プリンセスダイアリー
ぼくは異聞怪聞伝聞Youtuber、【プリンセスダイアリー】。ぜひご視聴ください。
https://youtu.be/iec29KGFm5g
『OK?じゃあ、行きます。』
いつも通りのテロップが揺れる。揺れて流れるような明朝体。数奇な運命を暗示するかのようだ。
『始まりましたYoutube、異聞怪聞伝聞Youtuberのバムオです。』
木琴のマンネリ化したフレーズが流れる。いや、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。繰り返しているようなフレーズもまた然り。
『今回のタイトルは【Princess diary】です。』
「復讐するは我にあり。」
ぼくは一人暗闇の中で淡く光を漏らすスマホの画面に向かって呟いた。部屋に一人、そうでなければ吐けないこのセリフ、もし誰かがぼくの部屋にいたら、ぼくの迫力に恐れおののくことだろう。そんな怒りの感情を隠そうともしないぼくは平静を装いつつも、スマホの向こう側にいるまだ見ぬ詐欺師を探していた。そう、詐欺師に復讐をするために。
【お金の増やし方教えます。】
ぼくが詐欺師を敵視するようになったきっかけは数か月前に遡る。少ない生活費のやりくりに疲れ切ったぼくの目に飛び込んできたスマホに浮んだ甘い言葉。Youtuberを自称しながらも、動画収入では到底食べていけないぼくが、唯一の支えである祖母からの仕送りを使い切り、短期バイトでその損失補填分を稼いできた帰り道。
【お金の増やし方教えます。】
こんな言葉に釣られたのはバイト疲れか、それとも若さがその故か?
お金に困っていたぼくはただ信じたかったのだ。お金を指定された口座に振り込むだけで、倍になって帰ってくるという現代の錬金術を。
ぼくは甘言を吐くサイト主と数回メールをやり取りし、
【お金の増やし方教えます。】
この文言を信じ込み、言われるがままに有り金を振り込み、支払うべきだった公共料金さえも使い込み・・・・・・。
朗報を待っていたぼくに訪れたのは、
【指定されたメールアドレスは存在しません。】
という、一方的すぎる別れの言葉。その言葉は夢に浮かれていたぼくに残酷すぎる現実を突き付けていた。ぼくは詐欺師に騙されていたという現実を。
警察に相談しようにも額が少ないうえに、簡単に引っ掛かりすぎた自分が恥ずかしくてとても相談できない。金銭的に困窮したぼくは暗い部屋の中一人悶々としていた。部屋が暗いのは電気代未払いによる電力会社からの報復、ぼくは暗闇の住人となるのだ。日中以外は、そして電気料金を支払うまでは暗い夜を過ごすのだ。
暗い部屋の中、ぼくの中でふつふつと湧き上がってきたのは復讐心。ぼくたち被害者を食い物にする詐欺師め、今度はぼくがお前を食い物にしてやる。詐欺師をだまくらかしてやるんだ。まだ見ぬ詐欺師よ、今夜は震えて眠るがいい。
先に震えたのはまだ見ぬ詐欺師ではなく、ぼくのスマホだった。見ればいつどこで連絡先を交換したかも思い出せない、そんな誰かからのメッセージが刻まれれていた。
『久しぶり、すごくいい話があるんだけど、乗らない?』
まさに渡りに船とはこのこと、あからさまに怪しいメッセージを見てぼくはほくそ笑んだ。見ているがいい、誰だか知らない二人目の詐欺師よ、お前が罠に嵌めようとしているのはおいしい獲物ではない、詐欺師に騙され暗闇に蠢く狩人なのだ。
「復讐するは我にあり。」
ぼくはその【すごくいい話】を聞くための日程を指先で相手と相談しつつ、口から怨念を込めたセリフを吐いた。
「君は今、ディスティニーのウォーターシェッド、言うなれば運命の分水嶺に差し掛かっている。」
どこで出会い、どこで連絡先を交換したかも未だに思い出せない、ぼくが詐欺師と決めつけた彼はカフェのテーブルを挟んで座っている。そして両手を広げながら、正面に座るぼくに説いている。
待ち合わせ場所は自分一人では絶対に行くことのない小洒落たオープンカフェ、燦燦と午前中の陽光が降り注ぐテラス席に座り、二枚目のピザにかぶり付きながらめったに飲んだことのない白ワインで流し込むぼく。無論支払いは彼と決まったうえでの行動だ。彼は自分のペースでぼくを嵌めようとしているのだろうが、ぼくはすでに彼への攻撃を始めていた。ぼくは詐欺師であろう彼に食事代という金銭的ダメージを与えているのだ。無論経済的困窮からくる食糧難も解決しながら。
