第3話 呪縛を噛み千切った獣
剣闘士になって、三年が経過した。
その間に、この闘技場はソルシアの領内の地下にあるということと、入場できるのが貴族や名のある商人だけだということが分かった。
だからか、この闘技場には莫大な資金がつぎ込まれていて、名が付けられるほどの剣闘士になれば、専用の個室が用意される。部屋は清潔で広く、質の良い家具、幅広い分野の書物が置かれており、下級貴族以上の生活が送れた。
おまけに、食事は新鮮で、栄養バランスや味も良い。あまりの好待遇さに、貴族や商人の営みの相手をさせられるのかと警戒していたが、そんなこともなかった。
そんな中で、俺は戦いに明け暮れた。
承認欲求と自己顕示欲の味を覚えた心は、血に飢えた獣と化した。さらなる強敵を求め、強者と対峙することをこの上ない喜びに感じる日々。毎日が刺激的で、笑みを絶やすことがなかった。思い出すだけで心が騒ぐ。あの滾る甘美な勝利は、中毒を起こすほどに極上だった。
「超獣」。
好戦的、且つ、超人的な身体能力で対戦者を倒し、咆哮する姿。そして、俺が勇者の子であることがバレないよう後援者から被せられた狼の顔をした兜に因んで名付けられた呼び名。
俺は、充実した時間を過ごせるこの場所で一生を終えたいと思っていた。が――、
◇◇◇◇◇
「今日で五日だぞ……」
部屋で待機して五日が経過していた。いつもであれば、二日に一度は後援者が部屋に訪れ、次の対戦を伝えに来るはず。だが、何の音沙汰もない。それどころか、食事すら運ばれてこないのだ。明らかに、闘技場自体に何かしらの問題が発生したと考える方が自然だった。
「まさか、ここが王国にバレた? だから、放棄した……あり得るな。クソッ、この生活が終わんのか?」
白日ノ城が頭に浮び、それに起因して過去を思い出し、苛立ちを覚える。だが、感情的になったことでエネルギーを消費したのか、「ぐぅうう」と腹が鳴った。
「腹減ったぁ~」
隠し持っていたパンは食べ尽くしており、この二日間は水すら飲んでいない。
「こうなったら、脱出するか?」
ここでの生活が快適過ぎるあまり、今まで脱出をしようと考えたこともなかった。だが、このままでは餓死してしまう。決闘者として、決闘の際に命を落とすことは受け入れている。しかし、無意味な死は御免だった。
「でもな……」
壁を軽く叩く。すると、分厚い石のような感触がした。どの壁も同じで、唯一の出入り口である扉は鋼鉄製。手足は拘束されていないが、さすがに部屋の中に武器や道具は置かれていない。
このままでは、本当に死んでしまう。どうすればいいか、今後について真剣に考え込む。そうしていると不意に、首筋がざわついた。
「ん?」
それは、この三年間命を賭けた死闘を越えて獲得した感覚。言うなら、危機感知能力だ。
俺は、素早く寝具の下に身を隠す。その数秒後、重々しい轟音と共に天井が崩れてきた。
一瞬にして、部屋は濃い土埃で満たされる。
「まさか、コイツに感謝する日が来るとわな」
キングサイズ、しかも、天蓋付きという無駄に高価な寝具。普段は部屋の占有率が高く邪魔に思っていたが、その頑強さのおかげで落石にも耐えた。
部屋の中が静まり返っても暫くの間は寝具の下で様子を窺い、幾分か土煙が晴れた頃に寝具から出て状況を確認する。
「雪……」
それは、数年ぶりに目にする雪だった。最大限警戒しつつ、冷たい風が流れ込んでくる穴から外へ出る。
「なんだよ……これ……」
山の麓から見える景色に、俺は息を呑んだ。
地平線まで続く、焦土と化した大地。
遮蔽物のない大地のそこかしこで黒煙が上がっており、分厚い曇天をさらに黒く染めている。
足元に目を向けると、岩肌が焦げて脆くなっていた。この闘技場は非合法であり、発見されることを防ぐために魔術で防音が成されている。だから、今の今まで気付かなかったのだろう。
