8話 プリンセス・ローズ
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これは遠い、遠い優しい記憶。両親に手を引かれて訪れた、異国の祭りの夜。
風に乗って流れるお囃子に、着物を身に纏った人々。屋台や山鉾の灯りはどこか幻想的で。
人も人ならざる者も共に祭りを楽しんでいるようなそんな祭りの夜のこと。
幼いわたしは人混みに呑まれ、両親とはぐれて路地に迷い込んでしまった。
本来、夜は苦手ではないはずなのだけど、それでも異国の地で独りと言うのは酷く心細い。
いつの間にか泣いてしまっていた私に、
「どうしたんだ?迷子か?」
そのひとは優しく手を差し伸べてくれた。
しかもその後、再びはぐれた両親と会うまで文句も言わずに一緒に探してくれて。
あの時食べたわたあめの味は忘れられないものになって。
彼は名前も言わずに「もう迷子になるなよ」とだけ告げて、去っていった。
わたしは、今でも覚えている。
炎のような、真紅の薔薇のような、美しい真紅の髪の男の子。
だから再びこの異国の地――彼が住んでいる「京都」という地に降り立った時、わたしは密かに心に決めた。
――もしももう一度彼に会えたら、お礼を言って、とびきりのローズティーをごちそうしよう、と――
――
「ローズガーデンカフェ?」
「うん、長らく廃墟みたいな洋館があったでしょ?そこに多分外国の人かな、が越してきてバラを使った紅茶やスイーツが楽しめるカフェを作ったんだってさ」
放課後、「桜導」の部室にて瑠花たちは他愛無いおしゃべりを楽しんでいた。
「桜導」といえど、彼らも学生。何も毎日戦いに明け暮れているわけではない。
マヨイゴは基本的に月が満ちていくときにだけ活動が活発化する。これは鴇の推理によれば、月が満ちていくにつれて一時的に鏡界との壁が薄くなるのではないか、とのことだ。
今は月が欠けていく時期。先週の鞍馬山で負った傷も治り、青磁はいつものように最新スイーツ情報を披露していた。彼はかなりの甘いもの好きな上、彼曰く忍者の末裔のせいか情報収集能力が異常に高い。そのため穴場の美味しいスイーツ店や、カフェ、飲食店などにはかなり詳しい。
コンビニ限定スイーツなどにも詳しいため、クラスメートからは「迷ったら青磁に聞け」とまで言われているらしい。
「お前、本当スイーツのことだけは詳しいよな」
臙脂は心から感心したような目で青磁を見つめる。
「だって同じお金使うんなら美味しい方がいいし。臙脂ってそもそも甘いものどうだっけ?」
「基本、好き嫌いないけどな。しかし、ローズガーデンカフェか……」
臙脂はそう言うと何かを思い出すかのように目を細める。
「どうかしたの?」
「いやな、小さい頃に祇園祭でバラの香りの金髪美少女に会ったなって……」
「金髪美少女?初耳だけど」
「そりゃそうだよ。今まで誰にも言ってなかったからな。あの時の迷子のプリンセスローズ……元気かなあ」
うっとりする臙脂に、
「それだと王女の薔薇だから薔薇の姫、ならローズプリンセスがあっているな」
冷静に鴇は突っ込みを入れるが、
「そ、そんな綺麗な女の子なら一度会ってみたいかもです……」
浅黄の声でそれはかき消された。
「その子がいるかは知らないけどさ、興味あるなら今週末にでも行こうよ、みんなで。あ、いつもよりお洒落めな方がいいかも」
――
開店前の店内の一室で、金色の髪の少女は髪の毛を束ねていた。身につけているのは接客用のメイド服。
「これで、いいかな……ね、大丈夫かな……ラリマー……」
彼女は鏡で全身を見渡した後、目に見えない何かに話しかける。
<うん、大丈夫だよ。自信もってね、ナノカ。ぼくがついてるから>
「ありがとう。薬も飲んだし、よし、頑張らなきゃ!」
ナノカ、と呼ばれた少女は最後にもう一度気合いを入れて、フロアへと向かった。
ローズガーデンカフェは彼女の両親が経営する店だ。
色々な事情で開店は予想よりだいぶ遅くなってしまった。メニューは庭で採れる自家栽培の薔薇を使ったローズティーや、薔薇を練り込んだクッキーやスコーン、キャンディなど。古い洋館を改装し、内装はアンティークな感じに統一してある。
