1話 差し出されたその手を
炎が燃えさかっていた。紅い景色だけが今も焼きついて、離れない。
そんな中、黒い服の女が傷だらけの朽葉を見下ろしていた。
「……あら、貴方の右の瞳、もう使い物にならないのね?」
女の指が、彼の右の瞳に触れる。
「……こんなに綺麗なのに勿体ない。その真っ赤な瞳、エクリプス様に絶対に似合うから……頂戴?大丈夫、痛くしないわ。そして代わりの瞳もあげる。ちゃんと視える瞳を、ね」
「っ!」
「……その瞳でしっかり見ておきなさい。貴方たちの【太陽】が地に堕ちる様を」
「……やめろ……彩堵…さん!」
目を閉じてぐったりしている彼は、片方の目の色が変わった瞳を開いて悲しそうに笑った。
「……朽葉、そして真赭。君たちは生きて。俺の分まで、ね。……そしていつか――」
最後の言葉は、聞き取れなかった。
――ああ、これは終わりだ。
確かに見たはずなのに、忘れていた風景だ。
今なら思い出せる。今なら理解できる。
朽葉が離れていった理由も、あの人の行動の意味も。
僕は疑いもしなかった。
父親から受けた仕打ちも、全ては当主になるためで修行なのだと。
母親は病気で死んだのだと。
「繚乱」が襲われたのは不幸な事故だったと。
嘘だ。全てが嘘だった。
僕が信じていたものは全て嘘だった。
全ては父親の、月輪紫土の計画。僕も母も、繚乱さえも駒に過ぎず。
「彩堵さんは気付いていたんですね。全てに……」
「だからお前たちを守ろうとしたのだ、俺も、彩堵もな」
低い声。今ならその声の主を思い出せる。
ぶっきらぼうながらも優しかった人。だれよりも彩堵さんの傍にいた人。
「灰楠さん……僕を、恨んでもいいんですよ?だって貴方は、」
「いや、恨むのは自身の弱さだ。ある意味では真に繚乱を滅ぼしたのは俺だ。敵の甘言に乗ったのだから……因果応報だろう」
灰楠の手がそっと頭を撫でる。
「これは夢だ。そして死者の戯言だが……彩堵も俺もそして朽葉も、お前には生きていて欲しい。繚乱は確かに壊滅し、彩堵は世界から記憶を消された。だが、朽葉もお前も……おそらく彩堵も生きている」
「……彩堵さんが……生きて……?」
灰楠はこくりと頷く。
「あいつの魂の輝きは消えていない。誰よりも傍にいた俺だからわかる。
彩堵に伝えてくれ。あいつは……人を照らすことしか考えず、自らの落日さえも進んで受け入れるだろうが……照らされた者は再び陽が昇ると信じている。だから俺は、彩堵にこう言いたい……」
「お前だって、生きることを望んでもいいんだ、と」
――
「う……」
冷たく冷え切った空気が頬を刺した。
あれからどのぐらい経ったのかもわからない。
はくたくとして覚醒して、その力で炎を鎮めて結界を張って、疲れ果ててそのまま眠っていたからだ。辰砂の声は、聞こえない。
「あ……」
頭に手をやると小さくなってはいるが、角が生えているのがはっきりとわかった。
「……気がついたか」
「……貴方は?」
結界の中に入り込める相手など只者ではない。疲れて術が不完全だった可能性もなくはないが。跳ね髪の、見慣れない男。
「……少なくとも今はお前の敵ではない。もうすぐ迎えも来るだろうから……何か食べるか?安心しろ、市販品、未開封だ」
男はそう言って未開封の抹茶プリンを差し出した。何故、抹茶プリン。
「……いただきます」
抹茶プリンの上に不思議なぺんぎんのような生物がくっついていたので、そっとどかしてプリンを口にする。甘さと苦味とともに、あることを思い出した。
「彩堵さんもしょっちゅう肩にぺんぎんぽいのを色々くっつけてたっけ……」
勝手に乗ってくるんだ。懐かれてるのかな、毎日のようにそう言っていた。
そして彼の好物が抹茶スイーツで、特にプリンだった。
「……美味いな。甘いものというのは美味しい。綺麗なものも多い」
警戒心は解かずに男を眺めるが、敵意は感じられない。むしろ――
(彩堵さんに、似ているような……?)