親の仇が如くピザを平らげるぼくを微笑みながら眺める彼。彼は濃紺のテーラードジャケットを羽織り、なかには輝くような白いカットソーを着込み、グレーのパンツを細身に着こなし、やたらと日差しを反射する飾りのついたローファーを履いていた。ファッションにはまったく精通していないぼくにでも、その容貌は彼の裕福さを雄弁に語っていた。年齢はぼくとそう変わらないようだが、羽振りは良さそうだ。なんといっても食事をご馳走してくれるくらいなんだから。しかし、その資金は詐欺に泣いた被害者の犠牲によって成り立っているに違いない。
「そんなに慌てて食べなくても、良かったら白ワインおかわりするかい?」
ピザを詰め込みすぎたぼくは答えることができず、なんとか首を縦に振って彼の質問に答えた。彼はふっと笑いながら、これまたスマートに右手を挙げた。それに反応したウェイターがぼくらのテーブルにやってきた。
「白ワイン、同じものを一つ。それから・・・・・・。」
彼はすこし溜めるようにしてからウェイターに言った。
「私にはカフェオレをブラックで頼む。」
カフェオレをブラックで?
ぼくは彼の言い間違いかと思い、ウェイターもそう思ったのか注文を聞き直していた。しかし彼は、
「カフェオレをブラックで。」
と繰り返すばかりで、ウェイターは怪訝な顔をしながら厨房へと下がっていった。
「さてとどこまで話したかな?」
「そうそう、君に訪れたチャンスという名の素晴らしい好機についてだったね。」
そう彼は久しぶりのピザとめったにお目にかかれない白ワインを堪能するぼくに、人生の転機とも言うべき【すごくいい話】を勧めていたのだった。彼の話を要約するとこうだ。
彼はとある落ちぶれた名家の生まれ、その名家は没落した一族のようだが隠し資産があるらしい。ただそれを探し出すためには資金が必要で、彼はその出資者を募っているらしい。もちろん出資者にはそれなりの配当が約束される。なんともわかりやすく、胡散臭い【すごくいい話】なのだ。
「君という空から舞い降りたレインドロップ、すなわち君という雨粒は川の流れに身を任せ過ごしていた。」
「そして私という存在に出会い、そのフローに、つまりは流れに乗る機会を手に入れた。」
「君は今、ディスティニーのウォーターシェッド、言うなれば運命の分水嶺に差し掛かっている。」
「アプルーバルという名の賛同は、今こそ君にかかっているんだよ。」
キンと冷えた白ワインで判断力が低下しつつあるぼくでも、明らかにイカサマ師的とわかるこのインチキ臭いしゃべり方。岩よりも固い意志を以って断る覚悟を決めていた時、ウェイターがお代わりの白ワインとカフェオレを持ってきてくれた。白ワインは頼んだ通りだが、カフェオレをブラックでという彼の希望には応えず、ウェイターは普通の白く泡立つカフェオレを彼の前に置いた。
「君、私は・・・・・・。」
「ごゆっくりどうぞ。」
ウェイターは難癖は受け付けませんとばかりに彼の言葉を遮って厨房へと下がって行った。ウェイターの態度に苦笑しながら彼は呟いた。
「ウェイターの彼は私が言ったカフェオレをブラックでという、アンビバレントな二重背反に応える事ができず、アンガーマネジメントが出来ず怒りの感情制御に失敗し、リザルトとしてこのような結果を招いた。」
「私はあのウェイターにとっても、君にとってもチョイスを提案するサーバー、選択肢の提示者に過ぎない。」
「君のディシジョンメイクが良い意思決定に向かうことを心から願っているよ。」
そういうと彼は今日の勘定が記された伝票をひらひらと右手に持ったまま、オープンカフェのテーブル席を後にした。なんだか拍子抜けな気分。もっとくどくどと先祖の財宝について聞かされたり、一食の恩義を笠に着て共同出資者としての金銭をしつこく要求されるかと思ったのだが・・・・・・。
彼の見事な引き際に呆気にとられつつも、ぼくは詐欺師であろう彼から食事を勝ち取り、交渉に負けなかった満足感に浸っていた。
