第13話 許されざる救い
朝の祈りの鐘が、いつもより低く響いた。
音の余韻が街の石畳を震わせ、空気がひんやりとする。
神殿街はまだ薄暗く、人々が小声で祈りを捧げていた。
――けれど、その祈りにはいつもの穏やかさがなかった。
「……あの娘だ。神の声を聞いたって」
「“戦神の代弁者”だとよ。加護を持たぬくせに」
「いいや、“呪われた祈り”だ。あれは神の敵だ」
噂は、まるで風より早く広がっていく。
私の名前――リシア――が、その中で囁かれていた。
私は神殿の回廊の柱の影に身を寄せ、
祈りの光を見つめていた。
数日前、あの光の中でユウ先生を呼び戻した。
“祈りは届く”と信じて。
けれど、神官たちはそれを“神を汚した行為”と呼んだ。
(どうして……誰かを救ったのに)
足音が近づく。
振り返ると、白衣の神官が数人、こちらを見ていた。
彼らの目は冷たく、まるで裁きを告げる刃のようだった。
「リシア・エルファリア。
あなたに問います。
“神の声を人の手で呼び戻した”というのは真ですか?」
喉が乾く。
でも、嘘はつけなかった。
「……はい。私は、先生を祈りで――」
「それが“冒涜”だと、まだ分からないのですか」
「違います! 私はただ――」
言葉の途中で、神官が手を上げた。
「沈黙を。あなたの行いは神殿上層により審問されます。
今日以降、神殿内への立ち入りを禁じます」
「待ってください! 私は――!」
けれど、声は届かなかった。
彼らは冷たい祈りの言葉を口にしながら背を向け、
重い足音を響かせて去っていく。
その場に立ち尽くしたまま、私は何も言えなかった。
胸の祈り石が、ひどく冷たく感じた。
(神を信じたら、救われると思ってた。
でも――“救い”の形って、ひとつじゃなかったんだ)
風が回廊を吹き抜ける。
祈りの布がひらひらと揺れ、
どこかで誰かが小さく叫んだ。
「神を汚した少女がいる――!」
それが合図のように、周囲の空気が変わった。
信徒たちの視線が、一斉に私へと向く。
ざわめきが広がり、祈りの言葉が恐怖の音へと変わっていく。
私は一歩、後ずさった。
(逃げなきゃ……)
鐘が鳴る。
まるで裁きの音のように、
冷たい朝の空気を裂いて響き渡った。
鐘の音が止むと同時に、ざわめきが爆発した。
回廊を駆け抜ける足音、叫び声、そして祈りの詠唱。
神殿の空気が、一瞬で“聖域”から“牢獄”に変わっていく。
「神を汚した少女を捕らえよ!」
「異端の祈りをこの地に残すな!」
声が重なり、響き渡る。
私は思わず走り出した。
足元の大理石が滑る。
視界の端で、信徒たちが白い衣を翻しながら迫ってくる。
(どうして……私、間違ってないのに!)
回廊の先に、陽の光が差していた。
そこを目指して駆け抜ける。
祈りの布をくぐり抜け、外へ――。
だが門の前で、二人の神官が立ちはだかった。
金色の法杖を構え、祈りの詠唱を口にする。
空気が震え、光の鎖が編まれていく。
「止まれ、リシア・エルファリア!」
「お願い、聞いてください! 私は――!」
「黙れ。“戦神の影”の信徒は語るな!」
光の鎖が地を這い、足元を狙う。
私はとっさに身をひねり、脇道へ飛び込んだ。
石壁が迫り、息が切れる。
(神殿はもう安全じゃない。どこか、隠れられる場所を……!)
