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白銀の髪は力強き術者、王族の証。その国の貴族に美しき白銀の髪の毛をした女性がいた。~創造主が二人に別れたがゆえに紡がれる物語シリーズ~

作者: 星月ゆみこ

~序章~

牢獄の中に女性が一人、赤子を愛しげに抱いて泣いていた。


「ごめんなさい…ジュラン…。ごめんなさい…」


何度も呟かれる言葉は、赤子への謝罪。


薄暗い肌寒い牢獄に月の光が射し込み、かろうじてわかる赤子の表情は、母親に抱かれて健やかに眠る幸せな寝顔だった。


女性の悲しみが刻々とより深くなっていく。


この赤子の行く末は「贄」と決まっているのだ。


今この国の長老と呼ばれる神に仕えし、最高権力者達がその日取りを決めている。


しかし、可能性が高いのは今日の夜明けと共にだ…。


この国の王妃である女性、そして、この国の王子であるジュランが、なぜそのような運命に陥れられたかは、少し過去に戻らなければならない。


~貴族の娘~

ヒスヒシャート国にて、超一流の名門貴族に生まれた現19歳の女性、名をフィランジェルという。


彼女は、16歳で政略結婚が当たり前の貴族的適齢期を過ぎに過ぎ、毎日のように両親に小言を言われていた。


今日の夕食の席でも、まずはその話題からである。


「フィランジェルよ、お前は親から見ても、他人から見ても、本当に美しいと評判だ。だが、時期を過ぎれば、貰い手がなくなるぞ?」


召し使いが脇から食事を運んでくるのを見ながら、父が席に着いた娘に即座に口を開く。


母は、父の機嫌を損なわないようにいつも控えめで、フィランジェルは、母のようにはなりたくなかった。


「この間の見合いのカラン公爵はかなりの実力者ではないか。なぜ断ったのだ」


威厳ある父の言葉に、フィランジェルは、にっこりととってつけたように笑った。


「お言葉ですけどお父様。あれは…いえ、すべてのお見合いは、皆向こうから断ってくるのでしょう?不慮の事故で体調を崩してね」


フフンと嫌みっぽく、フィランジェルが鼻で笑い、豪華に並ぶ食事を、勢いよく片付けて行く。


少しずつしか食事をしない父は、頭を抱えた。


「また…お前は…どうしてそんな事をするのだ?」


父の嘆きに、フィランジェルは、ザクリとフォークを豚肉に刺した。


「当たり前でしょう?私は、自分より弱い者には嫁ぎません」


フィランジェルは強かった。


このヒスヒシャート国は神が強力な術師という事もあって、神の血をひく王族はもちろん、民に渡り、術の種類は様々だが、皆術が使えるのだ。


特にフィランジェルは、攻撃系の術に優れ、幼い頃に基礎を教えてもらってからは独学で学び、それは、本物の強さになっていた。


求婚者を追い払う程度の強さどころではないが、両親はもちろん、誰もそれを知らない。


言う気もない。


この自分の力は、今自分が使うものではないと、漠然と感じるからだ。


適当に半殺しにした求婚者は、皆、女に負けたと言えない男尊女卑の強いプライドの高い者達で、事故にあって、フィランジェルを無傷で守って体調を崩したと、美談を作り上げた。


ついでに出来た噂が、フィランジェルには、美しさに魅了された怪物が取り憑き、守っているだった。


しっかり食べて、早々に食事を終えたフィランジェルは、「お先に失礼します」と素っ気ない挨拶をしてから、歩きにくいドレスを軽く持ち上げ、足早にその場を後にした。


「次の見合いは断るでないぞ!」


父の声が後ろから追いかけて来たが、全く無視をした。


うんざりする事このうえなく、貴婦人にあるまじき足音を盛大にたてながら、彼女は、自室への贅沢を施した廊下を進んだ。


召し使いが急ぎ足のフィランジェルを大袈裟に避けて頭を下げる。


ピタリと、自室のドアの前で彼女は立ち止まり、一番近くのメイドに厳しく言い渡すのを忘れなかった。


「貴女、私は今から眠ります。誰か部屋に入って来て私を起こしたら、解雇するわよ!皆にもそう伝えなさい!」


「わ…わかりました」


深く礼をとった後に、一目散にメイドは逃げ去り、近くで聞いていた召し使いも同様に去っていった。


廊下には全く人気がなくなり、ニッコリとフィランジェルは満足気に笑った。


夜はまだまだ始まったばかり。


眠るなんて、とんでもない。


今からが、フィランジェルの自分の為の時間なのである。


~教会の灯~

その国の町には必ず教会があった。


民の信仰心は深く、代々の国の王イコール神を崇めていた。


現在の王は、ヴァレン神といい、神官や司祭の祈りは、すべて彼に注がれていた。


信仰心が根強い分、教会も大きい。


その広い敷地には、事情ある子供らや、孤児の子達もシスター達に引き取られ、規則正しい清潔な生活と愛情を注がれていた。


また、教会の広場では、朝は新鮮な野菜や魚等の生鮮食品がずらりと並ぶ朝市が開かれていた。


そして日が暮れる頃には、灯りがつき、子供や大人が楽しめる屋台が所せましと並び、賑わった。


教会も明るくライトアップされて、民達のほとんどが一日の疲れをここで癒す事も多かった。


もちろん場所代は、教会への寄付に当てられた。


王都の教会は、やはり規模も大きく、装飾も素晴らしく、司祭も神官も飛び抜けて多かった。


教会の広場も整備された木々が正面玄関に向かって並び、夜の催しも素晴らしかった。


子供達を保護する施設も充実しており、司祭が親身に育てていた。


子供達の就寝時間は夜の九時と決まっている。


四人の共同部屋で、どの部屋の子達も、就寝準備をしながら、広場が見下ろせる窓から外の綺麗な電灯の光や曲芸師の技を眺めた。


施設の門限は六時なので、こうして眺めて満足するしかない。


しかし、一日の祭りの終焉として九時に五分間だけ盛大にあがる魔法による花火は、最高に見易い位置にあがる為に、どの子供達も満足して眠りについていた。


今日も花火が上がり、子供達から大人達まで、ほとんどの者が美しい花火に目を奪われていた。


しかし、教会のある一室の子供部屋では、一人の小さな女の子が、里心にかられて泣いていた。


「お家に帰る~!お母様は~?」


「一年の辛抱だろ!一年後には帰れるからな!」


泣き叫ぶ妹の事を、兄が必死になだめる。


実際この兄妹は他国の実力者の子供達で、孤児以外の見聞を広める為のこうした留学生は多かった。


「い~や~!」


なおも泣き叫ぶ妹に、同室の他の二人が冷たい視線をおくる。


彼は真の孤児達で帰る家は、養子にならない限りここしかない。


それを知っている兄は、なんとか妹の家に帰りたい攻撃を阻止しようとするのだが、一向に収まらない。


「ほら!花火が綺麗だから、一緒に見よう!」


妹は小さい為に、窓枠が高くて誰かに抱えてもらわないと見る事が出来ない。


その為に、兄が背におぶって窓際に行こうとした。


しかし、その狭い窓枠は二人の少年によって塞がれていた。


故意なのか、偶然なのか…


しばらくその場に立っていたが、兄は黙ってその部屋を出た。


花火は、この国独自の魔法による花火で、火と風の力加減による一瞬技のような物だった。


もちろん誰もが出来るわけではなく、魔法の力の源である魔力が強く、技もたけてなくてはならない。


魔力の強さは一目見ればわかり、まず王族は美しい白銀の髪の持ち主で、魔力も無限に近いほど持つとされている。


魔力が薄くなればなるほど、灰色がかった銀から灰色、白と個人差によって色が変わるがだいたいがそうだった。


よって、この魔法花火をあげているのは、かなりの力の持ち主とされる。


「お兄ちゃん…?花火は?」


兄におぶられて、妹は泣き止んでおり、不思議そうに尋ねる。


「しっ。静かに!」


この時間に部屋の外に出る事は禁じられている為に、慌てて兄は注意する。


その足で、兄は屋上への階段を上った。


きっと屋上からは花火が見えるはずだ。


「お兄ちゃんが今花火を見せてやるからな」


「うん!」


うきうき気分で妹は兄にしっかりしがみつく。


そんな妹の為に、兄は結構な段数を上り、時間をかけて屋上まで辿り着いた。


「つ…、着いた…もう降りていいぞ」


「うん!」


ぴょんと妹が嬉しそうに背から飛び降りる。


息を整えた兄は、ひどく頑丈な鉄の扉のドアノブに手をかけた。


これを開けたら妹に花火を見せて上げられる。


意を決して扉に挑んだものの、難なくそれは開き、兄は見事に前のめりに転んだ。


「いててて…」


身を起こした兄は、初めて屋上で目にしたものに、声もでないほど感動した。


そこには夜空に舞う、光の集合体、花火がすぐ目の前にある屋上の柵向こうに見えたのだ。


それと同時に、一人の道化師の後ろ姿が見えた。


色鮮やかな奇特な服装をしていて、一目で道化師とわかる。


その道化師の周りは淡い銀色の風が舞う。


その動きに合わせて花火が繰り広げられている為、道化師が花火を上げているのは一目瞭然だった。


「花火だあ!」


妹が我に帰って跳び跳ねて喜んだ。


その声に驚いた道化師が慌てて振り替える。


「驚いた!こんな所まで来てどうしたの?おちびちゃん達、夜はお部屋から出たら駄目なんでしょう?」


道化師では珍しい女性が、不思議そうにしながらも、優しい眼差しで子供達を見る。


一切素顔がわからない程濃いメイクの上に仮面をしているが、帽子から見える髪は透明感の強い白銀色をしていた。


それは魔力の強い事を証明おり…それはまさしくフィランジェルだった。


夜に貴族の家を抜け出し、彼女はここで術による花火をあげていた。


自らの意思で、自らの楽しみの為に…。


~道化師と司祭~

最初、フィランジェルはその格好通り、道化師として小さな術を使って皆を楽しませていた。


晴れ舞台は夜の教会の広場全体で、噴水の側では水から魚の群れを形作り、虹のように半円を描いて、行き交う人々を感嘆させていた。


また、軽やかにステップしながら、銀のステッキの先に青い炎を纏わせて幻想的な残像を残したりもしていた。


しかし、1日の締めには必ず花火が上がり、皆はそれに夢中になるのだ。


フィランジェルは、とてもそれが悔しかった。


何がかというと、自分の方がよりいっそう素晴らしい花火を上げれる自信があったのだ。


ある日、あまりにもおざなりな…というか繊細さのかける力任せな花火にとうとう嫌気がさし、フィランジェルは、よく遠目でみかける司祭の側まで走りよった。


「ねえ!そこの司祭様!私に花火を上げさせて!」


「は?」


突進するような勢いで道化師が走り込んできて、発した言葉に、フィランジェルよりもやや年上の司祭は、印象的な青い瞳の目をまんまるにした。


「私の方が絶対もっと素晴らしい花火をあげれるわ!」


更に詰め寄り、若い青年司祭は、目元を和ませて笑った。


「意気込みはすごいけど、君には無理だよ。今花火を上げてるのは、王家の術師だよ?君は確かに術が使えるみたいだけど、やめときなよ。相当な魔力を消費するからね。女の子なんかじゃ倒れるよ?」


