に小さな紋様が浮かび上がる。


 「……こりゃ珍しい。神殿系の加護持ちか?」

 「そんなところだ」

 「へぇ、こいつは期待できそうだな。

 ま、明日の朝に依頼の説明を受けに来い。今日のところはゆっくり休め」


 男はにやりと笑い、手を振った。

 ユウはうなずき、掲示板を振り返った。

 あの依頼票は、まるで彼を見ているかのように揺れていた。


 外に出ると、空は朱に染まっていた。

 雲の端が赤く燃え、街の屋根が夕陽に輝いている。

 その光を見ながら、ユウは小さく呟いた。


 「戦う理由、か……

 ――少なくとも、あの人の祈りは守りたい」


 風が通り抜け、外套の裾を揺らした。

 胸の刻印が、静かに呼吸しているように温かかった。


 夕陽が、灰色の屋根を染めていた。

 街全体が赤く照らされ、瓦の一枚一枚がまるで火の粉のように光っている。

 人々の声はまだ絶えない。

 酒場では笑い声が響き、どこかの屋台では笛の音が鳴っていた。


 ユウは白獅子亭の隣にある宿の屋根裏部屋にいた。

 バルドが手配してくれた安宿だ。

 窓は小さいが、そこから街を一望できる。

 灰の街――レオグラード。

 どんなに煤けても、どこか美しい。


 机の上には、冒険者登録証が一枚置かれている。

 羊皮紙に書かれた自分の名前――ユウ・ハルヴァード。

 まだ見慣れない文字。

 けれど、確かに“今”を証明するものだった。


 胸の刻印が、静かに熱を帯びる。

 それは痛みではなく、呼吸のような温かさ。

 “生きている”という実感が、ゆっくりと身体を満たしていく。


 窓の外、鐘の音が響く。

 聖堂街の塔から届くその音は、朝とは違い、どこか優しい。

 あの音を聞くたびに、アルマの顔が浮かぶ。

 彼女が言っていた――「あなたの剣が、祈りと共にありますように」と。


 (……祈り、か)

 剣と祈り。

 それはきっと、相反するものじゃない。

 守りたいものがあるからこそ、剣を取る。

 その意味を、ようやく少しだけ掴めた気がした。


 街の灯りがひとつ、またひとつ灯っていく。

 路地の先では、子どもが笑い、親が呼び戻す声が聞こえる。

 血と鉄の匂いに満ちた街なのに、不思議と温かい。

 “戦い”と“生きる”が混ざり合うこの場所に、

 自分の居場所があるのかもしれない。


 ユウは窓を開け、夜風を吸い込んだ。

 冷たさが喉を抜け、胸の奥を撫でる。

 「……悪くないな」

 ぽつりと呟く声が、自分でも少し笑えてくる。


 机の上の登録証を手に取り、光に透かす。

 薄い羊皮紙の向こうに、刻印の赤がほのかに揺れた。

 「もう逃げない」

 静かに言葉が落ちる。


 迷いと後悔の中にあった“生”は終わった。

 ここから先は、“誰かのための生”。

 その一歩を、明日から踏み出そう。


 窓の外では、夜の霧がゆっくりと降りてきていた。

 灯りが滲み、街全体が夢のようにぼやける。

 ユウは外套を肩にかけ、ベッドに腰を下ろした。

 瞼を閉じる直前、胸の刻印が一度だけ光を放つ。


 それはまるで、

 “明日も、生きろ”と囁くようだった。


 夜が、レオグラードの街を包み込む。

 遠くの鐘が、最後の一音を残して消えた。

 第2話「灰の街レオグラード」は、聖堂の静寂から一転して“生の喧騒”を描いた回でした。

 ユウが初めて人の笑顔や食事、戦いの訓練を見ることで、「戦う=生きる」ではなく「生きる中に戦いがある」ことを理解する過程が中心です。


 バルドとマリアの明るさは、彼の心に最初の“温度”を与える存在。

 彼の孤独がゆっくりほどけ、胸の刻印が“生”のリズムに同調しはじめました。


 次話、第3話「銀の鷹亭の誓い」では、

 ギルド登録の正式な試験と、グランとの邂逅を通して“仲間と戦うこと”を学びます。

 ここから、物語は本格的に“冒険譚”へと進んでいきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