二度と来ることは無いであろう素敵で高価格なオープンカフェを後にしたぼく、あまりに安心したせいか、日の高いうちから白ワインを飲んだせいかぼくの足取りがどうにもおぼつかない。ぼくはぼーっとした頭をぶるぶると振ってから辺りを見渡すと、休憩にはおあつらえ向きの公園があることに気付いた。公園につくとぼくを昼寝に誘うかのように布製の長椅子が置いてあり、ぼくはアルコールによって重くなった体をそこに横たえた。
「あのー。」
なんどか同じ声で同じお言葉がぼくにかけられているようだ。すっかり寝入ってしまったぼくが重い瞼をこじ開けると、先ほどまで静寂に包まれていた公園は賑やかなフリーマーケットへと様変わりしていた。そして白ワインで判断力が低下したぼくが横たわったのは、共用の長椅子ではなくフリーマーケット出展者の私物だったようだ。
「わわわ、すみません。」
自分が勝手に他人の長椅子で寝ていたことに気付いたぼくは、謝りながらも慌てて飛び起きた。と言うよりは長椅子から飛び起きようとして、ぼくは長椅子から転げ落ちたと言った方が正しいかも知れない。そして転げ落ちた先には山積みになった本があって・・・・・・。
「すみません。」
さっきからこの言葉しか出てこないぼく、ものすごく迷惑そうな顔をしてぼくが散らかした山積みの本を片付ける、古本屋的なフリマ出展者のおばさん。気まずいながらもそそくさとその場を離れようとした時、ぼくは左足の違和感に気付いた。ぼくの左足は土ではない、何か固いものを踏ん付けていた。背中を辿る冷たい汗を感じながら、恐る恐る足元を見るとぼくの不安は的中した。そう、ぼくは本を一冊踏みつけていたのだ。
「ご購入ありがとうございます。」
ぼくが泥だらけにしてしまった一冊の本、それを不快な表情でぼくに売りつけてきたフリマ出展者のおばさん。現金は所持していなかったものの、電子マネー決済能力だけはかろうじて保たれていたぼくは余計な買い物をする羽目になってしまった。ぼくは余計な出費に肩を落としながらとぼとぼと公園を後にした。
家に帰って泥に汚れた本をベランダで乾かし、その間にいくつかの臨時バイトをこなし、ようやく電気料金を支払い、蛍光灯の明かりを取り戻したぼくは汚れた本を改めて眺めた。可能な限り泥を落とすと、本の表紙にこんな文字が現れた。
【 Дневник принцессы】
これ見たことあるぞ、キリル文字ってやつだ。言語に詳しいとは到底言い難いぼくがこれをキリル文字と判別できたのは、とある忘れがたき思い出、ぼくの黒歴史があるからだ。
それは中学校一年生に遡る。英語に関わらず、すべての分野が苦手だったぼく。初めて受けた英語の中間考査でぼくはやらかした。
【Yes I bo.】
ぼくはYes I doと書きたかったのだ。しかし小文字のdとbが試験中にわからなくなり、このように書いた。この珍回答をクラスメイトに見られた結果、中学時代ぼくのあだ名は、
「アイボー。」
となった。しかし中間考査の答案には、
【Yes I bo.】
だけではない間違いが存在していた。
【Nはこう書きます。君の書いたИはロシア語などのスラブ語系で使われるキリル文字ですね。】
僕の答案には英語教師の優しい添削が為されており、ぼくはこの逆Nとも言うべきИがキリル文字であることを知った。以上これがぼくの黒歴史である。
【 Дневник принцессы】
改めて本の表紙に書かれたタイトルを眺める。キリル文字だということはИという文字が入っていたから理解できた。だからと言って意味まで理解できた訳ではない。こんなときはスマホに翻訳させるのが一番だ。
【 Дневник принцессы⇒プリンセスダイアリー】
プリンセスダイアリー?
お姫様の日記?
そう言えばこの本、ベルトみたいな帯がついている。鍵がかかっていたようだが、ぼくが踏ん付けたときに壊れたようだ。相当に古い本だということを誇るように、ぼくが踏ん付ける前からかなり表紙はボロボロだった様子。淡い紫色だったであろう表紙の装飾はほとんど剥げ落ち、その茶色い下地を露わにしている。
「どうしよう。」
ぼくは呟いた。これが日記だとすれば、勝手に読んでも良いものなのか?