白いフードを深くかぶり、髪の毛を一切見せない司祭独特の服装をしている為に、相手の実力の程はわからないが、フィランジェルはこの人を馬鹿にした言葉にカチンときた。


司祭は、本人を心配しての言葉だったのかもしれない。


しかし、フィランジェルは女の子なんだからという、男尊女卑の言葉が、何より許せなかった。


「…見せてあげるわよ」


苛烈な眼差しで司祭を睨んだフィランジェルは、くるりと司祭に背を向け、意識を上空に向けた。


そして、挑むように司祭に笑いかけると、一気に力を込めた。


夜空には、百合の花が咲いたような、今まで見た事のない、美しく繊細な花火が上がった。


女性ならではの、フィランジェルらしい花火で、観客からも人際強い歓声が上がった。


再び、どうだとばかりに青年司祭を振り替えると、彼はフィランジェルを、恐ろしく真剣な眼差しで凝視していた。


「えっ…?」


思わずフィランジェルが戸惑うと、すぐに青年司祭は、にっこりとして表情をくずし、スッとフィランジェルに手を差し出した。


「合格だね。君の花火が素晴らしい事を認めるよ。僕の名前は、カルナート。よろしくね」


先程の眼差しが嘘のように司祭はニコニコとしている。


何か附に落ちない感が強かったが、気のせいだったのかもしれないと気を取り直し、道化師としての自分を売りこもうと、しっかりと握手した。


「よろしく、カルナート。私はフィランジェルよ」


ニコニコしているカルナートにつられてフィランジェルも笑顔を浮かべる。


「フィランちゃんか~可愛い名前だね~」


「そう?ありがとう」


「で、いくつ?」


「は?」


唐突な、そして一番触れてはいけない所に、カルナートが早速触れてしまい、一気にフィランは固まった。


それに気が付きつつも、カルナートはなおも言葉を続ける。


「いや、だってさ、仮面してるから年がわからないし、結婚はもうしてるの?」


結婚…


ブチッとフィランは切れて、カルナートの手を払い退けて怒鳴った。


「どうせ私は適齢期も過ぎてるのに、結婚してないわよ!」


拒絶されたカルナートは、ショックを受けるどころか、好奇心丸出しで、嬉しそうに微笑んだ。


「そうなんだ!こんなに元気がいいのに勿体ない!」


なぜそんなに嬉しそうなのかさっぱりわからないフィランが、反応に困って怪訝そうにすると、カルナートが何気なく近寄ってきて、フィランの腰の辺りをいきなり撫でた。


「こんなに魅力的なのにな」


ぐいっと引き寄せられ、フィランは、思わず彼の足に蹴りを入れた。


「な、な、なんなの、このエロ親父!貴方司祭でしょう?!」


一瞬痛さに顔を歪めたカルナートは、ぽかーんと間の抜けた表情を浮かべたかと思うと、慌てて自分の衣服を確認するように乱れを整え、再び人好きのする笑みを見せた。


「そうだよね。司祭がこんな事したら駄目だよね。僕、司祭に成り立てだからさ」


「ふーん。成り立てねえ」


「あれ?まだ怒ってる?これから君が花火を上げる許可を取りに行く僕を?」


ニコニコニコニコ…。


「もう!ほんと、司祭らしくないわね!」


フィランジェルは、怒るよりも、可笑しくなってきて吹き出した。


つられてカルナートも声を出して笑い、


「じゃあ、また明日!花火を上げる場所を案内してあげるよ!」


そう言って教会に走り去る彼に、フィランは大きく手を振った。


「ありがとう!また明日!」


こうしてフィランジェルは、この国で一番最高の花火を毎晩のように上げるようになったのだった。


~貴族として~

フィランジェルの朝は、乳母に起こされる事から始まる。


この乳母は、文字通りフィランジェルが赤ちゃんの頃から世話をしてくれている人で、年齢からいって母と祖母の間ぐらいのような存在だ。


贅を尽くした豪邸の隅々までの掃除を指示し、物の配置を知り尽くして管理しており、唯一フィランジェル一家に一目置かれている存在でもある。


そんな彼女は、フィランジェルが一人立ちしてからは、朝から昼までの勤務でフィランジェルの世話をし、後は町にある家族の元で暮らしていた。


「お譲さま。今日は太陽の光が眩しい良い朝ですよ」


いつも通りの快活な乳母の声でフィランジェルは目が覚めた。


「…おはよう、ばあや…」


眩しさに目を細めながらフィランジェルはまず挨拶をした。


昨日は屋上に上がって来た子供達に術による幻想的な手品を披露して、すっかり元気を取り戻した子らを部屋に送り届ける所までめんどうをみた。


いつもより夜更かししてしまい、今日はまだ眠い。


まだ目覚めきらない頭を回転させながら今日の朝の授業は何で、家庭教師は誰だったかと、起き上がる。


一人用のテーブルには、クロワッサンのサンドイッチがメインで、デザートやドリンク一式がしっかりと並べられた朝食が既に並んでいた。


メイドの用意した顔洗いの洗面器で顔を洗い、設置されたコップの水でうがいをして、メイドに差し出されたタオルで顔をふく。


幾分かスッキリした頭で朝食の席につき、食事を始めると、頃合いを見計らって、乳母が今日1日のスケジュールを報告し始める。


「本日は朝食が終わりましたら、ドレスの仕立屋が参りまして、夕方までに仕上げる事になっております」


「え?夕方までに?!」


三日間はかかるものをそんな短時間で仕上げるとは、いったい何事かと、フィランジェルが乳母を見つめる。


乳母は視線を感じながらも報告を続けた。


「寸法計りや仮縫いの合間に宝石職人もきて、最高に麗しくフィランジェル様を着飾るよう申し付けられております」


着飾るイコール見合いか夜会である。


フィランジェルは大きく溜め息をついた。


「はぁ~また見合いか、夜会?」


「そうです。お見合いですよ」


大袈裟に大きく乳母は頷き、その姿はなぜだか嬉しそうで、いつもなら父の無理な見合いに同情してくれるのにと、フィランジェルは小首を傾げる。


「ばあや?なんでそんなに嬉しそうなの?」


「それはもう、今度ばかりはこのばあやも気合いが入りますよ!」


気合いのみなぎるばあやに少々ひきながらも興味を覚えてフィランジェルが尋ねる。


「そ、そうなの?そんなにいいお相手?」


ばあやは、自分の事のように嬉しそうにホホホと笑った。


「我が国の王子ですよ」


「は!?」


フィランジェルが驚きの声を上げると、すかさず乳母が注意してきた。


「お嬢様、そこは、まあ!とか、本当ですの?とか、驚きましたわ!とか、言わなくてはいけません。は!?とは何ですか、は!?とは」


「最大限に驚いた心の声よ。ばあやの前しか言わないわ」


後は道化師の時…とは口が割けてもいえないが。


「そんな事はどうでもいいじゃないの、ばあや。王子と見合いってどういう事なの?なぜ貴族の私が?身分が違いすぎるでしょう?」


最もな理由をフィランジェルが言うと、ばあやはまず軽く頷いた。


「勿論、一対一ではありません。王宮のお城の会場で今回王子様の花嫁探しとして開かれるお見合いパーティーに招待されたのでございますよ」


意気揚々と乳母は熱く語ったが、フィランジェルは肩を竦めた。


「なんだ。お見合いパーティーなのね。私なんか数合わせじゃないの。驚いて損したわ」


「お嬢様!」


ひどい言い様に乳母がたしなめると、フィランジェルはそれを優雅に片手を上げて制した。


「ばあや、私は玉の輿なんて夢みてないのよ。私はここが好きなの。お嫁に行くとしても近所の人がいいわ。知ってるでしょう?」


まだフィランジェルが幼い頃から決めている決意みたいなものを、誰よりも成長を見守っていた乳母が一番よく分かっていた。


「お嬢様…」


乳母やメイドが困った顔をする中、フィランジェルは悠々と食事を終えて、頬杖をつきながら、にっこりとした。


「心配しないで、ばあや。もちろん夜会には出席するわ。もしかしたら玉の輿に乗ってお父様が腰をぬかすかも知れないわよ?」


いたずらっぽく笑って立ち上がったフィランジェルは、あきらかにほっとしている乳母に優しい眼差しを送って、自慢の透けるように美しい髪の毛を片手でかきあげた。


「私を最高級に美しくして下さる?お父様の鼻を少しでも高くしてさしあげるわ」


満足気に乳母は頷いた。


「それでこそ私のお嬢様です」


ごてごてした物を好まないフィランジェルは、長髪で美しい独特の銀の髪が映えるように、純白と青を基調とした装いで王家のパーティーに挑んだ。


公爵家のお嬢様ともなんらひけはとらないと、宝石商も仕立屋も、お世辞ではなく感嘆し、大満足している中、フィランジェルは馬車に乗り込んだ。


その片手には大きなボストンバックが持たれていた。


皆から注目されたが、お色直しが入っていると一喝し、城のクロークに預けるよう付き添いの召し使いに命令しておいた。


悔しい事に、貴族階級には控え室等は用意されないのだ。


別段フィランジェルはそんな事は気にしない。


それよりも重大な事実に思いあたったのだ。


いきなり決まった見合いパーティーで、今日の夜の花火の打ち上げが間に合わないかもしれない。


いつもは事前に決まっていたので、必ず毎夜屋上で会う司祭見習いのカルナートに連絡して、代打を頼んでいた。


乳母にああいったのだから、即効会場を消えるわけにもいかないし、こうなったらもう、途中で抜け出して走るしかない。


大きなボストンバックはその為の物である。


花火に間に合わせる為には30分前には会場を抜け出さなければ…。


今日は忙しくなりそうだわと漠然と思いながら、流れゆく馬車から見える景色を眺めながら、誰もが憧れる夜会を目前にして、フィランジェルは大きくため息をついた。


~舞踏会館にて~

王都の近い、いつもフィランが花火をあげている教会を左に見て、まっすぐ馬車で走ると王城が見えてくる。


城門前は厳しい警備兵が立ち並び、招待状と身分を従者が改められてから、なんと馬車の戸まで開けられた。


普通の夜会はそこまでされないので、王家とはなんて大層な事なのかと、一瞬驚いたものの、フィランジェルは、気さくににっこり微笑んだ。


「ご苦労様です。大変ですね。他の貴婦人達に怒られませんか?」


城門をくぐり、王家の敷地内にある、夜会が開かれる舞踏会館に向かう。


会館前の入り口では、今日の見合いパーティーに招かれたお嬢様方を乗せた馬車達が、長い行列を作っていた。


決して争わず、お行儀良く横付けされた馬車から従者に手を差しのべられて次々とお嬢様方が降りていく。


先に着いたお嬢様集団は、町同士の顔見知りが早速派閥を作って集まり、会館前に降り立つ他のライバル達を噂しては値踏みしていた。


ここにいるイコール控え室のない貴族達である。


そんな好奇な目線が無数に飛び交う中、フィランジェルは、全く人々の視線を物ともせず、従者に手を引かれて優雅に馬車を降りた。


貴族とはいえ王都育ちで、黙って着飾っていれば、その透明感ある不思議な銀色の髪が映える顔立ちをしており、麗しい気品さえある。


今日の主役になるかもしれない貴婦人達も、フィランジェルを公爵家と勝手に勘違いをして、羨望の眼差しを送った。


フィランジェルは、フィランジェルで、派手な所々で宝石の輝く舞踏会館に興味津々で、恥ずかしくない程度に見渡しながら会館の中に入り、全く周囲の視線は目に入ってなかった。


中に入ると会館のフロントがあり、色々な階級のお嬢様方や従者が溢れていた。


大きなボストンバックは、付き添いの従者によって、ベルボーイに預けられ、その荷物札を受けとると、フィランジェルは、にっこりと微笑んだ。


「ありがとう。助かったわ」


「いえ…当たり前の事をしただけです」


照れた従者は大変恐縮すると、更に小声でささやいた。


「お嬢様が誰よりも一番綺麗で、私は大変鼻が高い気分です!ありがとうございます!」


「まあ。お上手ね」


ばあやに教わった通りにフィランジェルは、ゆっくりと花が開くように微笑む。


間違っても、豪華な自分が映える服でそう見せてるのよ、とか、腕のいいメイクさんを雇った者勝ちよ、とか言っては駄目だ。


従者は喜びながら走り去っていった。


それを見送り、ふと横を見ると、司祭達がお嬢様方の受付をする為に壁際にずらりと並んで座っていた。


フィランジェルは、もしかしてと思い、少し全体を見渡すと、顔馴染みの司祭カルナートが、誰もわざわざ行かないような一番隅に一人だけいた。


新人はきっとそういうもので、何かしら大変なんだろうと、フィランジェルはカルナートの側に歩み拠った。


深いフードで俯いたままのカルナートに近付くと、フィランは、親しげに話しかけた。


「お仕事お疲れ様、カルナート」


司祭特有の精神統一っぽい感じを漂わせていたカルナートは、弾かれたように目を開け、目の前にいるのが正装したフィランジェルである事に更に驚き凝視した。


「…フィラン!?」


「ええ。こんな格好で会うのは初めてよね。いつもは道化師のズボンだから、なんか変な感じがするわ」


照れたようにフィランジェルが苦笑する。


カルナートは、しばらくぽかーんとしていたが、ハッとして怒りぎみに言葉を発した。


「見合いパーティーに参加するの?」


「…そうよ?」


いきなり不機嫌になったカルナートに対して、フィランはきょとんとする。


カルナートは、軽くため息をついた後、意地の悪い笑みを浮かべた。


「やっぱり女の子は玉の輿がいいんだね?」


その態度にフィランジェルがムッとする。


「玉の輿なんか興味ないわよ?招待状がきたら普通断れないでしょ?どちらかと言うと、招待状なんか来て迷惑だわ。こんなにたくさんの女性を集めて、見合いだなんて、王族って、本当に何考えてるかわからないわよね。乙女心を弄んで楽しいのかしら」


ずっと不満に思ってた事を思わずフィランが口に出すと、カルナートが苦笑した。


「…そうだね」


「あ、ごめんなさい。王族に仕えてる司祭様にいう事じゃないわね。今のは内緒にしてね」


困ったようにフィランがカルナートを見つめる。


「大丈夫。フィランの言葉は誰にも言わないよ。僕だけのものだから」


そう言って約束してくれたカルナートは、すごく優しい目をしており、僕だけのものという言葉に、少しフィランジェルはドキリとした。


その一瞬でフィランジェルが自分を意識した事に気が付いたカルナートは、更に、瞬時に帳簿を置いている机に手をついて身を乗りだし、フィランジェルの耳元でささやいた。


「フィランジェルの全部を僕だけのものにしていい?」


全部を僕だけのもの…全部と言えば、全部の事…!?


