第15話 廃都に吹く風
北の街道を吹き抜ける風は、焼けた鉄の匂いを運んでいた。
焦土の地平には、もう人の声はない。ただ乾いた風が、折れた標識を鳴らしている。
ユウは外套の裾を押さえながら、黒ずんだ石畳を歩いていた。足跡の跡には、古い血がこびりついている。――十年前、この道を最後に、誰も廃都から戻らなかったという。
「……ねぇ、先生」
リシアが隣で小声を漏らす。旅装の裾には砂埃がこびりつき、彼女の頬も薄く煤けていた。
「本当に、この先に街があるの?」
ユウはうなずいた。
「地図上ではな。だが、人の住む街じゃない。神に見放された場所だ」
そう言っても、彼の声に感情はなかった。静かで、どこか遠い。
転生してから幾度も見た“焼け跡”のひとつにすぎない――はずだった。
ローナが少し後ろからついてきて、口元で乾いた笑みを浮かべる。
「こんな焦土に、また足を踏み入れるとはね。……ほんと、好きね、あんたたち」
「仕事だ」ユウは答えた。
「北の峡谷で、また“スレイ暴走”が起きてる。神殿が調査を放棄したままじゃ、被害が広がる」
ローナは肩をすくめる。「命知らずのボランティア、って言いたいのよ」
リシアがそれにかすかに笑った。けれど、すぐに笑みは消える。
遠くの空が鈍い灰色をしていた。陽光は煙に遮られ、どこかで焦げた木の匂いが漂う。
リシアは胸の前で両手を組んだ。
「……祈りを捨てた街、ってほんとにあるんだね」
「祈りを捨てたんじゃない。祈りが壊れたんだ」ユウが言う。
その声は低く、まるで自分自身を戒めるようだった。
――戦うたび、誰かの祈りを壊してきた。そんな後悔が、彼の胸の奥にまだ燻っていた。
風が強くなり、灰が舞った。
見上げた先に、崩れかけた城門の影が見え始める。
塔の上には鳥の群れが巣を作り、かすかに光を反射させていた。
ローナが呟く。「あれがカレンの外門よ。……十年ぶりに見る」
リシアは思わず息を呑む。かつて神殿都市と呼ばれたその街の姿は、いまや黒い亡骸のようだった。
それでもユウは一歩、また一歩と進む。
彼のブーツが焦げた石を踏むたび、乾いた音が響いた。
――廃都に吹く風が、まるで誰かの囁きのように、背中を押してくる。
廃都の外門は、まるで巨人の遺骸のように沈黙していた。
崩れた石壁に蔦が絡み、門扉の代わりに黒焦げの梁が斜めに突き立っている。
風が通り抜けるたび、鉄の残響が耳を刺した。
リシアはその場に立ちすくむ。
「……人の街、だったんだよね。ここ」
ユウは頷き、静かに門柱に手を当てた。
石の表面には、赤く光る紋様がうっすらと浮かんでいる。
刻印――いや、スレイの残滓。
討たれた魂の痕が、なおもこの門に焼きついていた。
「まだ、消えていないな」
ユウが呟くと、ローナが低い声で応じる。
「スレイ暴走の跡よ。十年前、ここの神官たちが加護を制御できなくなった。
街ごと、光に焼かれたの」
彼女の指先が、灰の下から淡く光る石片を拾い上げる。
小さな、牙の形をした護符だった。
「この形……まるで獣の祈りね」
リシアがその護符を覗き込み、眉をひそめた。
「どうしてこんな場所に?」
ローナは肩をすくめる。
「わからない。でも、人間が作ったものじゃない。――感情の波が、違う」
ユウは護符を受け取り、掌の上で光を確かめた。
赤い筋が微かに動き、まるで脈打つように震えている。
「……まだ、生きてる」
その言葉に、リシアが息を呑んだ。
「生きてる? だってこれは――」
「“群れ”の記憶だ」ユウが静かに言う。
「討たれた者の祈りが、形を変えて残っている」
風が門の裂け目を吹き抜けた。
どこか遠くで、低く長い“遠吠え”が響く。
それは風の音にも似ていたが、確かに生き物の声だった。
リシアが震える指で剣の柄を掴む。
「今の……聞こえた?」
ローナがうなずく。
「ええ。……北の峡谷からね。あれが“スレイ残響”の源だわ」
ユウは目を細め、灰色の空を見上げた。
「行こう。門を越える」
「でも――」リシアが一歩ためらう。
その肩に、ユウが手を置く。
「怖いなら、それでいい。
恐れを知って進むのが、俺たちの戦い方だ」
リシアは唇をかみ、うなずいた。
「……わかった。先生」
三人は廃都の門をくぐる。
足を踏み入れた瞬間、風の流れが変わった。