背後から再び鐘が鳴った。
“異端の鐘”。
それは逃げる者の居場所を告げる合図でもあった。
私は必死で階段を駆け下り、裏路地へ出た。
昼の市場はもう人であふれている。
視線を避け、マントのフードを深くかぶる。
けれど、耳の奥でまだ祈りの声が響いていた。
「神の敵を逃がすな――」
その声が遠くなるたびに、胸の鼓動が早くなる。
走るたび、足元の石畳が湿っていく。
空から、ぽつりと冷たいものが落ちた。
――雨。
最悪のタイミングだった。
視界が霞み、息が白くなる。
そのとき、向こうから黒衣の影が現れた。
「リシア!」
ユウ先生の声だった。
雨の中、彼がこちらに駆け寄ってくる。
その背後では、神殿兵が門を閉ざしていた。
「先生……!」
「動くな、囲まれる!」
彼は周囲を見渡し、私の手を掴んだ。
「このままじゃ捕まる。西の路地に抜け道がある!」
「でも、先生――」
「俺の記憶の中に、ひとつだけ残ってた道だ。信じろ!」
雨が強くなり、空が暗く染まる。
遠くで雷鳴が鳴った。
ユウ先生が私を引き、狭い路地を駆け抜ける。
背後では、神官たちの祈りの声が重なり、光が閃いた。
壁が弾け飛び、破片が散る。
(この街が、こんなにも冷たく感じるなんて……)
息を切らしながら角を曲がった瞬間、
先生が私を突き飛ばした。
「リシア、走れ!」
「先生!?」
「俺が囮になる!」
光が爆ぜ、視界が真白に染まる。
私はその光の向こうで、
先生の姿が神官たちに囲まれるのを見た。
「先生っ――!」
声は雨に消えた。
次に見た時、そこには誰もいなかった。
息が切れていた。
冷たい雨が頬を叩き、濡れた石畳が足の裏を滑らせる。
さっきまで追ってきた足音が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
それでも怖くて、私は止まれなかった。
(先生……)
胸が痛む。
あの光の中で、先生が捕らえられたように見えた。
助けに戻りたい――そう思うのに、足が動かなかった。
神殿兵に捕まれば、私まで連れて行かれる。
“異端の祈り”を告げた罪として。
雨がさらに強くなり、視界が滲む。
裏通りの壁に手をついて、私はようやく立ち止まった。
膝が笑っていた。息を吸うたび、胸が焼けるように痛い。
(どこか……隠れられる場所を)
その時、かすかな声がした。
「……そこの子、動かないで」
びくりと体が固まる。
薄暗い軒下から、一人の女性が現れた。
黒い外套に白い襟、医師が着るような服装。
髪は短く、瞳は琥珀色――静かだけれど、鋭い光を帯びていた。
「追われているのね」
「……あなた、誰ですか」
「ローナ。街の診療所をしてる。……こっちへ」
女性は手を差し出した。
その手は冷たい雨の中でも不思議なほど温かく見えた。
私は一瞬ためらったが、もう他に道はなかった。
差し出された手を握る。
ローナさんはすぐに私を引き込み、
狭い裏道の扉を開けた。
中に入ると、薬草と乾いた布の匂いが広がる。
灯りの火が揺れ、壁に並ぶ瓶が光を反射していた。
「ここが……診療所?」
「そう。祈りよりも、手を使う場所よ」
ローナさんは短く言って、戸を閉めた。
外の雨音が遠ざかる。
「傷は? 転んだみたいだけど」
「だ、大丈夫です」
「そう。じゃあ、これを」
差し出されたのは、湯気の立つマグ。
中には少し甘い香りの薬草茶が入っていた。
「飲みなさい。体が冷えてる」
私は両手でそれを受け取り、口をつけた。
舌に広がる苦みと、後からくるやさしい甘さ。
それだけで、張り詰めていた体が少しずつ緩んでいく。
「……ありがとう、ございます」
「礼はあと。誰に追われているの?」
「神殿の……祈り派の人たちです。
私は“神の声を呼び戻した”って言われて……」
ローナさんの瞳が細くなった。
「なるほど。あの連中、また信仰で人を縛る気ね」
「縛る……?」
「祈りは本来、人を自由にするものよ。
でも、あの人たちは“神の形”に縋りつく。