その事実に気が付いたフィランジェルは、顔を真っ赤にして30センチほど飛び退いた。


「か、からかわないで!」


必死にフィランジェルはカルナートを睨んでみたが、そう言われて嫌ではない自分がいて迫力など出なかった。


もっとも、クスッと微笑んで、自分の動揺を楽しんでいるカルナートには全く効果はないようだったが。


普段のカルナートは、司祭の服を着ていて、髪の毛も深いフードの白い布で被われ、顔を上げなければ目元も良く見えない。


しかし、今はしっかり顔を正面に向けており、顔立ちが分かるのだが、かなり美形だった。


こう言っては失礼なのだろうが、司祭にはもったいないというか…舞台俳優で言えば王子が似合いそうな、年の割りに落ち着いた余裕があり、自信に満ち溢れている。


そして何より、瞳の色が鮮やかな濃い空色をしていて、惹き込まれそうになる…。


明るい陽の下で今日初めてカルナートを見たフィランジェルは、その瞳の綺麗さに気が付き、怒りを忘れてまじまじと見つめた。


穴が開きそうなぐらいの目線の力と無言で見られ続けても、カルナートは、全く動揺しておらず、両手を机の上に置いて、フィランジェルの視線を優しく受け止めてくれた。


「フィラン、どうかした?」


そうカルナートに尋ねられたのとほぼ同時に、フィランの肩に後ろから誰かがぶつかり、フィランは初めて周りの状況が目に入った。


まず自分にぶつかったのは前髪と一部の横髪だけが銀色で、後は黒髪なのだが、綺麗に結い上げて豪勢な髪飾りで目立たない様にしている、結構有名な公爵家の娘だった。


彼女は、あきらかにフィランジェルにわざとぶつかったようで謝りもせずに、真っ直ぐカルナートに歩み寄ると、スッと美しい肌に豪華な装飾品をまとわせた手を差し出した。


「私を控え室迄案内して下さる?」


従者付きだというのに、あえてカルナートに手を引かせようとする。


その理由がフィランジェルには一瞬わからなかったのだが、周囲のお嬢様方を見て納得した。


会場全体に集まっているのは、皆年頃のお譲様ばかり。


なので無理はないのだが、皆、カルナートの端正な美貌に心を奪われたようで、お友達同士心底嬉しそうにカルナートを見つめている。


中には露骨に指差して興味深そうに話している者もいる。


身分から来る自信なのか、その公爵の娘が周囲への当て付けにカルナートに声をかけたのか、それともカルナートの美貌に当てられたのか…そんなところだろう。


カルナートがどう行動に出るのか、集まった少女達は興味津々な様子だった。


もちろんフィランもだったが、自分だけではなくて周囲のお嬢様方もカルナートをそういう目で見ていたのかと思うと、悔しいような、残念なような気がした。


あの優しい眼差しは自分だけに向けて欲しい。


しかし、きっと公爵家の娘にも同じように接するのだろう。


だからといって、いきなり横に押しやられた仕返しとばかりに公爵家の者を押し退けるのは礼儀に反する事である。


カルナートの前で、片方は自信満々に手を差し伸べ、片方はうつむくという光景が、周囲の目にさらされた。


注目の的のカルナートは、全く平然としており、公爵家の娘に話しかけられたというのに、無表情で無言だった。


緊張している風でもなく、数分そのままの状態で、公爵家の娘が少し怪訝そうにした時、カルナートは、口を開いた。


しかしそれは、フィランジェルに向かって、優しげな様子で、である。


「どうしたの、フィラン?うつ向いてないで可愛らしい顔を見せて?」


思いもかけないカルナートの優しい声に、フィランはドキッとして、驚いて顔をあげた。


正面には自分に向かって微笑むカルナート、隣には行き場をなくした手を前にして硬直する公爵家の娘。


カルナートは、全く公爵家の娘を無視…いや、無いものとして、眼中にもないようだった。


正直いってフィランジェルは、自分を選んでくれてものすごく嬉しかった。


しかし、この隣と前の間の不穏な空気を感じ、とりあえず曖昧な笑みを無理矢理押し上げた。


「ほ…褒められて、光栄ですわ」


野次馬のお嬢様方が思わぬ展開に好奇心旺盛にざわめく。


しかし、バシッという音がして、場は一気に静まり返った。


公爵家の娘が、怒りに任せてカルナートの頬を叩いたのだ。


呆気に取られるフィランジェルの隣をすれ違って、彼女は従者を連れて足早に去った。


すれ違いざまに、フィランジェルに囁いて。


「せいぜい司祭を誘惑しておきなさい。粗末な身なりの貴族にはお似合いよ」


その言動は、フィランジェルにとって悔しく、悲しいものだった。


自分自身が馬鹿にされたからではない。


ばあやも、従者も、皆で一生懸命着飾ってくれて、今日の夜会に送り出してくれたのだ。


そんな暖かい思いを踏みにじられた気持ちが胸にいっぱいに広がり…。


自然に一筋の涙が頬に流れた。


野次馬のお嬢様方も気まずくなったのか、皆何事もなかったように会場に向かって去っていく。


そのまま感情の渦に流されそうになったフィランジェルだったが、叩かれた顔をゆっくりあげたカルナートの表情を見て、思わず思考が止まった。


一言でいうなら、冷徹。


恐ろしい程冷めた目に、思わず後退りしそうな怒りを圧し殺した気迫をまとっていた。


叩かれた事がそれほどムカついたのか。


しかし、冷たい声でカルナートが言った言葉に、フィランジェルは勘違いだったと知った。


「今…フィラン、何て言われたの?もの凄く侮辱されてなかった?」


「大丈夫よ!」


フィランジェルは、歯切れよく即答して、カルナートの司祭着を両手で掴んだ。


カルナートがこのままだと公爵の娘を追いかけて、制裁を与えそうな、そんな恐ろしい予感がしたのだ。


お互いの顔が間近に迫り、フィランジェルは、しっかりとカルナートの目を見つめる。


「落ち着いてカルナート。私は、大丈夫よ」


「大丈夫なわけないよ。泣いてたじゃない」


「…もういいのよ」


「ほら、また泣きそうじゃない」


図星をさされてフィランジェルは二の句が告げなくなった。


本当に泣きそうになってきたが、そこをぐっとこらえて何か言わなくてはならないとフィランジェルは焦った。


焦りながらも、フィランジェルはふと気が付いた。


自分の事を心配して怒ってくれているなら、自分自身がおろおろしているからカルナートが落ち着かないのではないかと。


フィランジェルは、一つ息をはくと、しっかりと立って腰に手をあてた。


「カルナート!私だけを見なさい!」


すると、案の定、カルナートはきょとんとフィランジェルを見た。


それにホッとしてフィランは微笑みかける。


「落ち着いてくれたかしら?」


カルナートは、じっとフィランジェルを見つめた後、苦笑ぎみに微笑んだ。


「ごめんね、フィラン。驚かせちゃったね」


「そうね。驚いたわ。…叩かれた頬は大丈夫?」


「全然大丈夫だよ。優しいね、フィランは」


再びカルナートは、優しくフィランジェルに微笑んでくれて、フィランジェルは、カルナートの方が優しいのにと、クスッと笑った。


そろそろ夜会の始まる時間になり、フィランジェルはカルナートに別れを告げた。


「カルナート、そろそろ行くわ。司祭のお仕事頑張ってね」


「そうだね、頑張るよ。フィランこそ浮気しないでよ?」


「…しないわ」


一瞬返事に迷ったフィランジェルは、そう言いながら、笑ってその場を去った。


こういうやり取りは、フィランジェルにとって初めての事だった。


~夜会~

会場内は、普段舞踏会に使われているだけあって、広々としており、凝ったデザインの丸テーブルと椅子が会場全体に並べられていた。


五人ずつ座れるようになっており、仲良い者同士が席を埋め、フィランジェルは開いている席がないかと、見渡した。


すると、まだ一人しか埋まってないところがあり、フィランジェルは、ほっとしてそのテーブルに向かった。


後から会場に来るだろう者達の為に、フィランジェルは座っている人の隣につめておこうと、うつ向いて一人でいる少女に話しかけた。


「こんにちは。お隣りよろしいかしら?」


信じられないという風に驚いて顔をあげた彼女は、儚そうな感じの、まだあどけなさが残る少女だった。


恐らく、このパーティーに出席出来る年齢の16才だろう。


迷っているような微妙な表情に、フィランジェルは小首を少し傾ける。


「誰か来られるのかしら?」


「い、いいえ!誰も来ませんわ!どうぞお座りになって」


慌てて少女が席をすすめて来た。


心底嬉しそうに微笑んでフィランジェルの事を見つめている。


「ありがとう」


とても歓迎されている様子に、フィランジェルも楽しくおしゃべり出来そうな予感に嬉しくなって、同じように微笑み返した。


「私は、フィランジェルといいます。貴方は?」


「私は…、フィンゼルです」


頬を赤くして、恥ずかしそうな、嬉しそうな表情で少女は名乗った。


「先程は、なぜ私が話しかけた時に驚いてらしたの?」


疑問に思った事を早速問いかけながらも、内心フィランジェルも顔には出さないが、そのフィンゼルの容姿に驚いていた。


その少女、一目で公爵家とわかる髪色、つまりは黒銀の美しい髪をしており、雰囲気自体が気品に溢れている。


そして、その上、かなり可愛らしいのだ。


花で例えると、木蓮の蕾のような感じで、成人すれば、かなりの美人になるに違いなかった。


今まで色々なお嬢様を見てきたが、ここまで愛らしいという言葉が合う少女は見た事がなく、かなり驚いたが失礼にあたる気がして、笑顔で誤魔化した。


そんなフィランジェルの心中もしらず、少女は問いかけに、えっ、と驚いた後、困ったような、哀しいような複雑な微笑みを浮かべて、しどろもどろに答えた。


「私、このような公の夜会は、最近16才になったので、初めてなのです。大勢の方に会うのも初めてで…同じ年頃の方とお話し出来る機会等普段にはなく、とても楽しみにしておりました。でも…」


言葉を濁したフィンゼルは、最初にフィランジェルが見た時のように俯いた。


フィランジェルは、フィンゼルから理由を聞いて、呆れた。


なんと、皆、席があいているこのテーブルに来ても、フィンゼルを見て、もの凄い嫌そうな顔をして去って行ったのだ。


中には、帰ればいいのに、とまで言われたらしい。


まったく、いくら見合いパーティーだからといって、自分より可愛いすぎるフィンゼルを目の敵にしすぎである。


しかし、なぜそんな態度を取られたのか、全く気がついてないフィンゼルに、フィランジェルは、しっかりと説明してあげた。


「この夜会の主旨はご存知かしら?」


「はい。王家の方とのお見合いだと、聞いてます」


生真面目そうにフィンゼルが答える。


「そうね。だから皆、王家の方と知り合いになりたいから、フィンゼル様みたいな可愛らしい方の側にいたら存在が霞んでしまうから、皆貴方を避けるのよ?」


「そんな事…!私よりフィランジェル様の方がとてもお綺麗で美しいのに」


首を激しく横に降って、フィンゼルは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに否定する。


「まあ!お世辞でも嬉しいわ。ありがとう」


「本当です!とても落ち着いていて、魅力的だと思います」


ニッコリとフィランジェルが微笑み、ますますフィンゼルは顔を赤くした。


二人が褒め合っている間も、どんどん周囲はお嬢様方で埋まっていく。


満席なのに、見事にこのテーブルだけは埋まらなかった。


クスッとフィランジェルがいたずらっぽく笑う。


「このテーブルに運ばれてきたお料理は、二人で山分け出来そうね。それに、変な気を使わなくてすみそうよ。フィンゼル様と、楽しく過ごせそうだわ」


「はい!フィランジェル様。これがお見合いとか忘れそうですわ」


瞳を輝かせてフィンゼルが笑い、少し拗ねたように首を傾げた。


「王家の方に私が嫁げるとは思いませんし」


「あら、何故そう思うの?」


「私のようなまだまだ子供が選ばれるはずありませんわ」


フィンゼルはそう決めつけていたが、フィランジェルはそうは思わなかった。


家柄は公爵家で、見るからに健康そう、そして何よりも気品があり、可愛らしい。


まあ、当人同士の問題だし、フィランジェルは、フフッと笑って誤魔化した。


テーブルには、とても豪華な食事とデザート、飲み物が、これもまた緻密なデザインの食器とともにセッティングされていった。


これには、普段贅沢三昧のお嬢様方も皆色めき立つ程だった。


あちらこちらで楽し気な声が聞こえる。


すべての準備が整い、メイド達も定位置に並ぶ。


いよいよ、王家の王子二人の登場である。


オーケストラの楽団が、先程からの静かなメロディーを一旦止め、それと共に室内のざわめきもなくなった。


皆が、王子達が入室してくる扉を注目する。


フィランジェル達のテーブルからその扉はかなり遠く、王子達がテーブル毎に食事をしているお嬢様と会話する仕組みだったが、果たしてここまで来るのだろうか。


壮大なファンファーレと共に、二人の王子が臣下によって開けられた扉から入室してきた。


遠目でもわかる、白銀の輝きを放つ二人の王子。


実際には髪の色が白銀で照明に反射しているだけなのだろうが、やはり、王族のカリスマ的オーラに包まれているのと、魔力の多さでそう見えるのだろう。


フィランジェルの位置からは遠すぎて流石に顔等は確認出来ないが、背は高く、スラリとしており、物腰も優美な感じがした。


噂では、兄の方は術の技術に優れ、弟の方は知識豊富な術士と聞いていた。


残念ながら名前は非公開だったが。


流石に洗練されたお嬢様方は、甲高い歓声は上げたりはしないよう教育されているようで、息を飲んで何かを期待している雰囲気が伝わってくる。


二人の王子は、従者の持って来た椅子に座り、一番端のテーブル席を陣取ったお嬢様方と話を始めたみたいだった。


皆チラチラと自分の順番が来るまで大人しく座って待つ気みたいで、オーケストラ楽団の奏でる音楽に消されるほどの話し声しかしない。


「私、緊張しますわ」


頬を紅潮させてフィンゼルがそわそわとしている。


「そうね。緊張はしないけれど、興味はあるわ」


普段は強固な結界の奥深い城で住む王族が目の前で見れるのだから、興味がわかない方がおかしい。


「でも、順番はまだまだみたいよ?くつろいでましょう?」


優しくフィランジェルが言うと、フィンゼルは、素直に頷き、飲み物を手に取ろうとし、不自然にその動きを止めた。


「どうかなさったの?」


怪訝そうにフィランジェルが尋ねる中、フィンゼルは、この会場の中央辺りの上を、ゆっくりと振り返って見た後、ビクッと体を震わせ、勢い良く再び正面を向いた。


そのフィンゼルの顔色は、恐怖に怯え、真っ青でやや放心状態だった。


眉間にしわを寄せて、フィランジェルがそっと彼女に囁く。


「ご気分でも悪くなったの?大丈夫?人を呼びましょうか?」


激しくフィンゼルは首を横に振った。


「駄目です…。どうしましょう…!」


何故か激しく動揺しているフィンゼルを落ち着かせる為に、フィランジェルは、机に置かれた彼女の手に自分の手をそっと重ねた。


「フィンゼル様?落ち着いて。何をそんなに怯えているの?理由を教えて」


凛とした彼女独特の揺るぎない言葉と態度、真剣な厳しい眼差しに、フィンゼルは、少し自分を取り戻した。


「…ごめんなさい、フィランジェル様。私…そうなんです。いつも自分の力で動揺してしまって。力にのまれては駄目だと怒られてばかりで…」


弱音をはいてしまった瞬間、フィンゼルは、続きを促すフィランジェルに対して失礼にあたると気が付いた。


「ごめんなさい。ちゃんと説明しますわ」


ゆっくりと深呼吸して、フィンゼルは、姿勢を正した。


「私の黒銀の髪の毛でおわかりになると思いますが、銀の力、いわゆる神の血筋ゆえの力が私にもあります」


心得たようにフィランジェルが頷く。


公爵家でも、力の受け継ぎは様々だが、フィンゼルにはかなり濃く現れていると見える。


フィンゼルは、誰も周りが聞いてないし、聞こえないのがわかっててもなお、声を潜めた。


「私の能力は、人に見えないものが見えるという能力です。一般的に人のオーラが見える人は結構いますが、それも日常ですし、もちろん精霊、妖精、幽霊、すべて見えるし、話せます。でも、普段は、自分に術をかけて見えないようにしています」


一気に説明を終えたフィンゼルは、一息つくと、フィランジェルに、さらに小声で何かから隠れるように囁いた。


「全くだから見えないはずなのです!でも、見えるのです!黒いローブを着た、血のような赤い邪悪なオーラを放つ者が!」


思わずフィランジェルが周囲を見渡そうとすると、慌ててフィンゼルが制した。


「駄目です!こちらから見えていると知られると必ず攻撃してくると思います。私が先程振り返った中央上にいます。見なくても私にはわかります。私が見えなくしているのに見える、それは多分私より能力が上という事ですわ。それほどに邪悪な…多分透けていたので、生身の人間ではないと思います」