ぼくは突然降って湧いた倫理観に悩んだ。
結論:ぼくが買ったんだからぼくのものだ。
ぼくは先ほどまでの躊躇を忘れ、プリンセスダイアリーと書かれた本を開いてみた。
この日記は二木真理子さんという日本人、おそらくは少女が書いたもので、その生活場面は満州と呼ばれる日本から離れた場所で太平洋戦争前後に渡って書き記されていた。
『私の名前はニコライ・クシェンスキー。ロマノフ家の王子様であります。』
良かった。日記のタイトルはキリル文字だが文面は日本語で書かれている。そしてこの日記はロマノフ家の王子とやらを名乗る詐欺師のような男のセリフから始まっていた。いつの世にも銘家の出自を語る詐欺師はいるものだ。そんな偶然を感じながらぼくはこの日記を読み始めた。
「ニコライは世が世ならば、ロシア帝国ニコライ三世です。ロマノフ家の末裔として満州国の王、愛新覚羅溥儀にも表敬訪問できる王子様なんですよ。」
今日もニコライは真理子の前でおどけて見せる。帝政ロシアが崩壊し、行くところを失った元ロシア貴族や、旧体制側の者達は共産主義の赤に染まった人民と相反するように白系ロシア人と呼ばれ、新しいソビエト連邦という国に居場所を失っていた。そのためあちこちを転々としたニコライのような白系ロシア人はその安住の地を求め、遠く満州に辿り着くものも少なくなかった。当時の白系ロシア人たちは、長い逃亡生活を続けてきた者が多くそのほとんどが偽名を使い、身分を偽っていた。
「ニコライはもう王子さまって年じゃないでしょう。」
二木家の営むパン屋の娘である真理子は快活にニコライの冗談を笑い飛ばした。四十近いおじさんが流暢とは言い難い日本語で王子様を気取るのが、十代前半の真理子には滑稽に見えたのである。
「ニコライは冠を被ってないからまだ王子様。」
「信じてくれるなら真理子が大人になったとき、お姫様にしてあげるのに。」
真理子をからかうようにうそぶくニコライから視線を外して真理子が呟いた。
「お父さんのパン屋を継いでくれるなら・・・・・・。」
真理子が照れに頬を染めながら言った。
「ニコライのお嫁さんになってあげてもいいよ。」
そのまま踵を返して恥ずかしそうに駆け出す可憐な少女真理子、ニコライはその背中を微笑みで見送っていた。
当時の日本は現在の中国北東部に満州国を建国した。そこには二木家を含めた沢山の日本人が移り住み、その繁栄に貢献していた。そこに行き場を失った白系ロシア人のニコライが現れたのである。突然満州に現れたニコライの事を真理子は昨日のように思い出す。
「お父さん、誰かお客さんみたいだよ。」
二木家が営んでいたパン屋の前を行ったり来たりする、大柄な白人に気付いた真理子が父に知らせた。ここ満州国に最近現れる白人と言えば大概が白系ロシア人で、祖国を追われて生活に窮しているものがそのほとんどであった。おそらくは飢えてパン屋の前に現れたのであろうと、真理子の父はパンを一つ持って店の外に出た。もちろん困窮しているであろうこの白系ロシア人にパンを施すつもりで。
しかしこの空腹であるはずのロシア人はパンを受け取らず、にこにこしながらもどこか尊大な雰囲気を醸し出していた。真理子の父から手を差し伸べて、握手をし真理子の父から名乗った。すると、
「ニキ、ニキ。」
このロシア人は破顔の笑みで、二木家の苗字を繰り返し続けていた。なんだか憎めないこのロシア人を二木家に招き入れ、生活をともに送るようになり、そしてある程度のコミュニケーションが取れるほどの付き合いになった頃、このロシア人:ニコライ・クシェンスキーの仇名が、
【ニキ】
であり、彼ら二木家の苗字と同じだった偶然を知った。この偶然に気を良くした二木家は日本語とパンや焼き菓子の知識をニコライに与えた。陽気なニコライはあっという間に二木家になじみ、二木夫妻はもちろんのこと、一人娘の真理子とも親しくなるのに時間を要さなかった。
「ニコライには家族がいないの?」
この問いを誰に投げかけられてもニコライは必ずふざけてはぐらかす。帝政ロシア時代の生活を知られたくないかのように。しかし質問が家に及ぶと必ず、誰に対してもこう答えた。