街の中から吹く風は冷たく、湿っていた。
まるで“まだ何かが生きている”と告げているかのように――。
門を越えた瞬間、世界の色が変わった。
灰に覆われた空の下、街全体が静止画のように止まっている。
風が吹いても埃ひとつ動かず、音のすべてが吸い込まれていくようだった。
「……音が、しない」
リシアの呟きが、やけに大きく響いた。
ユウは頷き、剣の柄に軽く手をかけた。
「ここでは“祈り”も止まっている。だから風も眠る」
石畳は崩れ、割れた瓦礫の間から黒い根のような筋が走っていた。
それは地面の下に生きている何かが、まだ脈打っているように見えた。
ローナが膝をついて、その黒い筋を指でなぞる。
「……スレイの流れね。加護が暴走したあと、こんなふうに地を這うの。
まるで血管みたいでしょう?」
「じゃあ、まだ“生きてる”ってこと?」リシアが問う。
「そう。けど、これは血じゃない。祈りが腐った跡よ」
その言葉に、リシアの顔が曇った。
足元の瓦礫を見つめると、小さな骨が転がっていた。
人のものではない――細く、軽い。
ユウはそれを拾い、親指でそっと撫でる。
「獣の骨だ。けど……スレイが刻まれている」
「え? 獣にもスレイってあるの?」
ユウはうなずく。
「生きるために戦ったなら、刻まれる。神が与えた理屈なんて関係ない」
ローナがため息をつく。「皮肉ね。戦わない者の祈りは消えて、獣の祈りだけが残るなんて」
「人はすぐに“群れ”を壊すからだ」ユウの声が低く響いた。
「群れが怖くなる。信じることが怖くなる。……だから孤独でいようとする」
リシアはその横顔を見上げた。
「先生も、そうなの?」
ユウは答えない。代わりに、街の奥――崩れた聖堂の影を見つめる。
そこに、風のない空気が渦を巻いていた。
光でも闇でもない、灰色の粒子がゆらめく。
耳を澄ませば、何かが囁いているようだった。
“帰レ”
ほんの一瞬、そんな声が聞こえた気がした。
リシアが震える。「今の、誰か……」
ローナが顔をしかめた。
「この街の“残響”よ。討たれた者たちが、まだここに縛られてる」
ユウは剣に手を置いた。
「だから、終わらせに来た」
灰が舞い、塔の影が揺れる。
風は冷たく、どこか哀しげだった。
それでも彼らは歩を止めない。
廃都の奥へ――沈黙の街の心臓部へと進んでいった。
聖堂跡地は、廃都の中心にあった。
かつて祈りの鐘が鳴り響いたであろう高塔は半分ほど崩れ、天井の残骸が床に突き刺さっている。
柱の一本一本にまで焼け跡が残り、黒い煤が風に舞った。
リシアは思わず息を詰めた。
「ここが……祈りの場所、だったの?」
ローナが頷く。
「“だった”わね。戦神派が最後まで拠点にした神殿跡。暴走したスレイがここで爆ぜた」
床には、複雑な円紋が刻まれていた。
石畳のひとつひとつに、赤い線が走り、螺旋を描いて中央へ収束している。
まるで無数の爪跡で掘られたようだった。
「これ……獣の跡?」リシアが膝をついて指を近づける。
ユウはすぐにその手を掴んだ。
「触るな。呼ばれる」
次の瞬間、空気が変わった。
温度が下がり、耳の奥で低い唸りが鳴る。
灰色の光が床の模様から立ち上がり、ゆらゆらと天井の闇に吸い込まれていった。
「……スレイ残響よ」ローナの声が硬くなる。
「倒された魂が祈りを忘れられず、記録のまま循環している。
人の手で止められない“祈りの屍”」
リシアが身をすくめる。「声が、聞こえる……」
確かに、耳の奥で何かが囁いていた。
それは言葉にならない悲鳴のようであり、懇願のようでもあった。
『……守レ……群レ……』
風が一気に吹き抜け、灰が舞い上がる。
リシアの髪が乱れ、頬をかすめた。
ユウは剣の柄を強く握る。
「見えてきたな。これは……“群れの祈り”だ」
「群れの……祈り?」リシアが問い返す。
「この街を襲ったのはコボルトたち。けれど、彼らも祈っていた。
神ではなく、“群れ”そのものに」
ローナが唇を噛む。「祈りを神から取り戻した存在……ね。皮肉だわ」
ユウは静かに頷いた。
「だからこの残響は消えない。彼らの祈りがまだ、この地を歩いている」
その時、床の模様が一瞬だけ強く輝いた。
光が脈打つように波打ち、三人の影を壁に映す。
それぞれの影の背後に、獣の輪郭が重なって見えた。