「一体、何が起こったっていうんだ?」
理解が追い付かないまま、呆然と変わり果てた景色を眺めた。
「…………ソフィア、ルーカスさん」
ふと、二人の顔が頭に浮かんだ。途端に、平常心ではいられなくなるほどの強い不安に駆られる。そこからの行動は迅速だった。闘技場内に戻ると、質の良い剣を選び、保管されていた水と食料などを鞄に詰め込んでソルシア王国を目指す。
山から周辺を眺めた時、地理を頭で確認した。景色が変貌していたため少々手間取ったが、闘技場の位置が把握できた。今の俺が全力で駆ければ、二日もあれば辿り着ける。
「雪が積もってるってことは、だいぶ前ってことか」
灰が熱を帯びていないことから、ある程度時間が経っているようだった。そんな中、灰の道が王国へ続いていることに気が付く。
嫌な予感がした。そのせいか、気持ちが逸る。だが、必死に心を自制した。
何故なら、こうした原因がいるからだ。警戒もせずに突き進み、遭遇したら目も当てられない。それに、王国には勇者《親父》がいる。「大丈夫、この世界で一番安全だ」そう自分に言い聞かせ、慎重に、それでいて、懸命に王国を目指して走り続けた。
――そして俺は、ソルシア王国に辿り着いた。
「な……」
俺は言葉を失った。
外壁は崩れ、国中に黒煙が上がっており、幻想的だった白日ノ城は夢から覚めたかのように瓦礫の山になっていた。
国の記憶は、舞踏大会の日で止まっている。街の至る所が飾り付けられ、人々は賑い、活気立っていた。それが今は、見る影もない。
用心しながら国の中へ足を踏み込むと、無事な家屋は一つとして見当たらず、不気味なほど静まり返っている。さらに、鼻孔を刺激する黒煙に混じって、血の匂いと饐えた匂いが漂っていた。
「クソッ」
出所は直ぐに見つかった。逃げ回った挙句殺されたであろう国民の死体が、そこら中に転がっていたのだ。どれも損傷が酷く、中には原型を留めていないものもあった。死体の血は赤黒く固まっていて、小動物が群がっている。
東大陸一と謳われたソルシア王国が、地獄と化していた。
この国に対し、いい思い出はほとんどない。それでも、凄惨な光景を目の当たりにして、吐き気と怒りが込み上がってくる。それらを押し殺し、急いで屋敷へ向かう。
崩れた家屋や抉れた道、重なり合った死体を越え、どうにか屋敷に辿り着く。しかし、二年ぶりの屋敷は倒壊しており、見るも無残な姿になっていた。
「ソフィア!」
力の限り叫ぶが、彼女からの返事はない。
身を捩りたくなるほどの強い焦燥感に苛まれる中、必死に頭を働かせる。
「ッ! そうだッ!」
思い出したのは、屋敷の修練場。俺は嫌なことがあった時は、隅の木の下で泣いていた。そうしていると必ずソフィアが来てくれ、俺のことを抱きしめてくれた。それが嬉しくて、安心できて、けど、お礼を言うのが恥ずかしかった。だから手紙を書き、木の根元に埋めて伝えた。それ以来、ソフィアへ本音を告げる際はいつもそうしていたのだ。
崩れた屋敷を越え、修練場へ向かう。すると、屋敷は反対側へ倒れていたため、修練場は荒れている程度だった。
木に走り寄ると、「あってくれ」と強く念じながら素手で土を掘り返す。
「あった……」
透明な瓶に入った手紙。蓋を開け、手紙を食い入るように読む。
「『レン様、私とルーカス様は無事です』、良かった……」
その一文を読んだ途端、張り詰めていた緊張の糸が切れ、その場にへたり込む。
「ソフィア、俺のためにわざわざ……ん? ってことは、いきなり襲撃されたわけじゃないのか?」
憂いが消えたからか、思考が正常に働く。すると、様々な疑問が湧いてきた。
「そもそも、親父が居てどうしてこうなった? それに、母さんは無事なのか?」