「お前は、何が好きなんだ?」
「え、ええと……そうですね甘いものは嫌いじゃないです」
「良かった。ああ、迎えが来たな」
男はとても優しい瞳で微笑んで、洞窟に現れた茶トラの猫を手招きする。
猫はにゃあと鳴くと、金色の髪の青年に姿を変えた。
「朽葉、今度は間に合ったんだ。よかった。真赭さん、初めまして。俺は朽葉の石妖、透輝石――こと透輝ハルです。手を繋いでください。朽葉のところへ飛ばしますから」
「朽葉が……僕を?」
信じられなかった。再会した時だってあんなに冷たかったのに。
むしろ僕は彼が、僕のことをひどく嫌っていて、消えてくれて喜んでいるのだろうとまで思っていたというのに。
「ええ、ものすごく心配していました。貴方がいなくなった時、悪夢を見てよくうなされていましたよ」
その言葉を聞いた男は、苦笑してこう言った。
「朽葉は相変わらず素直じゃないなあ。さあ、決意を果たしに戻るんだ。ずっと応援しているよ、真赭」
「え……?」
空間が歪んで、意識が再び途切れる前、目の前の不思議な男が発した言葉は。
姿が全く違うのに、まるで彩堵さんの言葉のように聞こえた――
――
「にゃあ」「みゃあ」「にゃああ」
目を覚ますとたくさんの猫に囲まれていた。
腹の上に乗っているのは、さっきの茶トラ猫だ。
「……まそ……お……?」
そして泣きそうな瞳で覗き込んでいるのは、見覚えのある黒髪の――
「……朽葉」
そっと手を伸ばして頬に触れる。
「良かった……今度は……今度は手が届いた……」
赤い瞳からぽたぽたと雫が落ちて頬を濡らす。ああ、そういえば昔の朽葉は泣き虫だった。僕が怪我をすると、痛そうだって代わりに泣いていたっけ。
「……ただいま、朽葉……まだちょっと起き上がるのは無理かもだけど」
「お帰り……真赭……」
朽葉は僕の上半身を起こし、空いている手で何か甘いものを口に押しこんだ。
「……ねこちょこだ。疲れた時には甘いものって言うだろ。……なんか食べたいものがあったら言ってくれ。作るか、買ってくる」
「ええと……」
少し考えてから、
「じゃあ梅おにぎりと抹茶プリン」
朽葉はどういう組み合わせだ?と首を傾げながら買い物に向かった。
静かな部屋の中でひとり思う。
梅と抹茶。
ひとりは真白き梅の花のあやかし。
ひとりは不思議な男と、太陽のような憧れの人。
帰ってきたら、朽葉に語ろう。
遺された記憶と思い出した記憶。
離れていた間の出来事を。
もう、無理に手を離す必要なんてないのだから。
――
家を出た朽葉は門の前で固く拳を握りしめる。
「今度はこの手が届いたんだ、だからもう喪ったりしない」
あの頃はまだ小さな子どもで、陰陽師としても未熟で、奪われるままだった。
瞳も、彩堵も、灰楠も、真赭も。
そして最近も、一度は命すら奪われかけ、今度こそ永遠に真赭を喪うところだった。
「傍観者ではもういられない。これ以上奪わせてたまるか。海松のことも、これ以上好きにはさせない」
足元にふわりと温かいものが触れる。
「ハル。力を貸してくれ。戦うと決めたから、大切なものを守り、奪われたものを取り返す力を」
その想いに応えるように、茶トラの猫はにゃあ、と鳴いた。