リシアが息を呑む。「先生、後ろに――!」
ユウは即座に彼女をかばい、剣を抜く。
鋼が空気を裂く音が、静寂の街に響いた。
けれど、襲いかかってきたものはなかった。
ただ、目に見えぬ影が、彼の刃に触れるようにして消えていく。
その一瞬、ユウの胸の刻印が淡く光った。
「……やっぱり、ここに“声”がある」
ユウは剣を下ろし、灰の舞う空を見上げた。
風の中に、確かに聞こえた。
誰かが遠くで、静かに――“遠吠え”をしている。
風が止んだ。
代わりに、聖堂の奥から低い唸りが響く。
石壁が震え、粉塵がぱらぱらと降り注ぐ。
ユウは反射的に前へ出た。剣を半ば抜いたまま、視線を巡らせる。
「――来るぞ」
リシアは息を呑み、ユウの背に身を寄せた。
ローナは杖の先に淡い光を灯す。医師でありながら、最低限の防衛魔術は心得ている。
光が揺れ、崩れた祭壇の影を照らした。
そこにいた。
灰の靄の中、四つ足の影がゆらゆらと形を成していく。
体躯は人の少年ほどの大きさ。だが、その目は虚ろで、体は透けていた。
“スレイ残響”が具現化した幻影――討たれたコボルトの魂。
リシアが思わず叫ぶ。「まって、斬っちゃだめ!」
ユウの動きが止まる。影は威嚇の姿勢を取らず、静かに首を垂れていた。
その動作に、怯えも敵意もない。
「……何か、訴えてる」リシアがつぶやく。
光の体がわずかに震え、灰の粒が涙のように床に落ちた。
その一滴が石に染みるたび、淡い音がした。
“遠吠え”だ。
人の声ではない、けれど確かに悲しみの響きを持った声。
それがひとつ、ふたつと重なり、聖堂全体が共鳴しはじめた。
廃都の風が吹き込み、崩れた屋根の隙間から灰光が差し込む。
ローナが震える声で言った。
「彼ら……泣いてるのよ。討たれたことを恨んでるんじゃない。
“群れ”を失った悲しみを、ただ、思い出している」
ユウは剣を下ろした。
「戦うための声じゃない……“帰りたい”と叫んでいる」
そのとき、リシアが一歩前へ出た。
「……待って」
彼女は掌を差し出し、ゆっくりと幻影へ近づいた。
「大丈夫。あたしたちは敵じゃないよ」
影が一瞬、戸惑うように動いた。
だが次の瞬間、光が彼女の掌に触れた。
冷たい――けれど、優しい感触。
リシアの目に涙が滲む。
「ねぇ、先生。……この子、まだ生きたいって」
ユウは息を詰めた。
影がふっと形を崩し、灰の粒となって舞い上がる。
それが空へ昇るにつれ、遠くの空にまたひとつ、遠吠えが重なった。
まるで仲間の声に応えるように。
ローナが静かに目を閉じた。
「ここは墓地みたいなものね。けれど、彼らの祈りは終わっていない」
ユウは剣を鞘に戻し、聖堂を見回した。
「……群れの祈り、か」
その言葉を噛みしめるように呟き、彼はゆっくりと空を見上げる。
天井の穴から吹き込む風が、光を運んできた。
灰にまみれた世界の中で、その一筋の光だけがやけに眩しかった。
“まだ、何かを守れるかもしれない”――そんな錯覚のような希望が、ユウの胸をかすめた。
聖堂の鐘楼が、風に鳴った。
音はかすかだったが、それでも確かに響いた。
まるでこの街の祈りが、再び目を覚ましたかのように。
夕陽が沈みかけていた。
聖堂を出た三人は、瓦礫の積もる広場に立ち、燃えるような空を見上げていた。
灰に染まった廃都にも、確かに光は差している。
リシアは胸の前で両手を握りしめ、まだ震えていた。
「……さっきのあの子、どうしてあんなに悲しそうだったの?」
ユウはしばらく答えず、廃墟に吹く風の音を聞いていた。
「“群れ”を失ったんだ」
静かな声でそう言って、彼は歩き出す。
「コボルトたちは互いを信じて戦う種族だ。だが、この街を襲った時、人間は皆バラバラだった。
誰も隣を信じず、誰も助けなかった。……その“孤独”に、彼らは飲み込まれたんだ」
リシアは俯いた。
「そんなの、悲しすぎるよ」
「悲しいだけじゃない」ユウは言う。
「俺たちも、同じ道を歩いているかもしれない。
――信じることを怖れて、剣を振るってる」
ローナが少し離れた場所で瓦礫の上に腰を下ろし、短く息を吐いた。
「人も獣も、祈りを間違えるのよ。
“守りたい”って思って戦っても、いつの間にか“勝ちたい”になってる。
……それがこの街の終わり方」
ユウは彼女の言葉を受け止めるように、剣の柄を握り直す。