「まあ…!それは、少し怖いわね。見るなと言われても見えないと思うけど、とても気になるわ。私にも見えればいいのだけれど」


机に頬杖をついて、フィランジェルが困ったように首を傾げる。


一瞬迷った感じのフィンゼルが、意を決したように言葉を発した。


「私の術で、一時的に能力を共有…つまり見えるように出来ますわ…今はその黒いフードの者だけを…どうしますか?」


思いもかけない言葉に、流石に即答出来なかったフィランジェルは、少しだけ考えた後、背筋を伸ばしてから、フィンゼルに向かって不敵な微笑みを浮かべた。


「いいわ。やってみて下さるかしら?」


この時フィランジェルは、自分と魔力と術に気を引き締めたのだが、フィンゼルにもそれがわかった。


普通の魔力の持ち主ではない。


普段は、かなり自分を封じ込めているのだと。


そんな風にいつも気をつかって生活しているフィランジェルが心配になりながらも、触れてはいけないような気もして、あえてその事には触れず、フィンゼルは、そっと呪文をフィランジェルに唱えた。


術が施された瞬間、風もないのに吹き付ける嫌な気分がする邪悪なオーラを背後から感じた。


そろりと何気なさを装おって背後を少しだけ見ると、確かにそこに、それはいた。


フィンゼルが言った容姿そのもので、遠目ではあるが、目元まで深く黒いローブのフードを被った、多分男…が、赤黒いオーラを発して宙に浮いていた。


それは透けており、幻影のように揺らめいていた。


「…いるわね」


フィランジェルが囁くと、フィンゼルが、必死に頷く。


「いますでしょう?怖いですわ。とても」


「…得体が知れないわよね」


不気味ではあったがフィランジェルは震える事はなかった。


ただあれが何なのかが、無性に気になった。


こちらに近付いてきたらすぐに撃退しなければ、と構える。


そんな感じで、二人はチラチラと様子を伺っていたが、傍目からは、皆と同じように王子を気にして見ているように装った。


王子達二人の護衛には、王家に代々仕えし、優れた剣士と術師が二人組になり、それが五組王子が見える壁際に配置され、警戒体制をとっていた。


残念な事に、誰一人としてその不気味な黒いローブの存在には気が付いていなかったが。


この事実にフィランジェルは、少しイライラしていた。


護衛のくせに気が付かないなんて失格だわ。


もし、王子に何かあったらどうするのかと、フィランジェルは心の奥から心配になってきた。


今この空間は、お嬢様方が恋に花や蝶を飛ばしているとても、優雅で気品に満ち足りた、お洒落な雰囲気が充満しているのである。


もしもの時は、フィランジェルが飛び出していかなくてはならないのだろうか。

なんとなくだが、フィランジェルには勝てる自信があった。


長年の経験で力量は見て計る事が出来る為に、怖くはない。


問題は、こんな麗しのお嬢様方の前で目立ちたくないのだ。


普通でいたいと、フィランジェルは心より願った。


しかし、フィランジェルの願いも虚しく、その瞬間は目の錯覚かと思える程の速さで訪れた。


黒いローブの異端者は、いきなり王家の剣士の後ろに移動したかと思うと、ぶれたように剣士と重なりあった。


そして、剣士がいきなり剣を振り上げ、隣の術師の首を切り落とした。


フィランジェルは、不気味な影が剣士と重なった瞬間、椅子から立ち上がり、術による移動で素早く王子達のいるテーブルの側に向かって走り出していた。


術師の首が落とされ、周囲が悲鳴をあげる前に、間に合わなかった事を悔やみながら叫ぶ。


「護衛達!早く王子を護りなさい!あなた達、反応が遅いわ!」


一拍おいてすべての時間が動き出したように感じられた。


悲鳴をあげて逃げ出すか、倒れるお嬢様達、王子に駆け寄る護衛、狼狽える従者とメイド。


操られた剣士は白目を向いており、フィランジェルがすぐ側まで走り込んだ時、奇声をあげながら、王子に向かって剣を振り上げた所だった。


フィランジェルは、その邪悪な幻影に攻撃を仕掛けるべく身構えた横で、王子のうち一人が、いきなり国家の術師に変身した。


「下がって下さい!第二王子!」


その術師が、間近でみたらかなり生真面そうな秀才タイプの美形王子を庇い、狂った剣士を術で壁まで弾き飛ばした。


二人の王子が参加していると思っていたが、一人は王子に扮装した術師だったようだ。


フィランジェルは横目でそれを確認しながら、黒いローブの影を風術の力で切り裂いた。


剣士自体には一切の傷もつけす、フィランジェルの攻撃は見事に通じ、黒い影を切り裂いた。


赤黒いオーラと共に、一切の音もなく、それはあっけなく霧散して消えた。


壁に叩き付けられた剣士は、低い唸り声と共に正気付いたが、今まさに術師により運ばれようとする首のない死体を見て発狂したように叫び出した。


「魔の森の攻撃だ!俺に今何かが憑依した!俺じゃない!俺は殺していない!やっぱり国は滅ぶんだ!」


「おい!やめろ!」


慌てた様子の他の剣士が引きずるように発狂した剣士を黙らせながら連れ去る。


国が滅ぶ?


ただ事ではない言葉が聞こえていたのは、フィランジェルだけだったようで、周囲は阿鼻叫喚のお嬢様と、従者が入り乱れて物凄い喧騒にかき消されていた。


発狂した剣士に気を取られている間に、いつの間にか王子も護衛もこの場を去っていた。


フィランジェルは、この騒ぎの中で、フィンゼルの事が気になって、自分がさっきまで座っていたテーブル付近を振り返った。


そこにはフィンゼルの姿はなかった。


この騒ぎなのだから、きっと従者が控え室から迎えに来て連れ帰ったに違いない。


ほっとしたような、寂しいような、複雑な心境だった。


血糊を清掃する作業が始まり、飛び散っている血を改めて目の当たりにしたフィランジェルは、少し気分が悪くなってきた。


あまり思い出したくないが、人間の首が切られた瞬間が脳裏に焼き付いて離れない。


今頃になって少し滅入ってきた。


大きく息をはいて、外で待ってくれている従者の所に戻ろうと、フィランジェルは船酔いのような気分の悪さを感じながら歩き出した。


「フィラン!」


雑踏の中から、名を呼ばれ、いつものフィランジェルには考えられない精彩に欠けた顔を上げた。


人ごみをかき分けて、司祭服をなびかせたカルナートが必死になって駆け寄って来る。


「やっと見つけた!フィラン!」


目が合った瞬間、カルナートはいきなりフィランジェルを抱き締めた。


突然の事にフィランジェルがその場でよろめく。


慌ててカルナートがフィランジェルを支えた。


フィランジェルは一瞬全体重を預ける形となり、力が抜けた様になるが、足を踏ん張って体制をたて直した。


「フィラン、大丈夫!?」


「…大丈夫よ。突然抱き付いて来るから驚いただけ」


気分が優れないフィランが小声で答えると、カルナートが膝を曲げてフィランジェルの顔をのぞき込んだ。


「倒れそうな顔色してるよ?」


「倒れないわよ」


フィランジェルは失笑した。


あちらこちらで倒れたお嬢様達が介抱されており、あんな風に倒れる事が出来れば楽だろうと思いながらも、フィランジェルの自制心がそうさせなかった。


「じゃあ、僕が倒してあげるよ」


そう言うが早いか、カルナートが素早くフィランジェルを抱き上げた。


いわゆるお姫様抱っこである。


「無理したら駄目だよ、フィラン」


「え!?ちょっと、カルナート!」


瞬時に型にはまってしまい、フィランジェルは暴れるがあまり力がでない。


「フィラン、大人しくしないと公衆の面前でキスしちゃうよ」


「え!?」


二人の顔の位置は確かに近く、フィランジェルはしぶしぶ大人しくなったが最後にぼそりと呟いた。


「突然、ずるいわ…」


「え?キスしたいって?」


「誰もそんな事言ってないわよ!」


ツンッとフィランジェルは出来うる限り顔を反らした。


「フィランって本当に可愛いね」


あははと、カルナートが笑う。


「もう!何が可笑しいのよ」


拗ねたフィランジェルの顔は少し赤みが戻り、カルナートは心底安堵していた。


心配したカルナートが、夜会会場の外迄フィランジェルを運び、風の心地よい木の側のベンチに座らせた。


途中、知り合いの司祭にフィランジェルの馬車を呼びにいくよう言ってくれて、星の綺麗な夜空を眺めて、フィランジェルはゆったりと迎えが来るのを待っていた。


「司祭の仕事に戻らなくていいの?」


外の空気を吸って、幾分か顔色も良くなってきたフィランジェルが心配そうに問うと、カルナートは優しく微笑んだ。


「華奢な女の子を送り届けるのも仕事だよ」


「…華奢?」


フィランジェルが思わず反復して考え込む。


あの不気味な黒い影を術で切り裂く女性は、そんな分類に当てはまるのだろうか?


「全然華奢じゃないわよ?」


真剣な顔でフィランジェルがカルナートを見上げると、呆れたようにカルナートが苦笑する。


「…フィラン。僕よりは、はるかに華奢だよ」


「そうかしら?まあ、腕力では勝てないわよね」


無理やりフィランジェルは自分を納得させる。


「ところでフィラン。今日の花火は、僕が代わりにあげてくれる人を頼んでおいたからね」


ニッコリとカルナートに言われて、フィランジェルは、直ぐ様抗議の声を上げた。


「何ですって!私があげるのに勝手な事しないで!」


心得たようにカルナートが首をすくめる。


「そう言うと思ったからだよ。今日はゆっくり家で休みなよ?」


「嫌よ!」


フィランジェルは即答してカルナートを睨んだ。


一度帰っていつものように抜け出す気だったのだ。


「フィランの事だから、僕が止めても、教会にきちゃうんだろうね」


当たり前だと言う風にフィランジェルが睨んだまま無言でいると、ふいにカルナートが真顔になった。


何も見えないはずなのに、フィランジェルは、何か畏怖のようなものを感じて、カルナートから咄嗟に体を離そうとした。


しかし、カルナートの方が速く、がっしりと自分の腕の中にフィランジェルを抱き締めた。


「カルナート…!」


驚いて振りほどこうとしたフィランジェルの耳元で、カルナートが心地よい優しい声で何かの呪文を唱えた。


途端にフィランジェルは眠気に襲われる。


「カルナート…あなた…呪文…?」


「そうだよ。おやすみ、フィラン。いい夢を。ちゃんと送ってあげるから安心して」


安心…?


フィランジェルは激しい眠気の中でカルナートの包容力のある腕の中で、そのまま眠りに落ちた。


いつもならこんな呪文ぐらいフィランジェルなら跳ね返せる。


父親に用意された見合いの席でこういう手を使ってきた男は何人もいたのをすべてやり過ごしてきたから、よくわかっていた。


わかっていたが…。


疲れていたのか安心していたのか、フィランジェルは不安も苦痛もないまま、深い眠りに落ちていった。


考えなければならない事が山程あるはずなのだが、この時のフィランジェルは、確かに幸せを感じていたのだった。


~滅びの予兆~


翌朝のフィランジェルの目覚めはすこぶる快調だった。


ゆっくり安眠し、いつものように乳母がカーテンを開ける音で目が覚める。


身体も軽く、なんだかほんわかして気分もいい。


かすかにカルナートの魔力が感じられたので、司祭が得意とする回復術をかけてくれていたのだろう。

「おはよう、ばあや」


フィランジェルがいつものように朝の挨拶をすると、乳母が驚いたように振り返り、ベッドまで駆け寄って来た。


「お嬢様!大丈夫ですか?昨夜は大変でございましたね!お身体は大丈夫でございますか!?」


涙まで滲ませて必死にフィランジェルの顔を覗き込んでくる乳母に、フィランジェルは優しく微笑む。


「大丈夫よ、ばあや」


心底ホッとした乳母は、大きく頷く。


「ようございました。お父様も昨夜司祭に運ばれてお帰りになったお嬢様を見て大変心配なさってたと、夜勤の者から聞きました。ばあやもお嬢様が心配で心配で」


「大袈裟よ、ばあや」


フィランジェルが苦笑する。


「大袈裟ではありませんよ!昨日の夜会での事は街中で大騒ぎになってます!また魔の森の攻撃が始まったのだとか…。本当にお嬢様が御無事でようございました」


「そ…そうね」


曖昧にフィランジェルは笑う。


それを倒した張本人だとかとても言えない。


言えばばあやが卒倒するわ、と固く口を閉ざした。


それにしても、昨日のあれは、魔の森の攻撃なのだろうか。


魔の森とは、この国の奥深い所に位置する、暗い樹海の事である。


そこにはこの国に溢れる司祭等の聖なる力と全く逆の魔の濃い力が密集していると言われている。


推測なのは、そこに入ったら最後、魔の化身の獰猛な魔物に喰われて、誰も帰ってこないとされているからだ。


「お熱はないようですね」


余りにもフィランジェルが難しい顔をして押し黙っているので、具合が悪いのかと勘違いしたようだった。


「大丈夫よ、ばあや。それより、朝食の用意をして下さる?」


「さようでございますね!すぐに持って参ります」


慌てて乳母が退室しようとして、そういえば、と振り返った。


「街ではいきなり、喧嘩や泥棒が増えたみたいで、お父様がしばらく外出禁止と言ってましたよ」


「まあ…。そうなの?わかったわ」


フィランジェルは、大袈裟に驚き、神妙に頷いた。


もちろん乳母に心配かけない為の演技だったが。


昨日は自分の甘さで花火を代わってもらってしまったのだから、今日の夜は、絶対に行かなければ、と、気合いも入る。


街の騒ぎも、何かしら関係あるのかもしれないが、自分がどうこう出来るわけではない。


ただ素晴らしい花火をあげて人々の心が和むといいわね、とフィランジェルなりに考えてはいたが。


夜も更けてきて、フィランジェルは何時もより早く道化師の服に着替えた。


教会の屋上でよくカルナートが待っててくれるので、昨日のお礼も言いたいし…と、会いたいとか思う自分が恥ずかしく、なんとなく自分に言い訳する。


ヒラリと、風術を身にまといながら、フィランジェルは三階の自室から飛び降りた。


人の家の屋根伝いに行けるのだが、フィランジェルは、街中を歩いて行くのが好きだった。


いつもは、教会の広場まで続く屋台の道は、街中でも続いている。


しかし、今日はいつもの場所にいつもの屋台がない所が多く、閑散としていた。


やはりあの噂が人々の心を縮こまらせているのだろう。


照明が少ない為だろうか。


慣れている道のりが暗く、少し不気味に思えてきた。

少し足早になりながら明かりを目指す。


やたらと長く感じる道のりと、重い自分の足に耐えられなくなり、フィランジェルは風の術を使って、一気に家の屋根に跳躍した。


その途端に広がる夜の闇と、不気味な風の音。


今までこんなに暗かっただろうか?