手紙を綺麗に折りたたむと、懐に仕舞う。そして俺は、母さんや生き残った人たちを探すことにした。道中大量の死体を目撃したが、この国の人口とは数が合わない。連れ去られた可能性も考えられるが、非難した可能性も十分にある。
「一番近い避難先は、メルクール大森林か」
有事の際に国民がすぐに逃げ込めるよう、メルクール大森林の避難所はそれほど離れていない。しかし、今回はそれが災いした。避難所の中を確認すると、ここに避難した人たちは皆殺しにされていた。
「もう、母さんが死んでいたら?」、そんな疑念を払拭できずにいた。だが、今の俺に出来るのは、足を動かして避難所を巡ることだけだ。
ヴィーナス山脈の洞窟は、メルクール大森林を越えた先にある。木々の間を縫うように走り、獣道を突き進む。
「ッ、血の匂い……」
ちょうど中間地点に差し掛かった付近で、避難所とは違う方向から血の匂いが香ってきた。しかもそれは、流れて間もない鮮血の香り。母さんの顔が浮かんだ俺は、血の匂いのする方へ進路を変える。
そして走ること数分、突然、前方に赤々とした閃光が走った。その数秒後、爆発音と共に黒煙が立ち昇る。
さらに速度を上げて疾走すると、とうとう大勢の人影と対峙している三つの後ろ姿が見えた。
(母さん!)
血を流し、傷ついた騎士たちの後方、杖を構えている母さんの姿を捉えた。生きていることに安堵したが、すぐに母さんが戦っている者たちに意識を向ける。武器は持っておらず、黒いマントを羽織っていて、圧倒的な存在感を放つ者たち。思い当たる存在は一つだった。
「魔族」
姿形は、ほぼ人間。唯一異なるのは、額に生えた二本の禍々しい角。黒く、歪なその角は、空気中の魔素を取り込むための器官だという。
トクンッと、心臓が鳴った。途端に、身体中が熱くなっていく。
不謹慎だということは、頭で理解している。つい先ほど、惨殺された王国民の亡骸を見たばかりだ。分かっている。だがしかし、俺の心は強敵を見つけたことを喜んでいた。
腰に下げていた剣を抜くと、身を低くし、突風の如き速度で接敵する。
――あれは、俺の獲物だ。
木の幹に向かって飛び、それを足場に、また別の木に飛ぶという立体的な移動を行う。そのおかげで助走の勢いを殺さずに、横一列に並ぶ魔族の首を狙える場所を獲った。最後の足場が折れるほど強く蹴ると、剣を振りかぶりながら飛び掛かる。
剣の重みを感じられるほど脱力した状態で、鞭のようにしなやかに腕を振う。そして刃が魔族の首に触れる刹那、強く柄を握りしめ、美しい横一文字を描くように剣を鋭く振り切る。
魔族の姿を視認してから、一分にも満たない出来事だった。
三体の魔族は、俺の存在に微塵も気付かず、そのまま首を切り飛ばされて死んだ。人間と同じ赤い血を噴き出し、頭を失った胴体が音を立てて倒れ込む。
「ちッ」
俺は苛立つあまり、舌打ちをしてしまう。滾っていた心が、不完全燃焼のように燻る。弱い。魔族からは確かに強者の威圧感を感じたが、歯ごたえが無さ過ぎた。興味を失った俺は、呆然と立ち尽くしている母さんたちに顔を向ける。
母さんや騎士たちは、魔族に苦戦を強いられていた。そんな危機的状況を打開した俺という存在に理解が追い付いていないのか、こちらを見つめながら言葉を失っている。
「…………レン……?」
沈黙を破る弱弱しい声。その声音は、半信半疑という思いがありありと込められていた。二年ぶりに聞いた、母さんの声。母さんに顔を向けると、その顔は大分やつれていて、疲れの色も濃く、髪もボサボサだった。
「レンッ!」
母さんが杖を手放し、俺の方へ駆け寄ってくる。そして、力一杯俺の事を抱きしめた。
「レン……レン……」
