4話 その手を星(きみ)へ伸ばすだろう。
──
いつもと同じ雨だと、そう思っていた。
だからきっと、この目眩も疲れが溜まっているせいだ。
桜導の書記になったし、学年も上に上がったから慣れていないだけ。
いわゆる五月病というものだとそう思っていた。
ゴールデンウィーク前の街は人が多い。寮生活に足りないと思ったものを買って、すぐに帰るだけのつもりだったのに。
(この雨は……)
普通の雨では無いと、直感で感じた。
一年生の頃、紺さんがさらわれたときの霧雨の術を思い出す。
だけど、この雨は違う。もっとどす黒くて、悪意のこもった術……
「う……」
気持ちが悪い。雨に濡れた部分が不自然に冷え切っている。
寒い。寒い。怖い。
──ゆらは壊れろ
頭の中に響く声。冷たく、低い、呪いのような。
──壊れてしまえ
どくん。どくん。
「ゆ……ら……」
何故だろう。自分はゆらではないはずなのに。半妖では無いはずなのに。
「違う……わたしは……」
わたしは下鴨浅黄。普通の……
──ああ、お前は忘れているのか。
忘れている?
──ならばこう呼ぼう。クリス博士の鉱石人魚──
やめて。その名前で呼ばないで。
──「神社姫 ナンバー3」
頭の中にノイズが走った。
ほとんど見えない途切れ途切れの映像と言葉の断片。
「──シルーディアの戦況はよくない。マレモノに対抗するために【人魚】の力が必要だ」
「……へえ、そのためにあんたたち、【人魚】を狩ったんだ。あんたたちの人体実験やオタノシミのせいで……そんな理由で……僕がもう最後の一体だよ。でもこのままで終わらせてなんてやらない……!」
「鉱石人魚。角石があるからむしろ別のあやかしに見えるね。そういえば人魚の中には神社を守っていた一族もいたとか」
「わたしが鉱石人魚を作るとなぜか女性になる。美しい姫たちさ」
「深潮のような男型はできないのか?」
「無理だね。彼はそもそも突然変異。それより彼をいたぶるのはそろそろやめるべきだ。シルーディアの……瀬入家が動きそうだ。おそらく今日、研究所できみは深潮に殺されるだろう」
「……クリス……お前!」
「……3人目の最後の神社姫。ナンバー3。君は現世へ逃げなさい。ああ、ちゃんと観えている。優しい人に出会えるよ。星を観る人にね」
「星を……観る人……」
遠のいていく意識の中で、それでも必死に唇でその名を紡ぐ。
「……夏向……かなた……先輩……」
──
その頃、星楽堂のバイトを終えた彼は、胸騒ぎを感じていた。
「嫌な雨だな……」
傘を差して、足早に家を目指す。
その途中で、不思議な男に声をかけられた。
「君、そのまま帰ってはダメだよ。大切な人を失うことになる。下鴨神社に寄っていくといい。もっともその前に、君は君のゆらとしての力を目覚めさせないといけないけど」
「……浅黄サンに何か……?」
夏向は何かを感じ取り、ヘアピンを外し髪を束ねて黒呂を呼び出す。
「……あなた、ゆらですね。人魚ですか?」
「おお、一発で見抜かれてしまった」
水色の髪の男は素直に感心した様子で頷いた。
「初めまして。僕はシルーディア四天王、上波深潮。君は、ああ珍しいな。空から落ちた「星」──天狼のゆら。時間がないのでさくっと言おう。黒呂、もうかなり君の存在は不安定だ。夏向くんのために生命力を肩代わりした結果かな。彼の胸にはネビュラストーンが埋め込まれてる。君が結晶化したからね」
深潮の言葉を黒呂は肯定する。
「……相違ありません。実際、僕は本体の星の分体。夏向が成人になるまで側にいれれば十分でした」
「君の言葉は夏向には?」
「……いいえ。僕と夏向は記憶を共有しません。僕は全て覚えていますが」
深潮は少し考えて、ぱちんと指を鳴らす。
「あ、あれ?」
「僕が夏向から分離している?戻しなさい!でないと彼の寿命は──」
「ああ、大丈夫。大事なことはちゃんと話さないとダメだから、お互い向き合って話せるように術を使っただけ。あんまり長くはもたないけど」
夏向はそっと黒呂を抱きしめる。
「シリウス……やっぱり君がずっと側にいてくれたんだ」
「夏向。僕はあやかしです。ただの犬ではないんです」
「そうだろうって思ってた」
黒い犬を撫でる夏向の手つきはとても優しい。
「……夏向。僕は天狼のゆらです。ですがもう力がありません。僕が消えてしまえば、あなたも死ぬ。あなたが生きているのは、僕がネビュラストーンとなって、あなたの体と一部同化したからです。永い星の寿命をほんの少し分けたから」
「そっか。俺はもう……」
「いえ、話を聞いてください。あなたはあまりに長く僕と共にいた。なので魂の大部分を共有しています。ひとつになればあなたは生きていける……僕はもうあなたと話すことは出来なくなる。だけどそれでも、あなたが生きていてくれるなら、それでいいのです」
地上に落ちた星の、小さな願い事。
いつも願いを叶える側だから、せめて優しいあなたと、あなたの大切な人を。
「シリウス……俺は大丈夫だよ。だって見上げれば星空にいるもの。そして俺の中にいてくれるんでしょ?だったら今までと同じ……」
「夏向」