だから、自分で考えることを恐れるの」
言葉の一つ一つが、胸の奥に刺さった。
でも、嫌な痛みじゃなかった。
まるで“真実”を静かに指で触れられたような感覚。
「君の祈りは、神殿が恐れる“生きた祈り”。
――だからこそ、助ける価値がある」
ローナさんが微笑んだ。
その笑顔はどこか寂しげで、でも確かな強さがあった。
「……私、本当に助かっていいんでしょうか」
「助けることに、許しなんていらないわ」
その言葉に、涙が出そうになった。
“救い”とは“許されること”だとずっと思っていた。
でも違う。
“許されなくても、手を伸ばすこと”なんだ。
私は頷き、小さく息をついた。
外ではまだ雨が降っている。
けれど、その音が少しだけ優しく聞こえた。
火の揺れる音だけが聞こえていた。
ローナさんの診療所は、神殿のどの部屋よりも静かだった。
壁には薬草が吊るされ、棚には瓶がぎっしりと並んでいる。
祈りの像も、聖書もない。
それでも、ここには確かに“命の気配”があった。
ローナさんは机の上の包帯を畳みながら言った。
「……落ち着いた?」
「はい。少しだけ」
「顔色も戻ったわね。まるで死人みたいだったもの」
「……追われてたので」
「でしょうね。あの連中、信仰に取り憑かれると目が見えなくなる」
その言葉に、胸がちくりとした。
「でも、信じることって悪いことじゃないですよね?」
「信じるのはいい。でも、考えるのをやめたらそれは信仰じゃなく“従属”よ」
ローナさんの声は静かだった。
けれど、その静けさの奥に火のような熱があった。
「……あなたは神を信じていないんですか?」
「私はね、“神の存在”じゃなく“人の選択”を信じてるの。
神が世界を作ったのなら、考える力も与えたはずでしょ?」
その言葉に、私は何も返せなかった。
頭では理解できるのに、心がざわめいた。
だって私は、あの時“祈り”で先生を救った。
あれは、確かに届いたのだ。
「……でも、先生は帰ってきたんです。
私の祈りが届いて」
「ええ、それは否定しないわ。
でもね、祈りは“神の力”じゃなく“人の想い”を動かすことがある。
あなたが呼んだのは、神じゃなくユウ自身の心だったのかもしれない」
その一言が胸に深く刺さった。
あの時の光景がよみがえる。
暗闇の中で、私の声を呼び返した先生。
確かに――あの瞬間、神の声なんて聞こえなかった。
「……じゃあ、私がしたことは間違いだったんでしょうか」
「間違いじゃないわ。
ただ、神殿が“都合よく間違いにした”だけ」
ローナさんは包帯を置き、椅子に腰掛けた。
「“救い”ってね、みんなが喜ぶ結果のことじゃないの。
誰かを救うってことは、誰かを見捨てることでもある」
「……そんなの、悲しすぎます」
「でも、それが現実よ。
だからこそ、人は“祈る”の。
それでも誰かを救いたいと願うから」
私は両手を膝の上で握った。
ローナさんの言葉は冷たく聞こえるのに、不思議と温かかった。
逃げ場のない現実を見せながら、それでも前を向かせてくれる。
「あなたの祈りは、きっと本物。
だけど、それを神殿は恐れてる。
だって“神を通さずに届いた祈り”なんて、
彼らの信仰を壊してしまうもの」
私は息を呑んだ。
胸の祈り石が、かすかに熱を帯びる。
「それでも……私は信じたい。
あの時の光は、誰かを救える光だって」
ローナさんは小さく笑った。
「なら、それでいい。
祈りに“正しさ”なんていらない。
誰かを想うなら、それがもう救いなのよ」
部屋の窓を打つ雨の音が優しくなっていた。
少しだけ、胸の痛みが軽くなった気がした。
夜が更けても、雨は止まなかった。
窓の外では風が唸り、屋根を叩く雨音が絶え間なく響く。
診療所の灯りだけが、外の世界との境を作っていた。
ローナさんは黙って薬草を煮出している。
白い湯気が立ちのぼり、部屋にほのかな香りが広がった。
私は机の上で両手を握りしめ、俯いていた。
「……どうして、こんなことになったんだろう」
「“救った”からよ」
