3話 きみが忘れていたとしても、
――
傷だらけの腕で、きみを抱きしめる。
「違う」というなら俺だって同じ。
「心狂い」の能力者。人から恐れられる「天狼」のゆら。
「大丈夫、落ち着いて」
「だって、だって……全部嘘なんじゃないですか……わたしは……」
氷の破片が肌に刺さる。助けを、世界を拒むように。それでも。
「きみがあの学園で過ごしたこと、ことぱーくで偶然であって話して、そして俺を助けてくれたこと、それだけは嘘なんかじゃない。浅黄、きみのおかげで俺はこうして今、ここにいるんだよ」
「もう……もう近づいちゃダメです……今のわたしは……力を制御できない。やがて傷口から凍り始めてしまう……」
彼女の涙が、氷になってはらはらと散っていく。
「凍らないよ。だって俺は……あの星空で一番強く光り輝く星のゆらだから」
きっと力を使えば氷など溶かしてしまえるけれど、それでは水に属する彼女は干からびてしまうだろう。
だから、代わりに彼女にとっての「星」になる。
力ではなく、心を繋いで。
(黒呂、俺は……浅黄を選ぶよ)
「おいで」
震えながら、細い指が伸ばされる。あの日と同じ、水晶に覆われた指が。
――
はじまりは、幼い頃の遠い夏。
夕暮れの色が世界を優しく染める頃、本当に偶然、俺は彼女に出会った。
建物に隠れてしまうから海でしか見えない星を見てみたかった、それだけのことだ。
早く着きすぎたので岩場を探索していたところ、何かが海藻に埋もれて流れ着いていることに気がついた。慎重に海藻を取り除くと、美しい少女の顔がのぞいた。見た目はほとんど人間と変わらないように見えたが、彼女の頬や首は透明な結晶に覆われていた。
「ねえ、きみ、大丈夫?」
声に応えるようにゆっくりと開いた瞳の色は浅黄色。
「……わたし……ここは……?鏡界では……ない?」
「鏡界?ここは京都っていうところのえーっと……北の方」
「……ああ、もうひとつの世界に渡ったのね……では今のわたしは異形のはず……あなたは……逃げないの?」
逃げないよ、と言って上にパーカーをかけてあげた。少女は何も身につけてはいなかったから。
「……あ、ありがとう……ございます。あなたの、名前は?」
「夏向。かなたっていうんだ。きみは?」
「……神社姫……という種族らしいですけれど個体名は特には……」
「名前はないの?」
少女は小さく頷く。
「わたしは鏡界では、厄を祓い、魔を鎮めるための存在でした。マレモノとシルーディアが戦う際の後方支援で、更には見習いの身でしたから。他の神社姫たちも番号でしか呼ばれていなかったし」
「じゃあ、浅黄!ちょっと前に国語の授業で知って、どんな色だろうなって調べたんだけど、きみの目の色とおんなじ色だから、きみは浅黄!」
「浅黄……わたしは……浅黄……」
少女は嬉しそうに何度もそう口にする。
気に入った?と聞くととても嬉しそうに笑って、パーカーを返して海へ消えていった。
――
その少しあと、近くの神社に可愛らしい巫女が増えたという話を聞いた。
巫女服を着た浅黄に、初詣の際に会ったことがある。
彼女は笑ってお守りを差し出して、「あの時のお礼です、夏向さん」
そのお守りは実は今でも机の奥にある。確かに彼女と俺が一度出会っている証として。
ではなぜ、今の――ことぱーくで会った時の彼女が俺のことを忘れているのか。
――彼女はそのすぐ後に、トラックに跳ねられたのだ。この時に彼女が記憶を失いはしたものの、死ななかったのは俺が彼女を庇ったから。
今ならば、誰に助けられたのかわかる。
記憶を手放す前に視界に映ったのは、黒く大きな狼の姿だったからだ。
黒呂。いや、シリウス。
あの夜に家から去って戻ってこなかった大切な家族。
おそらく、この時に俺はシリウスと同化した。
「心狂い」の症状が現れたのは、この後だったからだ。
――
思いかえせば、ことぱーくで彼女と出会ったのは運命だった。
だってきみを名付けたのは、俺なんだから。
まるで発見者が星に名前をつけるように、「浅黄」と。
――
「ことぱーくの無料招待券かー」
地域情報サイトのプレゼント欄に思わず目が止まった。
エスカレーター式に大学に進み、憧れていた星楽堂のバイトに合格し、がらりと変わった環境で迎える、久しぶりの丸一日の休日。
春の日差しはぽかぽかと暖かく、窓の外に見える古都は新緑に染まっていた。
「浅黄サン、元気なのかな。桜導の書記になったとは聞いたけど」
大学部の校舎は高等部の敷地とはかなり離れているので、高等部に用事のない今、訪れる理由もない。この間、踏切怪人事件の時はとてものんびり話せる雰囲気ではなかったし。紺も臙脂も桜導の活動が忙しそうなので、遊びには誘いづらいし。そもそも自分も来週からバイトの身。
「……まあ便りがないのは元気な証拠だよね」
そもそも恋人でもないのだし。
そう思った瞬間、少し胸が痛むのを感じた。
「……恋人……か……」
今まで、同じ学園にいると知ってから実はずっと見守ってきたのだ。
きみに忘れられていても、忘れられないから。
夜空の星を観るように、きみを見ていられればそれでよかったのに。
だけどその胸の痛みは、訴える。
足りないと。自分が名付けた星を手にしたい。そしてお前は出会った時から「浅黄」という星に焦がれているのだと。
「……星は炎の塊だ。触れれば焼き焦がされてしまう」
自分にそう言い聞かせる。
人は空に手を伸ばす。だけど星には手は届かない。
だから見守るだけでいい。
それだけで、いいはずだったのに。
――
「……全く、櫟は随分とあの人形にご執心だな。まあ、こちらとしても外法の術を思い切り試せるというのはいい機会だが」
暗い洞窟の中に築かれた祭壇に置かれているのは薄汚れた真っ白な毛皮。一輪の真白き梅の花。そして、土で出来た腕。
「お前たちは私が、月輪紫土が葬りしゆらの欠片。ひとつはあらゆる災厄を祓う賢獣ハクタク。ひとつは「器」を愛し守り続けた愚かな梅のあやかし。ひとつは黄泉より夜のみ生き返る痛覚なき土塊の人形」
ぼうっと緑の炎が灯る。そしてその輝きは徐々に黒へ染まっていく。
「……お前……何をする……気だ……」
祭壇の隅で片腕の人形はその全てを見ていた。
「……簡単なことさ。祝いと呪いは紙一重。だからお前たちの性質を反転させ――半妖――ゆらのみを暴走させる雨を降らせ……」
どくん。
人形の中で何かがざわめく。
「桜導を、繚乱を!逃げ出した「本」を!そして海松、おまえを――」
「ぐっ……あ……」
男は心底愉快そうに嗤った。
「愛しい者同士で、同士討ちさせるのさ」
――
それは一見新緑を助ける万生雨。だがその優しいはずの雨は――
半妖――ゆらを狂わせる猛毒。外法の術。
ゆらは誰ひとり、逃れる術はない。
ただひとり培養槽の中で眠り続ける、ひとりの半鬼を除いては。