頭二つ分身長が低い母さんは、俺の腹に顔を埋め、名前を呼ぶ。まるで、俺を確かめるように何度も何度も。服越しに伝わる母さんの暖かい涙。
「ただいま、母さん……」
俺が優しく言葉をかけると、母さんは顔を上げて笑顔を浮かべながら口を開いた。
「おかえりなさい」
本当なら、再会の余韻に浸っていたい。だが、状況が状況だ。母さんを引きはがし、現状の確認を行う。
「母さん、親父は? それにノルは無事なの?」
親父が居て、この状況は不甲斐なさ過ぎる。いや、というよりも不自然だった。一変した世界のことを全く知らないせいか、矢継ぎ早に尋ねてしまう。母さんは、俺の言葉遣いが変わっていることに一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに沈痛な面持ちを浮かべた。
その顔を見て、胸騒ぎがした。
「ロキは……ロキは、死んだわ……」
「は……?」
無意識に、気の抜けた声を出してしまった。
「親父が死んだ?」
「……それだけじゃない。ノルも、国王陛下も、セラフィーナも、エレオノーラも、アルフォンスも……みんな魔族に殺された……」
耳を疑いたくなるような話だった。だが、母さんの纏う空気や態度が物語っているのだ。真実だと。
「ゾアンベラ様。ご子息との再会、お気持ちは御察ししますが、この場所に長居するのは危険です」
俺が母さんの話を咀嚼するのに時間を掛けていると、騎士の一人が母さんに声をかけた。
「そうね。レン、取りあえずついて来て」
多少、声に覇気が戻った母さんは、騎士たちを引き連れて俺を避難所へ案内してくれた。
避難所の中には、大勢の人が身を寄せ合っていた。ただ、想定した収容人数を超えているのか、通路にまで避難者が座っている。だが、これだけの人がいるのに、避難所は不気味なほどに静まり返っていた。陰鬱としていて、どこかピリついた空気。
(当たり前か……)
さりげなく通路に座っている人の顔を覗くと、その顔は絶望に染まっていた。瞳には光が宿っておらず、まるで生きた死人のよう。
「ゾアン叔母様!」
避難所の奥から、テレサが走り寄ってきた。記憶よりも背が伸びているが、全体的に薄汚れている。
「ん? 誰ですか?」
俺の事に気付いたテレサは、訝しむような目を向けてくる。その不躾な視線に懐かしさを感じる自分が可笑しく思え、小さく笑みを零してしまう。
それに気付いたテレサは、さらに目つきを鋭くさせた。
「レンよ。男前になってるから気付かなかったでしょ?」
母さんは、何故か誇らしげに俺のことを説明する。すると、周囲にいた騎士たちは目を見開き、驚いた表情を浮かべた。
「そうですか」
ただ、正体が俺ということが分かった途端、テレサだけは関心を失った。それが本当に彼女らしく、思わず心の中で感嘆する。
「ちッ」
(あ、ヤベ……)
部屋に一人で籠っていたせいで、どうやら独り言が多くなっていたようだ。心で思っていたつもりが、声に出していたらしい。テレサから睨まれ、不機嫌そうに舌打ちをされた。
「それでね、テレサ。唐突なんだけど、実はあなたの変わりにレンに行って貰おうと思うの」
母さんは、テレサに向かってそう言った。
「ん? 母――」
「待ってくださいッ!」
会話の内容について行けず、俺は母さんに尋ねようとした。その瞬間、テレサが金切り声を上げた。その顔には、「氷の女」と呼ばれた彼女とは思えぬほどの激情が露わになっていた。
「何を言ってるんですかッ? これは、人類の未来がかかっているんです。それを、こんな玉無しに託すなんて。考え直してくださいッ!」
テレサはもちろんのこと、テレサの後ろにいる騎士たちも困惑した様子で色めき立ち、挙句の果ては、俺のことを睨み付けて来た。