ローナさんの声は静かだった。
「誰かを救った時、誰かがその形を“許せない”と思う。
あなたの祈りは、神殿にとってそれほど危険だったの」
「危険……?」
「ええ。神がいなくても、人は救えると証明した。
それは“神を脅かす行為”に等しいわ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
私が信じた光が、誰かにとって“罪”になる。
そんなこと、考えたこともなかった。
「……私、やっぱり間違ってたんですね」
「違うわ」
ローナさんは首を振り、私の手を包んだ。
「あなたが間違ってるんじゃない。
世界がまだ“正しい救い”を知らないだけ」
その言葉に、目の奥が熱くなった。
涙をこらえようとしても、止められない。
ぽたり、と祈り石の上に一滴落ちた。
すると石が淡く光り、指先に温かさが広がった。
「……やっぱり、私は“呪われてる”んです」
「どうしてそう思うの?」
「光が出るたび、誰かが消えていく。
あの時も、カイも……神殿の人たちも……。
私の祈りは、人を救うたびに“奪って”しまうんです」
ローナさんは沈黙した。
その沈黙が、逆に優しく感じられた。
やがて彼女は、そっと立ち上がり私の肩に手を置いた。
「それでもいいじゃない」
「……え?」
「奪うことを恐れて何もできないより、
奪ってでも“生かす”ほうが、まだ人間らしい」
「でも、それじゃ私は……!」
「“許されざる救い”を選んだだけ。
誰にも許されなくても、誰かを救うと決めた人の顔をしてるわ」
ローナさんはそう言って微笑んだ。
その笑顔は悲しみを抱えたまま、それでも温かかった。
「私は医師として、あなたを助ける。
神がどう言おうと関係ない」
その瞬間、外で雷が鳴り響いた。
まるでその言葉を断ち切るように。
「……ローナさん」
「なに?」
「もし私が、誰かをまた傷つけたら……その時は――」
「その時は、私が止めるわ」
短い沈黙のあと、私は頷いた。
胸の奥で何かが静かに覚悟へと変わっていく。
(誰かを救う。それが許されないことでも――)
外の雨音が強くなった。
診療所の壁が揺れ、窓ガラスが鳴る。
次の瞬間、扉の外で何かがぶつかる音がした。
「……誰?」
ローナさんが顔を上げる。
私は胸の祈り石を握った。
“外の闇”が、もうそこまで来ていた。
扉が叩きつけられる音が響いた。
それは風のせいではなかった。
鈍く重い衝撃が、診療所の中まで震わせた。
ローナさんが振り向き、私に目で合図する。
「奥の部屋に隠れて。早く」
「でも――」
「いいから!」
再び、扉が揺れた。
外の声が聞こえる。
「神を侮辱した異端者を匿っていると聞いた! 出てこい!」
「神殿兵……」
私は息を飲んだ。
さっきまでの雨音が、急に遠く感じる。
ローナさんは静かに立ち上がり、扉の前に立った。
「ここは病人の治療所です。
祈りも罰も、ここにはありません」
「黙れ、医女。神を冒涜する者を差し出せ!」
扉が破られた。
数人の神殿兵が光の杖を構えて踏み込んでくる。
その光は“祈り”のはずなのに、刃よりも冷たかった。
ローナさんは一歩も引かず、彼らの前に立つ。
「あなたたちは祈りを武器にするの?」
「神の意志を守るためだ!」
「違う。あなたたちが守っているのは、“恐怖”よ」
その言葉が引き金になった。
光の矢が放たれる。
ローナさんが私をかばい、肩口にそれを受けた。
「ローナさんっ!」
赤い血が白衣を染める。
床に滴る音が、祈りの詠唱よりも鮮明に響いた。
「……走って」
「でも!」
「逃げなさい、リシア!」
その叫びと同時に、外で強い風が吹いた。
窓が割れ、冷たい雨が吹き込む。
混乱の中で、兵士たちが一斉に振り返った。
「そこをどけ!」
低く、鋭い声。
雨の帳の向こうから、黒い外套の影が現れた。
――ユウ先生だった。
「先生っ!」
彼の目が光を捉えた瞬間、空気が変わる。
大剣が光を放ち、
飛びかかってきた兵士たちの祈りの鎖を一瞬で断ち切った。