「だからこそ、確かめたい。
あの遠吠えの主が、まだ“祈り”を覚えているのかどうか」
リシアは顔を上げた。
「行くの? 北の峡谷へ?」
「行く」
ユウの返答は迷いがなかった。
風が彼のマントを大きく翻し、灰の粒が空へ散った。
ローナが片眉を上げる。
「ほんと、あなたって過労死向きね。普通なら一晩くらい休むでしょ」
ユウが小さく笑う。
「死んでみてわかった。休んでも、心は休まらない」
「まったく、救いようがないわね」
それでもローナの声は少し柔らかかった。
リシアは彼らのやり取りを見て、ほんの少し笑顔を取り戻した。
だが次の瞬間、遠くで“ゴォォ……”という低い風鳴りが響いた。
聖堂の方角――いや、もっと北から。
それは確かに、風ではない。
「……聞こえた?」リシアが問う。
ユウがうなずく。
「コボルトたちの“声”だ。俺たちを待っている」
その言葉に、リシアは剣を強く握った。
「なら、行こう。怖いけど、あの子たちの涙を放っておけない」
「勇気ってのは、怖いまま進むことだ」ユウが答える。
太陽が地平に沈み、赤と黒が混ざる空が広がる。
ローナは立ち上がり、灰を払って言った。
「……あの遠吠えが終わるまで、私は医者をやめられそうにないわね」
三人の影が長く伸び、廃都の門へと続く。
風の中、リシアの髪が舞い、ユウの剣の鞘が光を反射した。
その光は、沈みゆく太陽の色と同じだった。
――風が変わった。
吹き抜ける冷気が、北へと誘うように背を押す。
廃都の屋根を越え、遠くの峡谷からまたひとつ、遠吠えが響いた。
それは哀しみでも怒りでもない。
“群れ”を求める祈りの声だった。
夜が落ちていた。
薄闇の中、三人は廃都の外門へ向かっていた。
空には月が出ている――けれど、その光はどこか濁って見えた。
風が吹くたび、崩れた屋根瓦が鳴り、遠くの塔の影がゆらめく。
リシアは背中の荷を握りしめながら、何度も振り返った。
「……ほんとに、行っちゃうんだね」
「ここに留まっても、誰も戻らない」ユウが言う。
「祈りの止まった街にできることは、ただ“風を通す”ことだ」
ローナが白衣の裾を整え、軽く笑う。
「風通しね。医者としては悪くない処方よ」
ユウは肩をすくめた。「お前の薬より効くといいが」
リシアはそんな二人を見て、少しだけ笑う。
――この静けさの中でも、笑える自分がいる。
それが不思議で、どこか嬉しかった。
外門の前に立ったとき、ユウは一度だけ振り返った。
聖堂の尖塔が遠くに見える。
そこから、光の粒がふわりと舞い上がっていた。
「見て……あれ」リシアが指さす。
灰の夜空に、星のような光がいくつも浮かび上がっていた。
廃都のあちこちから、同じ光が風に乗って立ちのぼっている。
ローナが息をのむ。
「スレイ残響が、消えていく……」
ユウは目を細め、静かに呟く。
「……祈りが、帰るんだ」
風が強くなった。
焦土の上を渡る風は、もう冷たくなかった。
光の粒を運びながら、北の峡谷へと流れていく。
その風の音の中に、遠くからあの“遠吠え”が重なった。
今度は哀しみではない。
まるで、仲間を呼ぶような、優しい声だった。
リシアの頬を涙が伝う。
「……ねえ先生、あの声、きっと“ありがとう”って言ってる」
ユウは答えなかった。ただ、剣の柄を静かに握りしめる。
「祈りは、まだ消えていない。
なら、俺たちの旅もまだ終わらない」
ローナが鼻で笑い、「うまいこと言うじゃない」と呟いた。
リシアは涙の中で笑い、北の空を見上げた。
その先には、黒い山影――《北峡谷》が広がっている。
風は、そこへ導くように吹き抜けた。
廃都の門を出るとき、ユウはもう一度だけ振り返った。
風に舞う灰の中、聖堂の鐘楼がほのかに光って見えた。
それはまるで、街そのものが「行け」と告げているようだった。
ユウは静かに頭を下げる。
「……祈りを預かった」
そして三人は歩き出す。
遠吠えと風と光を背に――
夜の峡谷へ、次なる戦いの地へ。
焦土に吹いた風は、ただの風ではなかった。
それは、壊れた祈りがようやく空へ帰っていく音。
ユウたちが踏み出した北の道は、〈群れ〉という名の絆へとつながっていく。
――次回、第16話《群れの影》。
恐怖と共存を試される、新たな夜が始まる。