「ニコライには今まで【домой】(ロシア語で家)がありませんでした。だからニコライの家はここです。満州国が、二木家がニコライの家です。」
そう答えるニコライの顔は幸せに満ちているように真理子には思えた。だから二木家のパン屋を継いで、真理子をお嫁さんにしてくれる。いや、本人の言葉を借りればお姫様にしてくれる。早熟な真理子はそう信じて疑わなかった。
「ニコライはこのお話が好きです。」
ニコライはパンや焼き菓子の作り方を覚えるのが早かったが、日本語を習得するのも早かった。読めない字は真理子や二木家の家族に聞きながらではあるが、真理子の父が大事にしていた日本史の本をいつも読み耽っていた。
「アザイ・ナガマサ。自分を犠牲にして家族を守った。ニコライも家族と家をきっと守ります。」
ニコライが好んだ話は戦国時代、織田信長と浅井長政との戦いの話であった。織田信長に居城へ攻め込まれた浅井長政は、自分を犠牲にして妻や子を逃がしたとされている。
「浅井長政が守ったのは家族で、家ではないでしょう。」
真理子が不思議そうにニコライに問うと、ニコライは珍しく真剣な顔をして真理子を頭を撫でつつ言った。
「家とは家族と同じ、建物が無くなっても、家族が生きていて住んだところが家になります。」
「ソビエト連邦となったロシアでは失われつつある、家と言う考え方。ニコライは王様の子供だから家を大事にします。」
そしていつも通りの悪戯っぽい笑顔に戻り、
「真理子がニコライの素敵なお姫様になれば、真理子が住んでいるところがニコライの家になります。」
とうそぶきながら、この【 Дневник принцессы】とロシア語で記された日記帳、すなわち【プリンセスダイアリー】を真理子にくれた。
「真理子が早くお姫様になれますように。」
真理子はからかわれているのだと知りつつも、心の奥底でニコライへのときめきを抑えきれずにいた。
ニコライが二木家に住むようになり、数年が過ぎたある夏の日にそれは突然起こった。
「ハルピンがソビエト軍に占領されたらしい。」
1945年8月、日本は太平洋戦争に敗北した。そしてその直後日本とソビエト連邦の中立条約は破棄された。そして平和だった満州国に突如戦争がその牙を剥いた。満州国はあっという間にソビエト連邦に侵略され、満州国の大都市ハルピンでは多数の民間人まで犠牲になったという。そしてすでに降伏していた日本本国からの援助を受けることもできず、満州国は崩壊の一途を辿っていた。
二木家を含めた満州国に住む日本人は慌ててソビエト連邦の反対側、すなわち南へ向かう身支度を始めた。ニコライのような白系ロシア人もソビエト連邦に捕縛されれば日本人以上にひどい目に遭わされるかも知れない。しかし、満州国に取り残された日本人たちには残酷なほど時間が無かった。
「ニコライ、何してるの。逃げる準備をしなきゃダメでしょう。」
慌てて荷造りをしている二木家のみなを尻目に、ニコライは先に逃げ出した家々のなかを漁っていた。そしてそこから集めたウォッカ、日本酒、ビール、ワイン等々それを二木家のパン屋に並べ始めた。
「真理子、みんなといっしょに逃げなさい。」
ニコライは笑顔を絶やさずに諭した。
「大丈夫、私はロシア人、ロシア語上手です。これからやってくる兵隊たちとお酒を飲んで、真理子たちが逃げる時間を作ります。」
「ニコライ、お願い、一緒に逃げて。」
泣いて縋る真理子をニコライは固く抱き寄せ、そして額にキスをした。
「ニコライは真理子の王子様。お姫様が逃げのびたら、そこに行きます。そこがニコライの新しい家。」
「ニコライ。」
「二木家のみなさん。親切は忘れません。真理子、私の大事なお姫様。必ずあなたとあなたの待つ家で会いましょう。」
後ろ髪を引かれる思いで真理子は父母に引きずられるようにして南下を始めた。日本へ帰国するために。