星がなく、どんよりとした雲が浮かび、ますます不安が心をしめる。


ふと教会の方を見ると、いつもの照明が、暖炉の火のように明るく輝いていた。


ほっとして、とても懐かしいような泣きたい気分になりながら、フィランジェルは教会へと風の跳躍を使って跳び、急いだ。


いつものように教会の屋上に軽やかに降りたとうとしながら、カルナートを探すがまだ来ていないようだった。


近くまで来て気が付いたが、ここは、空気までが違っているように感じられる。


暖かく、明るく、呼吸もしやすい。


昨日までは国中がこうだったはずだ。


フィランジェルが上空から下を見下ろすと、いつもの風景がそこにはあった。


活気のある市場に、必死にもり立てる商人や、はしゃぐ子供達。


何もここだけは代わっておらず、フィランジェルは少し心が癒された。


ふと屋上を見ると、いつの間にか来たカルナートが、長くて白い司祭服をゆるやかな風になびかせて、フィランジェルに向かって優しい笑顔を浮かべて手を振っていた。


思わずフィランジェルも笑顔で振り替えし、ストン、とカルナートの前に着地した。


「こんばんは、カルナート。昨日はありがとう」


「どういたしまして。もう大丈夫?」


「もちろん、大丈夫よ」


余裕の笑みをフィランジェルが浮かべると、カルナートは、良かったと笑った。


フィランジェルが早速花火の準備を始めようとすると、カルナートが慌てたように彼女を呼び止めた。


「フィラン、実は話したい事があるんだ。いいかな?」


「え?」


不思議そうにフィランジェルが彼に向き直ると、今まで見た事がないほどカルナートは真剣な表情をしていた。


「…カルナート?」


それは甘いイメージとは程遠い、どちらかと言うと不安を覚える真剣さで、先ほどまで占めていた、国の嫌な空気を思い出させるものだった。


そんなフィランジェルの不安を察しつつも、カルナートが何か言おうとした瞬間、弾かれたような凄い勢いで天を降り仰いだ。


その表情はみるみる青ざめていき、何事かとフィランジェルも空を見たが、相変わらずどんよりとしていたが普通の空だった。


どうしたの、と言おうとして、いきなり身体中を寒気が一気に駆け抜けてフィランジェルは口を閉ざした。


そして、不快な裂けるような音が空から聞こえて来て、一瞬で心を占めた恐怖と共に、空を凝視する。


「フィラン!!」


同時に絶叫したカルナートが力任せにフィランジェルを固い屋上の床に押し倒すようにして自分の身体で彼女を隠した。


その音は世界に張られた神の結界術が引き裂かれるものだった。


外界からの歪みと爆風、そしてどす黒い煙のようなオーラが、割れ目から噴き出してくる。


術力の強い者ほどそれを感知し、衝撃も強かった。


フィランジェルも例外ではなく身体中に余波が襲って来た。


カルナートがますます強く抱き締めて彼女を防御し、フィランジェルは自分が悲鳴を上げたのかどうかもわからない程の苦しみに気が狂いそうだった。


耳も身体も、五感すべてが麻痺し、重力さえも狂うような感覚に苛まれる。


例え言うなら、まるで魂に亀裂が入るような、歪みだった。


「…フィラン、大丈夫?」


いつの間にか気を失っていたのか、心配そうなカルナートの声で、フィランジェルは意識を取り戻した。


目の前には相変わらず覆い被さっているカルナートがいて、ショック状態の為、半ば茫然としていたフィランジェルは、最初それと気が付かなかった。


爆風でフードが外れ、髪が乱れたカルナートがそこにいた。


髪の色は、白銀。


今まで見た事の無い程の、美しい白銀だった。


白銀の髪は王族の証。


目の前にいるのはだだの司祭のカルナートのはずだった。


しかし、そんな事は絶対にありえない。


フィランジェルは、吸い込まれるようにその髪の毛に手を伸ばし、そっと触れた。


「綺麗な白銀……」


カルナートは、自分の髪が隠せていない事にハッとした後、ゆっくりとフィランジェルを抱き起こした。


「隠しててごめんね、フィラン。今日言おうと思ってたんだよ。僕がこの国の第一王子だって…ね」


第一王子…。


確かに、この間夜会で見たあの第二王子よりも格段輝いていた。


フィランジェルがあっさりと術で眠らされたのもこれで納得がいく。


相手は、最も神に近い存在なのだから。


フィランジェルは、さすがにどう反応すればいいのか分からなかった。


カルナートが彼女を見つめる眼差しは優しい、慈しむもので、何も変わらなかった。


しかし、彼は王子で自分は貴族で、今更ながらに礼をとるなどという間柄ではなく…。


しかし、事態はそんなどうでもいい事で悩む暇はなかったのだ。


ここは屋上の為、国中とは言わなくても結構遠くまで見渡す事が出来る。


だから、フィランジェルにはそれがはっきりと見えた。


カルナートの背後、かなり距離にすれば遠い所だが、空から黒く禍々しい雷が夜空に赤黒く光り、一瞬で街に落ちた。


異変を感知したカルナートが咄嗟に屋上全体に結界を張る。


結界はあるがカルナートの背後に庇われつつ、フィランジェルは恐怖で目を閉じる事が出来ず一部始終を見ていた。


その黒い雷は、不気味な唸り声の様な振動をさせて街を呑み込んだ。


原理はわからない。


その闇に触れた地域全てが忽然と消失し、無残にえぐれた地面だけが不自然に残されていた。


信じられなかった。


信じたくなかった。


見慣れた街の一部が消えている。


人々の阿鼻叫喚の悲鳴、怒声、泣き声が下から聞こえてくる。


フィランジェルは恐ろしくて仕方がなく、体が震えて立っていられなくなった。


少し青ざめてはいたが、しっかりと現実を見据えていたカルナートが、慌ててフィランジェルを支えて、震えている彼女を抱き締めた。


「大丈夫。大丈夫だよ、フィラン。必ず守るから。教会には結界を張っておくから、中で待ってて」


優しい言葉にも頷く事も出来ず、フィランジェルはカルナートをただ見つめた。


心配そうに見つめ返したカルナートは、力強くフィランジェルを抱き締めると、踵を返して暗黒の空に向かっていった。


ほとんど本能の反射的にそれを目で追い、カルナートが向かっている先を見て、フィランジェルは愕然とした。


あの夜会で見た、不気味な影のフードを纏う者が、赤黒い禍々しさを全開に発しながら宙に浮かんでいた。


更に空間を歪めるような黒い玉が、上に上げられた手の上で渦巻いており、それが放たれた瞬間、黒い雷になり、街に落ちた。


また街が跡形もなく消える。


白銀のオーラを纏い、カルナートがそれに向かっていた。


フィランジェルは絶望を感じた。


あの化け物に勝てるはずがない。


声の限りにフィランジェルは叫んだ。


「カルナート!!駄目よ!逃げて!」


それが聞こえていたのかどうかわからないが、カルナートは振り返らず、真っ直ぐそれに向かった。


どうしよう…!


どうしたらいいの?


フィランジェルは、震えながらカルナートが暗雲に呑み込まれる所をただ見ていた。


絶対にこのままでは駄目だ。


何か、何かを考えなければ…!


助けを呼ぶ?


いや、神以上に強い者はいない。


じゃあ、誰を?


そこまで考えてフィランジェルは、ふと、それに気が付いた。


自分がいるではないか。


生まれてから今まで、本気で能力を全開して戦った事のない自分が。


いつも自分が不思議だった。


貴族なのに透明がかった銀色の髪の毛を持ち、有り余る力を抑えていた自分が。


今、この瞬間の為に私は生まれてきたのに違いない。


フィランジェルは、うつむき、震える自分を無理矢理抑え込んだ。


いつの間にかカルナートに甘えていた自分を叱咤する。


助けを待つのでは駄目だ。


自分の力で、この愛する国を、全てを守らなければ。


そして、フィランジェルは覚悟を決めて立ち上がった。


絶対に負けられない。


今、ここで、自分の持つ全ての力を解放する。


しかし、そんな事はものともせずに、フィランジェルは右手に左手を添えて掲げ、力を貯めた。


同じようにあの黒フードの化け物に雷を落とすつもりだった。


一撃で倒す事に全力を費やすべく、ひたすらフィランジェルは空を睨みながら力を貯めた。


暗黒の雲間から白銀の光りが見える。


戦況がどうなっているのか気になり、今すぐ駆け付けたいはやる心を抑える。


実質的には短時間なのだろうが、やたらと長く感じる時を使って、かなり力がたまった時、それは起こった。


白銀のオーラが一際力強く輝き、暗黒の雲が一部分だけ吹き飛ばされた。


途端に視界に入ったのは、思わず涙がこぼれそうなほど美しい白銀に輝くカルナートの後ろ姿だった。


そして、その目前には赤黒いオーラの塊を手にして、雷を落とす寸前の異形なるすべての元凶。


「カルナート!」


また街が消えるだろう恐怖と彼の危機にフィランジェルは叫びながら地を蹴った。


しかし、この距離では絶対に間に合わない。


容赦なく雷は放たれ、あれだけの威力だというのに、極至近距離でカルナートがその身にそれを受けた。


爆発的に白銀のオーラで輝いたカルナートは、その雷を斜め上に全身全霊で弾き飛ばしたが、弱まるオーラと共にぐらりとよろめいた。

思わず駆け寄って支えたい衝動にかられたが、フィランジェルは、目前の敵から目を放さなかった。


化け物が力を放った後のこの最大のチャンスを逃す訳にはいかない。


失敗は許されないという緊張感と不安、全解放した自分の術力の威力を抱え、フィランジェルはそれを白銀の雷とし、黒フードの化け物に振り落とした。


それは見事に命中し、確かに吹き飛ばした。


が、しかし、劇的な程ではなく、ましてや倒れてはいなかった。


普通であればそこで怯むであろう時、フィランジェルは違っていた。


ますます自分の内側が冷めて研ぎ澄まされていく。


周りの音が聞こえなくなる程に目前の化け物に集中する。


二撃目を放とうとした時、驚いた事にその黒フードが低い声を発した。


「お前のような者がこの世界にいたとはな」


その言葉の意味は計り知れず、フィランジェルは眉間にシワを寄せて無視し、二撃目をぶつけた。


しかし、明らかに攻撃をくらいながらも、そいつは確かにククッと笑った。


そして、黒フードの者はフィランジェルに手を差し伸べた。


「我が名はルヴァレス。我が物になれ」


「…は?何ですって?」


純粋に聞き間違えだろうと思い、フィランジェルが聞き返すと、明らかにムッとした雰囲気で黒フードの赤黒いオーラが不快に増した。


「我が名はルヴァレス。我が物になれと言っている」


フィランジェルは、驚くというより、呆れて絶句した。


この化け物…ルヴァレスは、街を土地を攻撃し、消滅させ、一体いきなり何を言い出すのか…。


その思考にもついていけない上に、いきなり不快な事を言われて、フィランジェルは怒りに震えた。


ルヴァレスは明らかに元来た道に後退していた。


一撃くらわせる事に少しずつ弱まる赤黒いオーラ。


フィランジェルは、間合いを詰めて必死に追い詰めた。


今ここでこの化け物を倒しておかなければ大変な事になる予感がある。


もうフィランジェルは無我夢中だった。


それなのに、いきなり背後から誰かが自分を羽交い締めにしたのだ。


最初、フィランジェルにはそれが誰かわからなかった。


というより、眼中になく、凄い力で前に行こうとするのを邪魔されて、必死になって暴れた。


「放して!放しなさい!逃げられるわ!」


しかし、どんなに抵抗しても実質的な腕力ではかなわず、自分の術力も効かない。


暫く抵抗した後、フィランジェルは、自分に爽やかな力が注がれている事に気が付いた。


その力は爽快なミントのようなイメージで、やがてそれは浄化の力だと思い当たった。


継いで、自分が神々しい白銀の光りで包まれているのが目に見え、すぐ耳元でカルナートの怒鳴り声が聞こえた。


「フィラン!駄目だよ!それ以上前に行けば国外だ!いくら君でも国の領域から出たら、術の力は弱まる!これはあいつの罠だ!」


罠…。


フィランジェルは、追わなければいけないという強迫観念にも似た思いにかられながらも、とりあえず抵抗を止めてその場に留まった。


「良かった、フィラン、大丈夫?」


カルナートが安堵して、優しく背後から抱き締め直す。


その白銀の浄化の力があまりにも心地良く、フィランジェルは荒んだ心が癒された。


サァーッと目の前に透明度の高い空気が流れたのをフィランジェルもカルナートも感じる。


神の結界が張り直されたのだ。


それは以前のより強固だった。


ルヴァレスという化け物には完全に見えなくなり、空も空気も浄化されつつあった。


見渡せば、国の術団体が辺りを飛び回って正常に戻そうとしていた。


あの黒フードによっていつの間にか外に誘い出されようとしていた自分から、浄化によって正気を取り戻したフィランジェルは、相変わらず背後から抱き締めているカルナートの手にそっと自分の手を重ねた。