まだオープンからは1週間といったところだが、お洒落な雰囲気や味の評判が若い女性に人気で、口コミで訪れる客も増えている。店内にはちょっとした雑貨も置かれていて、ポプリや石鹸、「白薔薇の追憶」と名付けられた若い作家のアクセサリーなどがあった。
(お店を開きたいってずっと言っていたもの……その夢が叶ってわたしも嬉しいな。だから、精一杯お手伝いしなきゃ)
「すみませーん注文いいですか?」
「はい、お伺いします!」
従業員は今のところまだナノカと彼女の両親の3人だけだ。もちろん、店が軌道に乗れば人手を増やすつもりではあるらしいけれど。
「ローズティーのブルーブレンド、ローズシフォンケーキを」
ナノカは素早くメモを取り、注文を繰り返す。
「ローズティーのブルーブレンドとローズシフォンケーキですね。少々お待ちください!」
そしてぱたぱたと厨房へ向かい、オーダーを告げるのであった。
――
その少し後。
「うわあ、お洒落なところだな……」
瑠花たちはローズガーデンカフェに到着した。
「す、素敵です……今、わたしの読んでる本に異世界のカフェのお話が出てくるんですけど、まさにそんな感じで……」
白いワンピースに水色のカーディガンを羽織った浅黄が、珍しく興奮した様子で言った。
「こういうとこ……なんだか落ち着かないかなー」
いつものようにカジュアルな服装をした銀朱は落ち着かない様子で辺りをきょろきょろ見回している。
「随分、人が多いようだけど大丈夫なのかな……青磁」
不安そうに尋ねる紺に、
「あ、もちろん予約済み。それも中庭の薔薇が一番綺麗に見える席をね!」
青磁は笑って「烏丸様 6名」と書かれた札が置かれた席に瑠花たちを案内する。満開の薔薇は中庭すべてに甘い香りを漂わせ、赤、黄、白、ピンクと咲き乱れる花たちは目にも鮮やかだった。
「俺、花とかよくわかんないけど、なんだかこの花はすごく綺麗っていうかさ、なんだか喜んでるような感じがする」
「臙脂くんってロマンチストなんだ?」
からかうような銀朱に、
「ロマンチスト……?なのかはわからないけど昔から人より色々なものが「わかる」し「見える」んだよ」
臙脂は真顔で言った。
「ふーん……」
銀朱は興味を失くしたかのように呟くと瑠花たちと他愛無い会話を始める。
「まあ、信じてもらえなくても気にしないけどな、俺は」
臙脂はそう言うとウェイトレスが運んできたメニューを眺めながら、ローズウォーターを口にした。ふわりと、薔薇の香りが口の中に広がる。
「でも、臙脂の言ってることって本当なんでしょ?そもそも、紺って臙脂が拾って来たみたいなものなんだよね?」
「あはは……うん、間違ってはいないかな」
紺はそう言って微苦笑した。これは、瑠花にも伝えていないことだ。臙脂と、成り行きで知ってしまった青磁と紺だけの秘密。
「本当は俺自身には……両親の記憶とかってないんだよね……」
実は紺の記憶には空白の時間が存在している。それは瑠花と出会うよりも、一時期痛覚のない戦闘兵器のような扱いを受けた頃よりもまだ前のこと。紺が思い出せる最初の記憶は山の中で傷だらけで倒れていた紺に差し出された臙脂の優しい手だった。
彼自身は紺のことを男ではなく女だと思っていたようで、手当のために破れて血の滲んだシャツを脱がせる指が小刻みに震えていたことまで鮮明に思い出せる。
わずか一晩だったけれど、臙脂は見ず知らずの紺を温かく迎えてくれた。何故だか涙があふれて止まらなかったことを覚えている。
翌日、いきなり謎の男たちに襲われ捕らえられた紺を臙脂は迷うことなく助けてくれた。体に無数の傷を負いながら、それでも。今も臙脂が絆創膏で隠している場所にはその時の傷がまだ残っている。
酷く衰弱していた彼が覚えているのは、臙脂の優しい声と、温もりと、そして視界の端で燃え盛る「炎」だけだ。あの後謎の男たちがどうなったのかはわからない。そして臙脂自身も紺を助けた後の記憶は曖昧だという。なぜなら、次に紺と臙脂が目を覚ました時は病院のベッドの上だったのだから。
「こら、青磁。紺は猫や犬じゃないんだから……いやまあ猫っぽくはあるかもな」