かくしてこの【プリンセスダイアリー】は締め括られていた。なんという壮絶なラブストーリーなのだろう、ぼくは感動に胸を熱くし、そして自分の本分を思い出した。そう、ぼくは動画配信者、この感動を世界に届けたい。そして日記の持ち主である真理子さんやそのご家族に、この日記が届くように。ぼくはこの【プリンセスダイアリー】を動画にまとめることにした。
動画のタイトルはそのまま【プリンセスダイアリー】、このひょうきんながらも最後には勇敢に家族を守ったニコライ・クシェンスキーと真理子さんのお話をなるべく日記に忠実にまとめる。かなり昔のお話だから二人の名前はそのまま出しても問題はないだろう。もしかしたら二木家の子孫が見つけてくれるかも知れない。その時は他人の日記を読んだことを詫びつつ、この日記帳をお返しするつもりだ。
さあ、我が動画よ。世界にその名を轟かせるがいい。
動画をUpしてからそれなりの日にちが過ぎたが、期待していたほど動画はバズらない。そして数少ないコメントも、
『他人の日記を読み、その内容を公開するとはいかがなものか?』
的な厳しいコメントが大半を占めている。そんな中ちょっと気になるコメントを見つけた。
『このニコライ・クシェンスキーって人、本当にロマノフ王朝の末裔なんじゃないか?』
先日から複数の詐欺師と騙し、騙されの歴戦を繰り広げたぼくからすれば、ニコライさんは限りなく怪しい人物に思えるのだが。そしてコメントは続いた。
『ロマノフ王朝最後の皇帝、ニコライ二世には婚前に恋人がいた。その名前はマチルダ・クシェンスカヤ。ロシア人は男女で苗字が変化するから、もし母親の姓を名乗っていたらクシェンスキーになる。』
ぼくはあわてて日記に出てきたニコライの母親かも知れない、マチルダ・クシェンスカヤについて調べてみた。確かに実在の人物でニコライ二世が結婚する前にかなり深い付き合いをしていたバレリーナらしい。その後ニコライ二世は別な人と結婚し、マチルダも別な白系ロシア人と結婚しソビエト連邦から逃れてパリに住みその生涯を終えたとか。
たしかに年代は一致するし、母親とされる人物と苗字も一緒だ。マスコミが盛んな現代と違って、ロシア皇室の王子様に恋人がいたなんて一般大衆は知る由も無い。詐欺師が名乗るにはちょっと無理があるかも。
ぼくの仮説が正しければ、マチルダ・クシェンスカヤはニコライ二世の息子を私生児として出産、それがニコライ・クシェンスキーだったということになる。その後母:マチルダは別な相手と再婚し新しい家庭を築いた。ニコライには家がないと言っていたのはそのせいかも知れない。
詐欺師と決めつけていたが、ニコライは本物の王子様だったのかもと夢想してみる。もしも彼の母親であるマチルダとニコライ二世が結婚していたら、ニコライ三世と呼ばれていたかも知れない。ロシア革命が失敗していたら、皇帝ニコライ三世となっていたかも知れない。後で調べて知ったのだが、ニコライ二世とその家族は全員ロシア革命で死亡しており、ニコライ・クシェンスキーはロマノフの血を継ぐたった一人の生き残りだったのかも知れない。彼の好きだった浅井長政と言う人のように、家族である真理子たちを逃がすための犠牲にならなければ。
歴史の不思議な流れに乗せられたニコライ・クシェンスキー、彼もまた運命の分水嶺に幾度も翻弄された人生を辿っていたのだ。
ぼくは動画のコメント欄眺めながらため息をついた。ぼくは間違っていた。一度騙されたからって人を初めから詐欺師と決めつけてはいけない。ぼくは先日持ちかけられた【すごくいい話】を紹介してくれた人にもう一度連絡を取る決意を固めた。
そんなぼくの目にもう一つ新着メッセージが飛び込んできた。
『この日記は間違いなく私の曾祖母のものです。返して頂けますか?』
ぼくはこのメッセージにも驚いたが、それ以上に驚いたのはそのメッセージ送り主の名前だった。
『私の名前は二木・クシェンスカヤ・加奈子です。』
ぼくは異聞怪聞伝聞Youtuber、【プリンセスダイアリー】。感想をぜひお寄せください。
https://youtu.be/iec29KGFm5g