「ありがとう、カルナート。もう大丈夫よ」


「良かった…。でも、僕は大丈夫じゃないよ」


「えっ…!?」


どこか怪我でもしたのかと案じてフィランジェルが振り返ろうとすると、カルナートはそれを許さなかった。


「ちょっと、カルナート?具合が分からないじゃないの」


「…いいんだよ。僕には僕の都合があるから」


「一体何なの?怪我してるなら、お医者様に見せないと。いいわ、このまま街に行きましょう」


大変歩きにくいが飛んでる分にはカルナートぐらい抱えられる。


「駄目だよ。フィランにしか治せないよ」


「無理よ。私回復術は苦手なの」


どうにかカルナートを引きずろうとすると、背後からカルナートがフィランジェルの首元にキスをしてきた。


「カ、カルナート!?」


途端にフィランジェルが顔を真っ赤にさせて止まる。

カルナートは、申し訳なさそうに告白した。


「…ごめん。あまりにも術を全開にして使うフィランジェルが綺麗すぎて…。今正面から君を見たら僕、君を多分襲っちゃう」


フィランジェルは、最大に照れて動揺した。


「そ、そんな事言われても、私どうしたらいいの?どうぞ、なんて言わないわよ!絶対言わないわよ!」


「…そんな、力一杯否定しないでよ」


カルナートがしゅんとして、腕の力が弱まった。


その隙をついてフィランジェルが少し離れて勢い良く前に向き直る。


「私を抱きたければ、私を妻にしなさい!でも貴方は王子、それなりの人でないと結婚出来ないはずよ!」


そこまで叫んで、フィランジェルは目の前の王子が、本当に綺麗で格好良くて、思わず抱きつきたくなってしまい、激しく首を降った。


「お願いだから、これ以上私をからかわないで!期待させないでよ!」


言ってしまってからフィランジェルは、ハッとした。


これでは告白しているようなものではないか。


案の定カルナートは心底嬉しそうな笑顔を浮かべて近付いて来た。


「期待していいよ!僕は、フィランの事しか考えられないから!」


フィランジェルは、真っ赤になって平手打ちでカルナートの事を殴った。


「馬鹿!私にだって心の準備がいるのよ!今日はもう帰るわ!ついて来ないでね!」


返事も聞かずにフィランジェルは凄い勢いで自宅に向かって飛んだ。


幸いな事に自分の屋敷の街には異常はなく、まだ日が明けてない為、人々も街が消えた等という異常にも気が付いていなかった。


というより、想像もつかなかったに違いない。


後ろを振り返ると、カルナートは希望通りついて来ておらず、フィランジェルはホッとした。


自分の部屋の窓から音をたてずに静かに入る。


今日も色々な事があって、パンクしそうだった。


実際、カルナートがいなかったらどうなっていたかわからない。


そのカルナートにもアプローチされて…。


考え出すと止まらないので、フィランジェルは、急いで寝着に着替えると、ふかふかのベッドに倒れ込んだ。


今はまだゆっくり眠れる幸せをかみしめながら。


~結婚~

「お嬢様!お嬢様ぁぁ!」


爆睡していたフィランジェルは、日もかなり高くなり、そろそろ昼御飯時という時に、血相を変えた乳母に叩き起こされた。


「…え?何、ばあや…?どうしたの…?」


こんなふうに起こされた事は今まで一度もなく、フィランジェルはぼーっとしながらも、目を開ける努力をした。


「もしかして街が消えた事で驚いているの…?それなら」


知っていると言おうとして、乳母に遮られた。


「ええ!それにも驚きましたとも!街中大騒ぎですよ!ですが、そんな事よりも、いえ、そんな事とは言っては不謹慎ですね。とにかくお嬢様、大急ぎで着替えて下さい!」


「どうしたの、ばあや。何をそんなに慌てるの?」


「慌てますとも!いいですか、お嬢様、落ちついて聞いて下さい」


ばあやこそ落ちつきなさいよと、内心思いながらも、先を促すように頷いた。


「いいですか、言いますよ!今、この屋敷に、この国の第一王子が来て、お嬢様のお父上にお嬢様を妻にしたいとお申し込みに!」


「何ですって!?」


勢いよくフィランジェルは起き上がり、こんな寝着のままでいるわけにはいかないと慌ててベッドから降り立った。


まさかいきなりカルナートがお父様にそんな畏れ多いこと事を言うとは、想像もしなかった。


急いで行かなくてはと一歩踏み出したのだが、足や腰に力が入らなくて、そのままの勢いで床に倒れ、中途半端に引っ掛けた腕でテーブルまでなぎ倒し、凄い音がなった。


「大丈夫ですか!お嬢様!」


慌てて乳母が駆け寄る。


フィランジェルは、その場で身体を起こして、不思議そうに呟いた。


「ばあや、私、痩せたのかしら?なんだか自分が凄く軽くてふわふわしてるの」


「それは違うよ、フィラン」


音もさせずにドアを開けて、カルナートが白銀の髪をまとい、全く司祭の面影もない豪奢な衣服を着ていつの間にか戸口に立っていた。


「カ、カルナート!?」


いきなり現れた事にも驚いたが、比べて寝着のままの自分も恥ずかしく、フィランジェルは出来うる限り自分を腕で隠した。


乳母も慌ててフィランジェルを隠すように立ちはだかる。


「王子様、お嬢様はまだ衣装を整えておりませんので、どうか…」


「そんな事、僕は気にしないよ。君はもういいから下がって」


「…かしこまりました」


乳母は迷ったが、有無を言わせないカルナートの威厳のある視線に逆らえず、その場を去った。


フィランジェルが精一杯カルナートを睨む。


「ちょっと、いくらなんでも貴婦人の個室にいきなり入ってくるなんて失礼よ?」


カルナートは、そう?と一言言うと、フィランジェルの側に行き、片膝を付いて屈んで真顔になった。


「いきなり凄い音がしたから驚いて急いで来たんだけど?君に何かあったのかと思ってさ」


いつもの司祭の時のカルナートからは感じられなかった威厳のある雰囲気、そして余裕のない、どこか殺伐としている態度。


フィランジェルは、自分の現状を忘れて、カルナートの頬に片手でそっと触れた。


「どうかしたの、カルナート…?何かあった?」


一瞬虚を付かれたようになったカルナートは、フィランジェルの手の上にそっと自分の手を重ね、ふわりと優しげに微笑んだ。


「凄いね…フィラン。…大好きだよ…」


今度はフィランジェルが真顔になり、空いているもう片方の手でカルナートの頬を挟み込むようにして、しっかりと彼を見つめた。


「そんな風にはぐらかさないで。何があったのか、私に話して、すっきりしなさいよ」


その言葉にカルナートは嬉しそうに微笑むと、両手を同じようにフィランジェルの手に重ねた。


「そうだね…ありがとう、フィラン」


いつもの調子に戻ったカルナートに、フィランジェルが安堵して、どういたしましてと微笑む。


カルナートは、優しくフィランジェルの手をとると、そっと下に下ろし、今度は逆に彼女の頬に触れた。


「キスしていい?」


そう言いながらカルナートの顔はゆっくりと近付き、頬に触れた手があまりにも優しかったので、フィランジェルは少し緊張しながらギュッと目を閉じた。


そんなフィランジェルを本当に可愛いと思いながら、カルナートは優しく自分の唇を重ねた。


そして、フィランジェルの後頭部を支えると、少しだけ強く唇を押し付けて、自分の白銀のオーラをフィランジェルに分け与えた。


白銀のオーラ、つまりは術力の源。


それに気が付いたフィランジェルは、カルナートに身を委ねた。


乾いた土に清水が潤っていくような、雨が止んで晴れ間が広がるようなとても心地好い気分だった。


やがてカルナートがそっと唇を離し、フィランジェルもゆっくり目を開けた。


相変わらず目の前には優しく見つめるカルナートがいて、フィランジェルは恥ずかしそうに微笑んだ。


カルナートは、フィランジェルの髪の毛をくしずいた後、改めてそこが床の上という事に気が付いた。


ゆっくりと立ち上がり、中腰になって、フィランジェルに手を差し伸べる。


「フィラン、立ってみて?」


「え…ええ」


カルナートの手を取り、フィランジェルは恐る恐る立ってみた。


すると、すんなり普通に立つ事が出来て、感嘆した。


「なぜ?全然平気だわ」


よろめかないようにカルナートは彼女を支え、フィランジェルの疑問に答えた。


「フィランは普段術の力が強すぎて、逆に自分で自分を抑えるのに使ってた状態なんだよ。それが昨日術力の使い過ぎで、今度は逆に自分の体を支える分までなくなって、体が軽く感じたみたいだね」


「まあ。そうだったの?」


「そうだよ。だからさっき僕がオーラを分けてあげたから、少しは楽になったみたいだね?」


「そうね、全然大丈夫よ。すぐに着替えるわ。ばあやを呼んでくるわね」


スタスタと扉に行こうとするのを慌ててカルナートは止めた。


「フィラン、今日は安静にしておかないと安定しないよ。それにフィランにだけ話したい事もあるし。とりあえずベッドに横になりなよ」


「大袈裟ね。大丈夫よ」


「だめだよ」


「大丈夫よ」


「だめだって」


押し問答の後、結局、少し強引にフィランジェルはカルナートにベッドに寝かされた。


横になったらなったで確かに体が休息を求めているのがわかり、フィランジェルは大人しくベッドにおさまった。


カルナートは、近くの机から椅子を運び、背もたれを前にして逆向きにまたがって座り、背もたれに両腕をあぐらをかくようにしてもたれかかった。


それを見てクスッとフィランジェルが笑う。


「そうしてるといつものカルナートね。司祭なのに司祭っぽくかしこまってなくて、王子なのに王子っぽく偉ぶってなくて。それがカルナート自身なのね」


カルナートは嬉しそうに笑った。


「わかる?誰よりもフィランにわかってもらって嬉しいよ。そう、僕は自由に生きたいと思ってたんだ。司祭の仕事も好きでやってたし、フィランに出会ってからは、司祭としてフィランの婿養子にしてもらおうと思ってた」


「それ、本気で言ってるの?」


フィランジェルが呆れたように問うと、カルナートは真剣な面持ちで頷いた。


「フィランに嘘はつかないよ。僕には弟もいるから王家は安泰だし、神である父も許してくれてた。でも…」


カルナートは言葉を切って、言いにくそうにフィランジェルを見つめた。


黙ってフィランジェルが彼を真っ直ぐ見つめ返して先を促すと、哀しそうにカルナートが告げた。


「昨日…国の結界が破られた事でかなりの衝撃が父にいったんだ。その後更に強固な結界を無理して張ったからね…今、父が危篤なんだ…」


「え!?それって…神がって事!?」


「そうだよ…」


神とは至高なる絶対の者で、国の存亡に関わる。


今それが消えようとしているというのか。


絶句してしまったフィランジェルの側に行く為に、カルナートは椅子から降りてベッドの側に片膝をついて座った。


そして、そっとフィランジェルの手に触れた。


「大丈夫だよ。今、一生懸命神を治療してるし、その間、国は僕達兄弟が治めるからきっと良くなるよ。…でも…もし父が…もし亡くなってしまったら、国はこれから僕が支える事になる」


「カルナートが!?」


「そうだよ。僕は第一王子で第一継承者だからね。力は、一番神の血筋が濃い者に移るようになってるから」


今目の前にいる彼が神になるという事実は、フィランジェルにとってかなりの衝撃だった。


更に、カルナートはフィランジェルにその事実を告げる。


「僕は、これから父の看病をしながら、国を代わりに治めるから、城からは出られなくなる。今日も無理を通してフィランの所に来たんだ…。多分今度城を抜け出せるのは、いつになるかわからないから…」


こうして今触れる事も、話す事も出来る彼が、神になる…そうなってしまえば、カルナートが会いに来てくれない限りは自分で会いに行く事はほぼ不可能だろう。


自分は貴族で、彼は王族で本来会う事すら出来ない尊い存在なのだから。


包み込まれている手が、とても温かく優しく、愛しく感じた。


サワサワと心地好い風が窓から流れてきて、カルナートの見事な白銀の髪の毛をふわりと揺らした。


カルナートは、初めて出会ってから一番真剣で真摯な表情と声でフィランジェルにその想いを伝えた。


「フィランジェル、僕と結婚して?」


普段は軽くフィランと呼ぶ彼が正式に名を呼び、フィランジェルはドキドキと高鳴る心臓と素直に嬉しいという感情で胸がいっぱいになった。


何も言えずにいると、カルナートが少し強く手を握ってきた。


「大好きだよ…。僕だけのフィランジェルになってよ。ずっと側にいて欲しいんだ」


フィランジェルが勇気をだして顔をあげるとカルナートは、まっすぐフィランジェルの目を捕らえて離さなかった。


全身全霊で愛してくれているのを感じて、フィランジェルは嬉しさと切なさに少し涙があふれつつも、その想いに応えた。


「私のすべてを…貴方にあげるわ」


そっとそのままカルナートの胸に寄り掛かる。


カルナートはフィランジェルを愛しそうに抱き締めた。


「フィラン…体つらい…?僕…君の事抱きたい…」


そう言いながら、カルナートはフィランジェルの唇にそっとキスをした。


あきらかに動揺したフィランジェルが、顔を真っ赤にさせておろおろとする。


「体は大丈夫よ…。でも、私どうすればいいのか、分からないわ…」


少し泣きそうな目でみつめられて、カルナートは、安心させるように微笑んだ。


そして、フィランジェルの頬をなで、耳元にキスをして、大丈夫、と囁いた。


そのまま彼女の唇に今までの触れるだけでない熱いキスを何度も繰り返す。


最初驚いていたフィランジェルは、暫くして緊張がほぐれてきて、カルナートの抱擁に応えるようになってきた。


決して無理やりは嫌だったので、その反応にカルナートは安堵して、フィランジェルをベッドに優しく寝かせ、その上から自分も覆い被さった。


二人だけの時間を誰かが邪魔する事もなく、時間をかけてゆっくりと、身を委ねるフィランジェルに想いを強く込めて愛した。


~受け継ぐ者~

「おはよう、ばあや」


フィランジェルは、王宮からの迎えが来る今日、自宅の屋敷で最後の朝食を摂っていた。


何時もと変わらない朝。


一生懸命元気良い姿を見せて最後にフィランジェルに尽くす乳母がいて、努めて笑顔を作り、この日常をかみしめる。


王宮入り、しかも、王子の妻ともなれば、当分里帰りする事もないだろうという予感がした。


「お嬢様…やはり私も王宮についていき、お側でお世話させていただいた方がよろしくありませんか?」


乳母の心が現れた、フィランジェルの好みの物ばかりが並ぶ食事をしていると、乳母が心底心配そうにとうとう言い出した。


安心させるようにフィランジェルは微笑む。


「ありがとう、ばあや。とても嬉しいわ。でも、ばあやには娘さんも、お孫さんもいるでしょう?王宮仕えは今みたいに自宅から通えないのよ。だから、お気持ちだけ頂くわ」


「さようでございますか…残念ですね…」


乳母がしょんぼりし、フィランジェルは苦笑した。


結婚が決まったのに、皆こんな調子なのである。


筆頭が父で、あれほど結婚と口うるさかったのに、いざ決まると、もちろん喜んだが、フィランジェルなら婿養子を貰う事になって、ずっとこの屋敷に住むはずだと、離れる事はないと決め付けていたという事が発覚した。