「俺はさ、ずっと力が欲しかった。黒呂に頼らなくても、浅黄サンや紺たちの力になりたかったんだ。だから、むしろ俺からのお願い。……ひとつになって。何もできない俺に……力をください……シリウス……!」
黒い犬が、人間の青年の姿に変わる。それは黒呂の姿。夏向が初めてみるもうひとりの自分。
「そっか、そんな姿だったんだ」
「これでもうあなたは心狂いではない。共にいます。ずっと」
黒呂が夏向の細い体を引き寄せる。
別れではなく、約束の口づけ。黒呂の姿はやがてかき消え、後には黒い狼耳と黒いしっぽの生えた青年がひとり。
「夏向。黒呂は君の中にいる。君が今まで力を使えなかったり、黒呂になった後に気を失っていたのは、黒呂の星のあやかしとしての力が強すぎたからだ。でも、ひとつになった君たちは人とあやかしが半々で溶け合った天狼の半妖。もう大丈夫だから、安心して君の大切な人を助けにいきなさい。──そして、これはパートナーが行方不明になってる僕からの忠告。……【星】は掴んだら、離しちゃ駄目だよ」
「はい!」
下鴨神社へと急ぐ夏向を深潮は優しい瞳で見つめる。
「いいね、青春だ。……そうか、【人魚】はもう僕だけだけど……クリスの鉱石人魚……最後の【神社姫】は生きてるんだ……だったら、幸せになればいい。……良かったね、【浅黄】」
──
寒い。寒くて寒くて。暗い。暗くて暗くて何も見えない。
思い出した。全部全部思い出した。
目が覚めたのは培養槽の海の中。
銀色の髪の博士。男か女かはあまり記憶にない。
ただ、クリス博士、と呼ばれていたように思う。
わたしには名前がなかった。必要がなかった。
シルーディアの鉱石人魚。
その見た目と補助特化の術を使うことから【神社姫】。
【人魚】の中でも巫女の家系の鱗と体液、穢れを祓う水晶から作り出された。
前世は少しだけ覚えている。牡丹と名乗る男の神子だった。
龍に仕え、舞と身を捧げる神子。そのために女の姿をしていた。それぐらい。
他の鉱石人魚は、実戦の中で壊れた。
クリス博士は、その度に泣いていた。
わたしは不思議に思って尋ねた。
「なぜ、泣くのですか?わたしたちは対マレモノ用の鉱石人形の人魚型。人ではありません。戦闘兵器です」
クリス博士はそんなわたしの頭を撫でて、
「そう、よく科学者仲間には言われるのだけど、君たちは……鉱石人形は人とあんまり変わらないんだ。触れると暖かくて柔らかいし、何より君には感情があるようだから」
「感情?そんなものはむしろ不要では。わたしはむしろ欠陥品では?」
「いいや。それはとても素晴らしい。だから、下衆研究者たちに穢される前に、別の世界に逃すことにした」
遠くからガラスが割れる音が聞こえた。
「行きなさい」
クリス博士がボタンを押す。
黒い底なしの海に、わたしの体は吸い込まれた。
そして、あの時海岸で、出会った。
「浅黄」という名前をくれた。
あなたを見て、感情を持った。
そのあとトラックに惹かれて、完全に忘れていた。
一種の術で、わたしは自らを「下鴨浅黄」と定義した。
そんなわたしをあの人たちが見つけて、華茶花に入れてくれた。
それからずっと「下鴨浅黄」として生きてきた。
ああ、だけど。
わたしは戦闘兵器で、名前などなくて。
下鴨浅黄はどこにもいなくて。
ああ、全てが嘘で嘘で嘘で──
──
不意に頬に温かいものがかかって、意識を取り戻した。
赤い。これは、血だ。
そして、自分が何をしているかに気づいた。
「浅黄」
「あ……」
覚えている。知っている。思い出した。
「浅黄」という名前をくれた、星を観る人。
「か……なた……せんぱ……い」
「……夏向でいいよ……ちょっとだけ落ち着いた?」
「あ……いや……」
わたしを守るような氷の輪が、赤く濡れている。
ああ、この血は……
「……大丈夫だから落ち着いて。このぐらいの怪我なら大丈夫。浅黄は、ことぱーくで傷だらけで俺を守ってくれたから。だから俺が助ける番」
伸ばされる、手。
わたしは手を伸ばすのを躊躇う。
「……わたし、下鴨浅黄じゃないんですよ?鉱石人魚の【神社姫】モデル……人ですらないんですよ?」
「ああ、なんだそんなこと気にしてるんだ?」
肌を裂くのもお構いなしに夏向はわたしを抱き寄せて。
「俺だって、天狼のゆらだし、一度死んだみたいなもんだからもう人じゃないよ。耳としっぽ生えちゃったし。……俺は【浅黄】って星を見つけた。ずっと観るだけでいいと思ってたんだ。俺のこと覚えてないみたいだったし、でも」
「あ……」
夏向はそっと、触れるだけのキスを落とす。
「ごめん。俺は諦め悪いから、君という──俺が名付けた【浅黄】って星が欲しい。知ってる?生命は、星のカケラだって説。爆発した星のカケラから生命は生まれるんだって。だからきっと生き物って、手に触れられる星なんだよ」
ざわめいていた心が凪いでいく。
氷が、溶けて涙に変わる。
「だから、浅黄も落ちてきてよ。触れられる高さに、ね」
「夏向……」
「……捕まえた。もう離さないから、覚悟してね」
「はい」
──
こうしてひとりの人魚が、優しい腕に包まれた一方で。
雨は半妖──ゆらの者たちの心を静かに蝕んでいくのだった。