ただでさえ、避難所には重苦しい空気が漂っている。そんな中、殺伐とした空気が漂い出す。この感情は伝播して、避難所内が恐慌状態に陥りかねない。それを危惧した俺は、パンッと思い切り掌を叩き、強制的に空気を変えた。
「取りあえず、全員落ち着け。ここで俺らが揉めたら、パニックが起こるぞ。それに、母さん。さすがに意味が分かんないから、もう少し詳しく教えて?」
虚を突いた大きな音に騎士たちは固まり、殺気を霧散させる。俺はその隙に、畳みかけるように言葉を紡いだ。
「そ、そうだったわね。実は今、ある魔術の準備を進めているの」
「ある魔術?」
「そう。人類の最後の希望――過去へ渡る魔術よ」
俺は、今日何度目か分からない衝撃を受け、言葉を失う。
「誰かが過去へ渡って伝えるの。魔族はまだ生きているということ。だから、武闘や魔術を正しく継承して備えなければならないということを」
母さんの言葉を聞き、少しだけ掴めた。ソルシア王国は、魔族に対抗できなかったのだ。武闘は舞踏に、魔術は実戦的なものから観賞するためのものに変化したせいで。
「でもそれって、どうやって信じさせるの? 『未来から来ました』って言っても、笑われるか、相手にされないかのどっちかじゃない?」
「あれよ」
俺の疑問に、母さんは机の上に置かれた一冊の手記を指差す。
「あれには、あの時代にはまだ発見されていない鉱脈の場所、王国の内情、それに開発されていない魔術や魔道具が記してある」
「なるほど。それを使って、説得するってわけか」
荒唐無稽だった話に、一縷の可能性が出てきた。だが、まだ問題はある。
「あとはどうやってそれを伝えるか、か……」
ただの国民に伝えても意味がない。伝えるならば、意思決定権を持つ者。最低でも、謁見できる上級貴族か宰相、国王陛下本人に伝えるのが望ましい。
俺の呟きに、母さんは重々しく頷く。
「その通りよ。だから、過去へ渡ったら自力でどうにかしなけくちゃいけない」
「母さんは? 母さんなら勇者パーティーだし、伝えられるんじゃ?」
「無理なの。同じ世界線に、同一人物は一人まで。あの時代に既に存在してる私は行けない。だから、あの時代に生まれていないテレサに頼もうとしてたの。この子の知識で、国王陛下に進言ができるほど名を上げて、それで……――」
俺は途中から、母さんの声が耳に入っていなかった。「名を上げる」という言葉に思いを馳せていたからだ。過去には、全盛期の父さんと母さん、勇者パーティーがいる。それだけではない。死地を越えた猛者や、歴史に名を刻んだ魔族が現存している。
(戦いてぇ)
体が脈打つ共に熱くなっていき、心は強敵を求めるように高鳴り出す。
「分かった、玉無し! お前が渡ったところで無駄なの! だから私が行く――」
まだ見ぬ強敵を想像して感情が昂っていたところに、テレサは喚きながらその機会を奪おうとした。だから俺は――、
「出しゃばんな!」
反射的に、テレサへ殺気をぶつけてしまった。
「いけね」
すぐに冷静さを取り戻し、殺気を消す。
「テレサ?」
殺気を浴びせたことに罪悪感を覚え、テレサの様子を窺う。だが彼女は、口を固く結び、その顔からは表情が抜け落ちていた。そればかりか、その場にへたり込んで顔を伏せてしまう。
「ごめん。別に、悪気はなかったんだ。ただ……その、つい……」
この場で「俺は強いヤツと戦いたい!」などと言える訳もなく、どうにか言い訳をしようとするが、何も浮かばずに言葉が途切れ途切れになってしまう。そんな中、テレサの肩が小刻みに震え出す。
「テレサさん?」
そう声をかけた途端、テレサは勢いよく顔を上げた。
「凄くいいッ」
そう言ったテレサの色白い顔は紅潮しており、前髪が濡れるほど汗ばんでいた。さらに、目は酔ったように柔らかくなっていて、悶えながら「いいわ」という言葉を甘い吐息と一緒に呟き続けている。