そして、母は、いつも父の側にいるように、父に言い付けられており、大人しくそれに従っていたが、昨夜は、父の目を盗んでフィランジェルの部屋を訪ねて来た。


「…お母様!?どうなさったの?お父様は?」


突然の訪問に目を見開くぐらいフィランジェルは驚いていた。


母はあきらかに全速力で走ってきたと思われる息使いをしており、かなり慌てていた。


「お母様、大丈夫?」


フィランジェルが部屋に招き入れようとすると、首を横に振った。


「ここでいいわ。すぐにお父様の所に帰らないといけないのよ。どうしてもフィランジェルにこれを渡したくて」


半ば押し付けるようにフィランジェルの手のひらに、母が何かを渡し、フィランジェルは反射的にそれを受け取った。


手の中には、楕円形をした青色の宝石が不思議に銀色に発光しているのをトップにした銀色の鎖のネックレスがあった。


「まあ…!とても綺麗!これを私に?」


「ええ。これは代々私の家系で伝わる、術の力が込められた御守りなのよ。貴方がとても強いのはわかってるわ。でも王宮なんて何があるかわからないから、受け取ってちょうだい」


一気に母はそれを伝えるともうフィランジェルに背を向けて走り出していた。


慌ててフィランジェルはお礼を叫ぶ。


「ありがとう、お母様!」


母はちらりと振り返って頷いて、また走り出した。


抱きしめられた覚えはなかったが、母なりに愛してくれていたのかと思うと、フィランジェルは、もう少し母と交流すれば良かったと、今更ながらに気が付いた。


しかし、いつまでも甘えているわけにはいかない。


これからは、自分が家庭を築いていかなければいけないのだ。


その日の午後、フィランジェルを王宮から馬車で迎えに来てくれたのは、一度だけ見た事のある人物だった。


あの見合いパーティーで、第ニ王子が危険に陥った時にすかさず王子を庇っていた、国家の術師だった。


お互いにハッとしたものの、周りの目もある為、とりあえずは馬車に乗り込むまでは無言だった。


「…カルナート様が選んだ方は、貴方だったのですね…」


馬車が走り出してすぐ、開口一番にそう言われて、フィランジェルはええ、まあ、と少しだけ苦笑した。


あんな勇ましい姿を見られている今、取り澄ます訳にも行かず、言葉が見つからず曖昧な態度をとると、術師が慌てて取り繕った。


「いや、誤解しないで頂きたいが、カルナート様はとても良い方を選ばれたと思う。私は国家の術師の中でも実力は一番だと自負しているが、その私から見ても、かなりの術力がある方というのがわかる」


「そうかしら?」


手放しで褒められ、フィランジェルが照れ、術師は心底安堵したように頷いた。


「カルナート様が貴族の方を妻にすると言い出して、いったいどんな方だろうかと懸念していたが、貴方なら大丈夫だろう。体調はもう大丈夫なのかな?」


「ええ。一週間も休養させて頂きましたので、もうすっかり」


あの日、カルナートと別れてから、一週間も過ぎていた。


その間、カルナートは忙しいのか一度も姿を見せなかった。


一日でも会えないと寂しくて、今日は本当に久しぶりに会えるように感じた。


「カルナート…様は、お元気にされてますか?」


なんとなく従者の前で呼び捨てにするのは抵抗あるわね、とか思いながら何気なくフィランジェルが質問すると、術師は一気に表情を固くして、視線をそらした。


「カルナート様は…」


「え…?」


思いもかけないその嫌な予感のする反応に、フィランジェルは続きを促すように詰め寄る。


「カルナートに何かあったの…?」


「…私の口からはなんとも…。城に到着すれば、すぐに私がカルナート様の元に案内する。ご自分の目で見てみよ」


「…わかったわ…」


一瞬会えないのかと危惧したが、会えるのなら問題ない。


フィランジェルは、それ以上尋ねても無駄そうだという事と、直接確かめればいいと自分に言い聞かせ、カルナートの無事を祈りながら大人しく座って馬車の揺れに身を任せた。


城の正門をくぐり、より強固な結界内に入ると、術師に促されてフィランジェルは馬車を降りた。


そこは木々の葉が太陽の光をたっぷり浴びて、木漏れ日が美しい静かな場所だった。


「ここですか…?」


フィランジェルが不思議そうにすると、いいや、と術師は首を横に振った。


「ここは、術によって仕掛けられている中継地点だ。ここから、貴方をカルナート様がいる所まで道を開く」


「はい」


フィランジェルが心得たように頷いた。


国家の術師が大きく両手を天に向かって振り上げる。


「どうかカルナート様に最後の幸せを!」


え?最後!?


フィランジェルは、不吉な言葉に驚いて国家の術師を振り返ったが、白銀の力が一気に押し寄せてきて、思わず目を瞑った。


一瞬浮遊感があったが、すぐに地に足が着き、風が止まり、辺りが静かになった所で、フィランジェルは恐々と目を開けた。


そこは、白銀に輝く一つの空間だった。


そして、空間の中心には、かなり大きな白銀の球体が天に浮かんでおり、やや地面に近い所には、白銀のオーラに包まれて横たわったまま浮かぶカルナートがいた…。


「カルナート!」


悲鳴に近い声で名を呼び、フィランジェルは急いで駆け寄った。


すぐ間近まで行ったものの、フィランジェルは触れていいのかが判断つかず、ためらいがちに手をそっと握ってみた。


「…カルナート?」


手は暖かく、彼が生きている事を教えてくれた。


「カルナート…寝てるの?」


何度も呼び掛けると、やっとカルナートがうっすらと目を開けて、フィランジェルに微笑みかけた。


「久しぶりだね、フィラン…。会えてすごく嬉しいよ」


カルナートの片手がフィランジェルの頬をそっと包み、フィランジェルはその手に自分の手を重ねる。


「私も嬉しい…」


状況にとまどいながも、フィランジェルが微笑むと、安心したのか、カルナートが気を失うように目を閉じた。


「ちょ…ちょっと!カルナート!どうしたの?大丈夫!?」


必死に呼び掛けると、再びカルナートは目を開き、とても悲し気な眼差しでフィランジェルを見つめた。


「フィラン…ごめん…」


「ごめん…って何が?」


心底心配そうに、フィランジェルがカルナートを見つめる。


視線の先のカルナートは、まるで今にも死にそうなぐらい弱々しかった。


そんな不吉な考えを認めたくなくて、フィランジェルは、カルナートがどこにも行けないように想いを込めて、手を強く握る。


カルナートは、それに応えるように握り返して来た。


「フィラン…ごめん、約束守れなくなったんだよ…」


「約束…?」


「うん…側にいるっていう約束…」


「えっ…?」


それは、つい一週間前にカルナートがフィランジェルを抱きしめてささやき、誓ってくれた言葉だ。


「…どうして?もしかして…私が嫌になったの…?」


一体何が原因か分からず、フィランジェルはありもしない想像をしてしまう。


やはり貴族の自分では身分が釣り合わなくて、正妻が出来てしまったのでは…。


「違う。違うよ、フィラン。僕には君だけだよ」


「じゃあ、どうしていきなりそんな事を言うの?」


突然の別れの言葉に、フィランジェルは動揺して今にも泣きそうだった。


意を決したように、カルナートがゆっくり起き上がり、しっかりとフィランジェルの目を見て、告げた。


「僕は、大好きなフィランの側にいたい…でも、もうこれ以上、生きられないんだよ…僕」


「カルナート…突然何言ってるの?悪い冗談はやめて」


半笑いのような震える声でフィランジェルが抗議をする。


カルナートが、薄く苦笑した。


「冗談だったら良かったんだけどね…。僕も、まさかあんな事で寿命が無くなるとは思わなかったんだ…」


「…あんな事って…?」


フィランジェルが不安気にカルナートを見つめると、彼は、落ち着かせるようにフィランジェルの頭を撫でた。


「ごめんね…」


フィランジェルは、うつむき、そっとカルナートの広い胸に寄り添った。


「…カルナート…あんな事って何?」


「うん…この前の神の結界が破られた時の事なんだけど…。あの…得体のしれない、ルヴァレスとかいうやつと戦った時に黒い雷を弾いたんだ…」


確かにそれはフィランジェルも目撃していたので、彼女は黙って頷いた。


「その衝撃がかなり凄かったみたいでさ…。力を回復するのに術で自分の寿命を力に代えたんだけどね…」


そこで言葉を切って、カルナートは悲し気に目を伏せた。


「自分の残りの命、全部使っちゃったみたいなんだ。情けない事に、フィランジェルと最後に会った日に倒れて、神を支えるつもりが逆に支えられる事になって、フィランに会えるまで生きさせて貰ってたんだ…」


「何よそれ…嘘でしょう?」


信じられない。


そして、信じたくない。


しかし、目の前のカルナートは、今にも消えてしまいそうだった。


白銀の力の中に溶け込むように…。


カルナートは、嘘じゃないと言うように、悲しそうに首を横に振った。


「ここは、神の力が集まる場所で、本当は王族以外入れないんだけどね、僕の一存で、フィランを招いたんだ…もう…最後だから」


「さ…最後なんて言わないでよ!!」


フィランジェルは、カルナートの手を抱きしめて、号泣した。


「馬鹿…!馬鹿じゃないの?!自分の命全部を力に変えるなんて!力なんて無くても良かったじゃないの!見習い司祭として生きたら良かったじゃない!」


取り乱したフィランジェルをカルナートは、力強く、そして、優しく抱き締めた。


「そうだね…ごめんね、フィラン」


「ずっと一緒って言ってくれたのに!嫌よ!絶対に嫌!私を一人にしないで!」


「フィラン…。本当にごめん」


カルナートは、フィランジェルが落ち着くまで何度も謝って、愛しそうに抱きしめていた。


やがてフィランジェルが泣き疲れ、無言になると、カルナートはそっとささやいた。


「大丈夫…?」


「大丈夫じゃないわ。大丈夫じゃないけど…」


フィランジェルは、顔を上げて精一杯微笑みを浮かべてみた。


「私が来るまで生きていてくれてありがとう…こうして会えなかったら、私、きっと凄く後悔したわ」


そう言いながらも涙はまた止まらなくなり、カルナートが、フィランジェルにそっとキスをした。


「可愛すぎるよ、フィランジェル」


「カルナート…」


途端にフィランジェルは顔を赤らめてカルナートの胸に顔を埋める。


「お願いがあるんだ、フィラン」


「何?何でも言って」


「わがままでもいい?」


「?いいわよ?」


カルナートに抱きしめられたまま、フィランジェルが顔を上げて彼を見つめる。


「普通は、こういう時、他の男と幸せにって言うんだけどさ…ごめん…ずっと考えてたんだけど…やっぱりそれは僕には耐えれないや…永遠に僕だけのフィランジェルでいてくれる…?」


フィランジェルは、蕾が花開く時のように微笑んだ。


「そんな事、当たり前よ。私は永遠に貴方だけの私よ」


カルナートは、眩しそうにフィランジェルを見つめると、儚げに微笑んだ。


やがて徐々にカルナートが白銀色にぼやけてきて、周囲の白銀の力に溶け込むように消えてきた。


「カルナート…!」


再びフィランジェルが悲しみのあまり泣き出すと、優しく白銀の光がフィランジェルを包み込んだ。


「大好きだよ…フィランジェル」


最後にカルナートの声が聞こえたような気がして、フィランジェルもそのまま深い眠りについた。


長い眠りからフィランジェルが目覚めると、馴染みの乳母が心配そうに自分の顔をのぞき込んでいた。


「えっ?ばあや?」


一瞬夢だったのかと周囲を見渡すと、そこは自分の部屋とは段違いに豪華で、一目で違うと判断出来た。


沈痛した面持ちで、乳母が頭をたれる。


「お嬢様…このたびはお悔やみ申し上げます…」


「ばあや…」


カルナートの事を言っているのだと思い、フィランジェルは、再び号泣しそうになり、慌てて乳母がそれを止める。


「お嬢様!お泣きになる前にばあやの話しを聞いて下さいな!」


「…え?何?」


結構な剣幕で詰め寄られて、フィランジェルは驚いて泣きかけの変な表情のまま乳母をきょとんと見つめた。


乳母は安心したように頷くと、言葉を発しようとしていきなり涙ぐんだ。


「何なのばあや?なぜばあやが泣くの?…私には泣くなって言ったのに」


フィランジェルが拗ねたように言うと、乳母は、感極まったようにハンカチで涙を拭った。


「私はいいんですよ。これは嬉し涙ですからね」


「嬉しい…?」


フィランジェルが不機嫌そうに訳がわからないというように眉を寄せる。


「嬉しいですとも」


ばあやは、フィランジェルに今まで見たことがないぐらいの満面の笑みを浮かべて告げた。


「お嬢様…。お嬢様は王子様のお子を身籠っておいでなのですよ!」


「…お子…って…赤ちゃん…?」


信じられないというように、思わずフィランジェルは自分のお腹を見て、次いで乳母を見つめた。


乳母は何度も嬉しそうに頷く。


「おめでとうございます。お嬢様!」


はっきりいってフィランジェルには全く実感がなかった。


しかし、言われてみれば気のせいなのだろうが、なんだかお腹の辺りが淡い白銀に包まれているような気がする。


カルナートがすぐ側にいてくれているような気がして、フィランジェルは嬉しさに胸がいっぱいになった。


「ばあや…カルナートの子供だわ…!」


先程の乳母の様にフィランジェルも嬉し涙を浮かべる。


「嬉しい…!私、嬉しいわ!カルナートの赤ちゃん…」


愛しそうにフィランジェルは自分のお腹をなでる。


これ以上ないくらい、幸福な気分で満たされた。


ひとしきり喜んだ後、更に嬉しい事を乳母は告げた。


「お嬢様がお子を生んで、ある程度お子様がお育ちになるまでばあやがお世話させて頂きますよ。家族にもちゃんと許可は取りましたからね」


「本当!?」


飛び上がらんばかりにフィランジェルが喜び、乳母が慌てて制した。


「お嬢様、安定するまでは安静にして下さいませ。お子は、お嬢様の可愛いお子様でもあり、この国の唯一の希望でもあるのですよ」


「唯一って…。大袈裟ね、ばあやってば」


呆れたようにフィランジェルが笑う。


それに対して乳母は、至極神妙な顔付きになり、声のトーンを落とした。


「お嬢様が三日間寝ておられる間に色々あったんですよ」


「私三日も寝てたの?」


「さようでございます。神の力を直接浴びた疲労との事でしたが、さすがに三日目になって心配になり、王家の医者が術による全身の検査をしましたら、ご懐妊とわかりました。まだまだお嬢様の子宮でかなりお小さいそうですよ」