「臙脂は完全に犬だよね。忠犬」
「俺ってそんな気まぐれかな……あ、青磁は猫だね。猫。いや、石妖的には鴉?」
「鴉かーいいかも。鴉って元々は神様の使いだしね。あと空を飛ぶのって悪くなかったよ」
「あの……ご注文の品をお持ちしました」
控えめにそう声がしたので、臙脂は会話を止め、
「お、楽しみだな……」
ウェイトレスの少女を見て、息を飲んだ。
「「え?」」
そして少女も、同じように臙脂を見て動きを止めた。
「…………もしかしてあの祭りの時の……女の子?」
「…………もしかしてあのお祭りの時に私を助けてくれた……ひと?」
(間違いない。金色の髪にオッドアイの瞳の女の子……)
(間違いない。炎のような真紅の髪の男の子……)
少女は少しの間臙脂を真っ直ぐに見つめていたが、はっとしたように注文の品をテーブルに置いた。
いけない、今は仕事中だ。
「これで、注文は以上ですね。もしまた何かありましたら声をかけてください……あ、あの」
彼女はエプロンのポケットから薔薇の香りのポプリを取り出しそっと臙脂に手渡す。
「あ、あの時はありがとうございました。これ、数年越しですけどお礼です。わ、わたしはナノカ。な、名前だけ聞いていいですか?」
「ああ、俺は臙脂。このポプリ、大事にするよ。ナノカ、ありがとう」
臙脂は最後の部分だけは彼女だけに聞こえる声で囁く。
「ま、また来てくださいね。で、ではお客さんをお待たせしていますのでこれで!」
ナノカは顔を赤くしたまま、ぺこりとお辞儀をして去っていった。
――
その後もなんとか無事に接客を終えたナノカは、私服に着替えて、ベッドのふちに腰かけていた。開け放した窓からは夕暮れの柔らかい光とともに、中庭の薔薇の香りが漂ってくる。
「……やっと……会えた……そして……言えた……」
ナノカはそっと自分の胸に手を当てる。鼓動がいつもよりずっと早いのがわかった。
あの時と同じ、成長しても変わらない優しい瞳。身に纏っていたマナもあの夜と同じく優しいままで。
「だけど……だけどわたしは……」
ナノカは胸に手を当てたまま、長い睫毛を伏せた。
「……誰かを……ひとを好きになっては……ダメなんです……」
(わかっている、だけど、今だけは……)
彼の笑顔を思い浮かべながら、甘い香りの中で少女は静かに瞳を閉じた。
(あなたを……エンジさんを……想わせてください……)
――
「ねえ、黒瑪瑙<オニキス>、あのローズガーデンカフェどう思った?」
華茶花学園の学生寮の屋上で、夜風に吹かれながら銀朱はひとりごちた。
<あのカフェには……間違いなく「ヒト」じゃないものがいる。敵意は感じないし、害にはならないだろうけど>
「……そう。あのナノカって子だよね。それとも彼女の両親もなのかな」
<銀朱>
「……薔薇……あんなに沢山の薔薇を必要としてる種族なら簡単にわかる……マナを糧とする……」
「月の子ども、だっけ?いわゆるヴァンパイアやハーフヴァンパイアだよね」
突然後ろから響いた声に驚いて銀朱は振り返る。
「烏丸……くん」
「こんばんは、五辻さん」
気配など全く感じなかった。銀朱は思わず身構える。
「あ、大丈夫だよ。キミも色々訳ありみたいだね。別にそっちの邪魔はする気ないから」
「……けどね」
青磁は銀朱を見据えて酷く冷たい声音で言った。
「……オレはこう見えて、結構臙脂のこと気に入ってるんだよね。だからキミがあの子を勝手に【狩って】臙脂のこと傷つけるなら……容赦しないよ」
「……っ」
「……あ、あとキミの依頼主のもう片方の方は基本的にそういうのは嫌いだと思うよ?……ま、これは勝手な予測だけど」
青磁はそう言い残して屋上を立ち去る。
ひとり残された銀朱は唇を噛みしめた。
「……何も知らないくせに……あんな優しそうな子……私だって傷つけたくないに決まってるじゃない……だけど断ったら私は――」
冷たい夜風が、容赦なく銀朱に吹き付け、彼女は小さく身を震わせた。
<銀朱……とりあえず部屋に。風邪、引く>
「……そうね……とりあえず部屋に戻るか……」
彼女はそう呟くと、重い足取りで部屋へと向かった。