「すぅう――……」
見なかったことにしよう。
「母さん、俺が行くよ」
「無視するの?」
母さんが呆れた顔をしながら指摘してくるが、経験上、こういう反応をする相手は無視するのが一番だと闘技場で学んでいた。
「レン、本当に変わった……ううん、違うわ。レンはずっと変わってた。そのことに、ただ私が気付かなかっただけ。レン、ごめんなさい。あの日、五センチも背が伸びてたのよね? ごめんなさい、気付いてあげなくて……ごめんなさい、あなたに辛い思いをさせて、それにまた重荷を背負わせて……」
母さんは、悲しそうな、悔しそうな顔をしながら涙を流す。
「…………」
もう、過去のことと割り切っていたと思っていた。しかし、母さんの言葉を聞いて、心が僅かに軽くなったのを感じる。
「母さん。あの過去があっての今の俺だよ。過去の全部をひっくるめて血肉にして成長したんだ。むしろ、今は感謝してるぐらいだよ。だから母さんも、そんな過去に後悔しないで。それに、俺は父さんと母さんの子だ。二人が救ったように、俺だって世界を救ってみせるよ」
そう言い切ると、俺は笑ってみせた。
「レン……」
母さんの目が揺らぎ、その後、今度は嬉しそうに涙を流す。そんな母さんから視線を外すと、俺は騎士たちへ歩み寄る。
「ソルシア王国の騎士たちよ。たとえ国は滅んでも、貴方達は今尚誇り高き騎士だ」
そこまで言うと一度言葉を切り、一人一人の顔を覗き込む。そして、深々と頭を下げた。
「どうか、母さんと国民を守って下さい」
誰もが身動ぎ一つせず、この場が静寂に包まれる。
「頭をお上げください、フィレン様」
厳かな声が響き、俺は顔を上げた。眼前に立っていたのは、あの日、俺のことを「失敗作」と呼んだ騎士だった。
「貴方様の命、しかとお受けいたしました」
精悍な顔付で騎士がそう口にした途端、周囲にいた騎士たちが剣を抜き、天に掲げた。それは、ソルシア王国の騎士が誓いを立てる際に行う所作だった。
「「「「この命に代えてもお守りします、フィレン様!」」」」
◇◇◇◇◇
「それじゃあ、行ってくるよ」
魔術の準備を終え、複雑に組まれた魔術式が淡い光を放っていた。この魔術陣の乗れば、過去へ渡れる。
「気を付けて」
母さんや騎士たちが、俺のことを見送ってくれた。
意気込みは十分。挨拶も済ませ終え、あとは魔術陣に乗るだけだ。
「待ってッ!」
大声が響き、皆が視線を向けると、先ほどから姿が見えなかったテレサが走って来た。そして、俺に白い小箱を差し出して来る。
「レン、これを持って行って」
テレサに愛称を呼ばれ、背中がむず痒くなる。
「んだ、これ?」
白い小箱の中身は、銀製の指。ただ、普通の指輪ではなく、宝石の変わりに針が魔石で出来ている小さな羅針盤が取り付けられていた。
「魔道具よ。このコンパスに魔力を込めると、その魔力の持ち主のいる場所を指し示してくれるわ」
「俺には魔力がねぇから使えねぇぞ?」
魔道具を使用する際は、刻まれた魔術式を発動させるための魔力が必要である。
「大丈夫。この指輪は、自動で空気中の魔素を取り込むの。しかも、ただ取り込むだけじゃなくて、その魔力を使って魔術を発動する。だから、レンでも使えるわ」
「へぇ、すげぇな」
使用者の魔力を消費しない、全く新しい魔道具に感嘆の声を漏らす。
「私が開発したのよ。すごいでしょ!」
胸を張り、年相応――よりも幼い子どものような反応をするテレサに調子が狂う。ただ、役立ちそうなのでありがたく貰っていく。
「んじゃ、行ってくる!」
そうして俺は、心躍る強敵を想像し、笑みを浮かべるのを堪えられないまま過去へと旅立った。
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