乳母はそこで胸を張って自信満々の笑みを浮かべる。


「少しでもお嬢様の心の負担を減らす為にばあやが呼ばれました。慣れない召使いでは粗相があるかもしれませんからね」


「そうね。とても心強いわ」


フィランジェルが心から安堵して微笑む。


乳母は話しがそれた事に気が付き、再び声のトーンを落とした。


「それはおめでたい事で全く問題ないんですけどね。問題は第二王子の事なんですよ」


ふと、夜会で見た生真面目そうな姿がフィランジェルの脳裏をよぎった。


「どうかなさったの?」


「さようでございます。お嬢様が嫁いだ日に、再度魔の森に結界を張りに行き…攻撃にあって隊が全滅したんですよ」


「全滅!?じゃあ亡くなったの!?」


フィランジェルが驚いて声を上げると、乳母が慌てて制した。


「ご安心下さいな。第二王子は生きていますよ。通りかかった異国の医者が輸血をして命は助かっております」


「まあ!凄いわね。運が良かったのね」


ほっとしてフィランジェルが落ち着くと、乳母は、暗い表情で首を横に振った。


「確かに命は助かりましたが…第二王子は、異種族の血が混ざったので、神の力を受け継ぐ事が出来なくなったそうなんですよ。何でも、力の容量が足りなくなったとかで」


「ああ…それは、わかるわ…。あの白銀の輝きを受け継ぐには相当な純粋なる血筋ではないと…」


カルナートと最後に会った空間の白銀の力は、本当に純度が濃かった。


フィランジェルが考え込むと、乳母は慌てて明るい声を出した。


「神の力を受け継ぐ者がいなくなったと、皆が絶望にくれましたが、そこにお嬢様のご懐妊が分かり、どんなにか安堵したか!お生まれになったら、すぐに受け継ぐ事になるそうですよ」


「ちょっと待ってばあや!」


フィランジェルは、そこで重要な事に気が付いた。


「すぐに受け継ぐ事になるって…どういう事?神は?カルナートのお父様の神は…?」


乳母は困惑したように頭を下げ、重々しくフィランジェルに告げた。


「詳しい事はこのばあやには分かりかねますが、カルナート様と同じ時に崩御されたとか…」


「え……」


その事実はかなりショックだった。


神がいない国の未来はどうなるのだろう。


何も言えなくなり、顔色が悪くなったフィランジェを乳母が慌てて横にならせる。


「お嬢様!お気を確かに!あまり考え込むとお子に障りがありますよ」


「そ…、そうね」


ハッとフィランジェルは正気に戻り、愛しそうにお腹をなでる。


まるで仕組まれたように神の力を受け継ぐ者が消えていく。


偶然にしては出来すぎており、フィランジェルは、あのルヴァレスとかいう黒フードの影がニヤリと笑っているように感じた。


しかし、ここで負けるわけにはいかない。


なんとしても、愛しい我が子を…カルナートとの大切な思い出を守らなければ…!


フィランジェルは、亡くなった方に冥福を祈りながら強く自分自身に誓った。


しかし、その翌日それは杞憂に終わる事となる。


第二王子がつい最近の見合いの夜会にて、見初めた女性と結婚していたらしく、その女性も身籠っていたらしいのだ。


彼が怪我をする前に結ばれた子供であるだろう事実から、その子供も神の力を受け継ぐ力を備えている事になる。


何にせよ、唯一ではなくなり、フィランジェルはほっとした。


過剰な期待は、やはり母体にはきつかったし、生まれた赤子の未来が唯一の王族というのではなく、血縁者がいる方が支え合えるし、いいに決まっている。


神の力を受け継ぐのは、母体からこの世に生誕した瞬間に決まるらしい。


そう国の長老が言っていたと、人伝えに聞いたと乳母に聞かされたフィランジェルは、是非ともその第二王子のお嫁さんに会って見たかった。


しかし、体調がかなり悪いとの事で、第二王子を救った医者が専属になり、付きっきりで看病しているらしく、面会謝絶だった。


健康なフィランジェルでさえ丁重に扱われすぎて、城からは出られず、息抜き出来るのは自室のみだった。


軟禁かと思われるぐらい過保護な扱いにも、フィランジェルは耐えた。


しかし、色々情報を召し使い逹から仕入れてくれる乳母から、第二王子の妻は、あの、夜会で知り合った16歳の初々しいフィンゼルだと分かった時、その決意は揺らいだ。


会って色々話がしたかった。


フィランジェルは、普段なら絶対無理を通して会いに行っただろうが、自分も身重であり、迷ったあげく止めた。


自分の欲に大切な赤ちゃんが振り回される方がフィランジェルは嫌だった。


~最終章~

月日は流れ、フィランジェルは男児を生んだ。


そして、神の力を受け継いだのは、フィランジェルの息子ではなかった。


生まれたのは同じ日だったが、ほんの少しだけフィンゼルの子が先に誕生したのである。


フィランジェルは、それは残念でもあったが、同時に安堵もした。


皆の神ではなく、我が子として育てられる。


自分の愛を注いで、ゆっくりと一緒に生きて行こう。


名前もジュランと命名して愛しそうに何度も呼んだ。


カルナートの…父の事をいつか我が子に伝えよう。


貴方は、父と母の愛の結晶なのよ、と…。


「見て見て、ばあや!すごく小さな手よ」


壊れ物を扱うように抱き抱え、フィランジェルは、まだ目も開かないジュランが握りしめたままの手をつついた。


不快そうにジュランが小さく反応し、フィランジェルは頬にキスをする。


「ジュラン…可愛いわね!」


「さようでございますね!」


乳母もフィランジェルも笑顔で目尻が下がりっぱなしの反応をしていた。


陽光は部屋中を照らし出し、フィランジェルは、とてもおっとりした気分で幸せを噛みしめていた。


一度里帰りして、父母に見せに行こうと、フィランジェルは漠然と考えていた。


もう少しジュランが大きくなって、術の力が安定したら、お忍びで城を抜け出してみよう。


正攻法ではきっと自分の意見は通らない。


何せ、未だにこの国の長老と言われる神の次に偉い人物逹に会った事がないのだから。


きっと、長老には貴族である自分の存在を認めて貰えてないのだろう。


それがこの国の階級制度なのだから仕方がないが…。


「お嬢様、それでは、ばあやは夕食のご用意をして参りますね」


「ええ。お願いね。ばあや」


すやすやと眠るジュランを抱きながらフィランジェルは乳母を見送った。


それが、フィランジェルと乳母の最後の別れとなった。


乳母がいなくなってすぐ、にわかに部屋の気温が下がったように感じられた。


そして、あれだけ降り注いでいた太陽の光が陰る。


「…何?」


何か異変が起こっているのかは明らかで、フィランジェルはジュランを抱き締めて身構えた。


序々に部屋の中央が黒く陰り、床から黒い人体が五体盛り上がってきた。


一瞬、あのルヴァレスかと身構えたが、似ても似つかないほどの老齢さが伝わって来て、違うとすぐに認識出来た。


そして、その中の中央の人物が発した言葉により、それは確信に変わる。


暗く、しわがれた声が妙に部屋に響いた。


「我等は最古よりこの国にて神の力を管理し、守護している…」


「…もしかして、長老様方ですか…?」


少しだけ安堵してフィランジェルが問いかけると、肯定するように頷いた。


普通は会いに来てくれたのかと喜ぶ所なのだが、どう考えても、雰囲気が歓迎されているように感じられない。


そのフィランジェルの予感は見事に当たった。


長老が信じられない事を、無感情にフィランジェルに告げたのである。


「神の力は無事受け継がれた。これ以上の厄災を退ける為、お主の子を魔の森への贄とし、神の力を守る事とする」


「…贄…ですって!?」


フィランジェルが信じられない面持ちで立ち上がろうとしたが、既に術をかけられており、体が石の様に動かなくなっていた。


強張るフィランジェルを前に、不気味な黒い陰の長老が近付いて来る。


このままでは、ジュランが連れていかれてしまう。


必死に抵抗したが、びくともしない。


言葉を発する事も出来ず、フィランジェルは、心の中で誰か助けてと、叫んだ。


すると、母から貰ったお守りの青銀の石がフィランジェルの叫びに呼応するように強く光り、辺り一面に光の粒となって飛び散った。


途端にフィランジェルは解放され、動けるようになった。


長老逹は、怯む事なく再度術を繰り出してフィランジェルを取り押さえようとし、フィランジェルも容赦なく力をぶつけた。


相反する力と想いが激突し、部屋の壁や窓ガラスが、外に向かって破壊され、物凄い破壊音が鳴り響く。


ジュランは号泣し、フィランジェルは、強く抱き抱えて外に飛び出した。


しかし、その足首に術の縄が巻き付き、宙を引きずられる。


必死にフィランジェルは抵抗した。


髪の毛を見えない力でむしり取られようと、首を絞められようと、この後死んでもいいから、残酷な運命を突きつける長老から逃げようと、辺りを破壊しまくって抵抗した。


しかし、多勢に無勢では、フィランジェルの力では敵わなかった…。


長老の中でも一番最古の者が一言呟いた。


「反逆者を牢獄に。これ以上の被害は御免だ」


次の瞬間、身が引きちぎられるような苦痛がフィランジェルを襲った。


これは強制転移に違いない。


意志も人体も望まぬままの転移は、最大の歪みを起こす。


フィランジェルは、最後まで耐えた。


しかし、何度も頭や顔面に力の塊を叩きつけられ…とうとう意識を失ってしまった。


愛しいジュランをフィランジェルは、それでも放さなかった…。


耳が痛いほどの静けさの中、フィランジェルは身体中の痛みで目を覚ました。


薄暗く見た事もない壁や天井が目に入る。


ここはどこだろう…と思考を巡らして、ハッとフィランジェルは思い出して、急いで確認した。


その硬直したように固まったフィランジェルの両腕の中で…ジュランはすやすやと眠っていた。


鈍く痛む頭や体の痛みを忘れるぐらいフィランジェルは安堵した。


起こさないようゆっくりと起き上がり、壁にもたれて、体制をたて直し、改めてその部屋を見渡す。


そこには、わずかに月明かりが差し込む鉄格子付きの小さな窓、恐ろしく質素な簡易ベッド、それと、ドアが一つ以外はすべて壁だった。


フィランジェルは知っている。


これは決して術では破壊できない壁…術の牢獄だ。


昔本で見たことがあるが、術で犯罪を起こした人間は、死刑執行まで牢獄に入れられる。


フィランジェルは、軽く術を壁にぶつけてみたが、瞬時に力を吸収された。


それによって確実に逃げる事は、もう不可能なのだと、思い知らされたのだ…。


締め付けるような頭痛を感じながら、少しでも楽にならないかと、フィランジェルは上を向いた。


すると、恐ろしく冷たい色の壁が自分を押し潰す錯覚に陥り、慌てて視線を愛しい我が子に向けた。


ジュランのうっすら生えた髪の毛は、カルナートと同じ白銀で、唐突にカルナートの面影が浮かんできた。


きっと、カルナートが側にいてくれていたら、今頃ジュランを抱きあげて微笑んでくれているに違いない。


愛しい大切な赤ちゃんの誕生を喜びながら、二人まとめてその腕で包容してくれるはずだ。


「…カルナート……」


一言名を口に出してしまえば、もう駄目だった。


とめどなく涙は溢れ、傷付いた肉体も痛かったが、軋む心の悲鳴の方が、もっと痛くて壊れそうだった。


どうして側にいてくれてないのだろう。


どうして死んでしまったのだろう。


一目でいいからジュランを見て欲しかった…。


寂しくて、辛くてフィランジェルは、声を殺して泣いた。


腕の中に確かに生まれた暖かな一つの命。


「ごめんね…ジュラン。ごめんね…」


守りたいのに守れなかった。


慈しみ、母や父の愛を伝え、人を愛する喜びを教えたかった。


なぜ、こんな幼子を贄になど出来るのだろう。


この国の未来に何があるというのか…。


愛しい我が子の命を踏み台にするなど正気とは思えない。


世も更けて来て、フィランジェルはジュランに授乳してあげてから、簡易ベッドに横になった。


もちろん片時もジュランから手は放さず、抱き締めている。


身体中が痛く、頭痛も更に酷くなり、座っていられなくなっていた。


自分に残された時間もあまりないのかもしれない。


月の光りが、この薄暗い牢獄には、唯一の希望に感じられた。


きっと、夜が明けたら、ジュランは贄にされるだろう。


魔の森は、夜中に活発化し日が昇るとまだ沈静化する。


ある程度の危険を避ける為に、陽光の力がある朝以降、誰かがジュランを連れて行くに違いない。


あの様子だと、急を要していたので、日程を延ばす事はないだろう。


夜明けまでに、なんとかしなければならない。


気は焦るが、手段が何もなかった。


絶望を感じたまま段々と薄れていく意識の中、最初、フィランジェルは幻を見ているのかと思った。


自分自身の指先が、白銀化し、消えて行く…。


驚きはしたが、痛みも感覚も恐怖もなかった。


どちらかというと、白銀の光が余りに綺麗で見惚れた。


もしかして自分は、元は白銀の力だったのだろうか。


それとも、あの最後にカルナートに会った所へと、カルナートが呼んでくれているのだろうか…?


わからない…。


わからないけれど、このまま白銀力化するのならば、フィランジェルにも出来る事がある。


「ジュラン…。貴方の側にずっといるわ。白銀の加護となって、貴方の幸せをずっと見守るわね…」


そっとフィランジェルがジュランの頬に口づけすると、彼女自身が完全に白銀の光に飲まれる形で消えた。


そして、ジュランを柔らかく光が包むと、ゆっくりとジュランに同化して消えた…。


再び部屋は月明かりのみの薄暗い空間に戻り、冷たい簡易ベッドの上には、赤子が一人すやすやと眠っていた。


刻々と迫る贄という残酷な運命の時。


しかし、赤子の未来は、未知数に溢れていた。


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