「神の名で斬られる覚悟はあるか?」
ユウ先生の声は静かだった。
けれどその静けさは、嵐の中心のように重く響く。
兵士たちはたじろぎ、後退した。
「貴様……“戦神の影”を宿す者か!」
「俺はもう、神の影じゃない」
「なら何だ!」
「――人だよ。お前たちと同じ、人間だ」
言葉と同時に、剣が閃いた。
光がはじけ、祈りの鎖が砕け散る。
雨の中、誰かが叫び、兵士たちは退いていった。
静寂が戻る。
ローナさんが壁にもたれ、浅い息をしていた。
「リシア……逃げるのが下手ね……」
「そんなこと言わないで!」
「大丈夫。かすり傷よ。……たぶん」
先生がそっと膝をつき、ローナさんの傷口を押さえる。
「動くな。出血が多い」
「……あら、先生。記憶が戻っても口調は変わらないのね」
「いや、まだ全部は戻ってない。でも――」
ユウ先生はちらりと私を見た。
「守る理由だけは、忘れてない」
その言葉に、胸が熱くなった。
血の匂いと雨の音の中で、
“祈り”よりも確かなものが、確かにそこにあった。
夜が明け始めていた。
雨は止み、灰色の雲が東の空をゆっくりと裂いていく。
街のあちこちから煙が上がり、神殿の鐘が鈍く響いた。
その音には、もう祈りの響きはなかった。
私たちは診療所の裏手にいた。
ローナさんは肩に包帯を巻かれ、壁にもたれている。
先生は入口の前に立ち、まだ剣を手放していなかった。
夜の戦いの余熱が、空気に微かに残っていた。
「兵はもう退いた。……けど、すぐには戻れない」
ユウ先生が言う。
声は低く、それでいてどこか穏やかだった。
ローナさんが苦笑する。
「逃げるしかないわね。
この街の祈りは、今夜で一度壊れた。
でも……壊れたなら、もう一度作り直せる」
私は頷いた。
視線を空へ向けると、曇天の隙間からわずかに光が射していた。
それはまるで、誰かが世界の端で灯した小さな希望の火のようだった。
「ローナさん、私……あの時、怖かったです。
祈ることが罪になるなんて思わなくて」
「怖がるのは悪いことじゃない。
恐れを知らない祈りは、傲慢になる。
あなたが震えながら祈る限り、その光は人のものよ」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
私はそっと祈り石を取り出す。
昨夜の戦いでひびが入り、淡く光が漏れていた。
「……壊れてしまいそう」
「壊れたら、また拾えばいいわ」
ローナさんの笑顔は痛みを抱えながらも強かった。
「祈りは形じゃない。想いのある限り、また灯せる」
先生が立ち上がり、背の大剣を肩に担いだ。
「行こう、リシア。ここはもう長くいられない」
「でもローナさんが――」
「私はここで残るわ。
医者は、戦場より“後”の世界に必要なの」
ローナさんの言葉に、先生は小さく頷いた。
短い沈黙が流れる。
それは別れの沈黙だった。
私は膝をつき、ローナさんの手を取った。
「ありがとうございました。
あなたの言葉、忘れません」
「いいのよ。あなたが笑うたびに、祈りは続くの」
外に出ると、朝の風が頬を撫でた。
濡れた石畳が光を反射して、街全体が灰色に輝いていた。
焼け焦げた壁の向こうに、かすかに太陽が昇る。
「先生……」
「行こう」
ユウ先生は静かに歩き出した。
その背中には、もう“剣聖”の威圧ではなく、
“人”としての強さがあった。
私は一歩、彼の後を追う。
足元には、血と雨の混じった跡。
けれど、その上を踏むたびに、世界が少しずつ“生き返って”いく気がした。
(神の声じゃなくていい。
この手で、誰かを救えるなら――)
風が吹く。
その風の中で、壊れかけた祈り石が淡く光った。
灰色の空の向こうに、新しい光が滲み始める。
“救い”はまだ遠い。
でも、確かにそこに“生きる意味”があった。
救いは、誰かに許されることじゃない。
それでも手を伸ばす、その意志こそが祈りになる。
――灰の夜明けに立つ二人の覚悟が、次の光を呼ぶ。




