9話 茨姫
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「……甘い……蠱惑的な香りだわ……」
ほとんど灯りも消えた京都の街を廃ビルの上から見下ろしながら、女が言った。
「……同族の放つマナの香り……ああ、早く食べてしまいたい……」
女はそう言うと砂色の衣装を翻し、音もなく路上に着地した。
「ローズ・ガーデン・カフェ。まずはここの薔薇の味見をしましょうか?」
女は薄く笑い、咲き乱れる薔薇に触れる。すると女の触れた薔薇は見る間に色褪せ、乾いた砂となって崩れ落ちた。
「ああ、やはり大量のマナを集める【蒼月薔薇】の味は格別。さて――」
女は同族のマナが放つ匂いを迷いなく辿り、離れの小屋のドアを開けた。
その小屋の中では金色の髪の少女が寝息を立てていたが、気配を察したのか彼女は目を覚ました。
<ナノカ起きて!逃げて!……っつ!>
「ラリマー!?……な、何……これっ……」
石妖は満月の光の中でだけ実体化できる。ナノカを守ろうとしたラリマーの体は無数の茨の蔓に絡めとられていた。そしてその茨が食い込んだ場所からは血が滲んでいる。そしてそれは、石妖の影響を受ける契約者である彼女の体も同じように。
「ようやくお目覚めかしら。プリンセス・ローズ」
「貴方は……誰?なんでこんなことするの!?ラリマーを離して!」
女は薄く笑い、蔓の呪縛を解いてラリマーを床に投げ出すと白い指でそっとナノカの頬に触れた。
「そうね……久しぶりに同族を見たから、『食べたく』なっちゃって」
「……それが、貴方の目的なんですね……」
ナノカは何かを決意したように真っ直ぐに女の瞳を見た。
「……わかりました。貴方が……私の両親……最も本当の両親ではないけれど……そしてラリマーに危害を加えないというのなら……」
<だめ……だめだよ……ナノカ……!>
「……私を……貴方に……」
(私は……私を育ててくれた両親を傷つけたくはない……本当の娘ではない、しかもマナを吸わなければ生きていけない「月の子ども」……いわゆる吸血鬼の私を……愛してくれたから……)
「いいの?貴方、あの紅髪の男の子が好きなんでしょう?」
「……だからこそ、です。この想いだけは貴方にも……誰にも触れさせない。そもそもこんな想い、私は抱いてはいけないから……だけど、後悔なんかしていません。私は……幸せだから」
本来迫害されるはずの、人とは共存できないはずの「月のこども」。
今でこそマナタブレットという蒼月薔薇でできた薬のおかげで普通に生活できているけれど、幼い頃のナノカは両親からのマナで―その血を飲んで育ってきた。月のこどもと違って人間は肌に傷を負えば、治るのに時間がかかる。
「私はずっと……誰かに傷ついてもらうことで生きてきたんです。だから……もうそんな人は見たくない。だから私は……自分がいくら傷ついても……構わない」
「そう……貴方は心も体も……綺麗なままなのね……『砂薔薇の女王』<サンドローズ>である私とは違う……気高き『薔薇の姫君』……」
「っ……あうっ!」
砂薔薇の女王はナノカの体を締め付ける茨にさらに力を込める。
「……ああ楽しみだわ……最高の絶望を見せて……穢し尽くして……地の底まで堕としてあげる……」
女はそう言うと巨大な蔓と共にナノカを連れてその場から消えた。
<ナノカ……誰か……誰かに知らせ……ないと……>
ひとり残されたラリマーは思い出す。
昼間、このカフェに来ていたナノカの想い人。紅の髪を持つ人の好さそうな青年。
<エンジ……さん……>
だけど、どうすればいいのか。実体化したとはいえラリマーの姿は人魚だ。つまり陸上ではまともに動くこともできない。
「……ったくどうなってるんだ、これ。部屋中が蔓だらけじゃねえか……まあお前の力のおかげでここまでこれたわけだけど…… 文句言うなって?……わかってるよ……それよりそこの石妖を何とかしてやらないとな」
<……誰……ですか……?>
石妖のことを知っている人間はそう多くはないはずだ。ラリマーは自らを守るように傷だらけの体を抱きしめる。
「……んーそうだな、色々訳ありで詳しくは話せないんだけど敵じゃないとだけ。とりあえず俺のマナ、受け取れよ」
<……は、はい……>
ラリマーは警戒しながらも傷ついた手を、男の手にそっと重ねた。途端に青い光がラリマーを包み込み、体の傷が塞がっていく。
(……このマナの強さ……まさか……この人は――)
「……よし、これでとりあえずは大丈夫だろうから、何があったか話してくれるか?」
<ありがとうございました……えっと……実は――>
「……マジかよ……」
ラリマーから何があったのかを聞いた男は顔をしかめた。
「契約者がひとり欠けたら色々大打撃だな……ラリマー、とりあえずそのエンジって奴に伝えろ。それが最善だ」
<でも、ぼくは水辺しか自由に移動できないんです……エンジさんこの時間じゃ寝てますよね?しかも朝になると実体化ができなくなる……>
「華茶花学園に確か噴水ぐらいならあったよな……よし、それは任せろ。ラリマー、とりあえずこの飲み物の中に溶けてくれ。」
<は、はい……あ、あの貴方の名前だけ教えてもらえませんか?>
「そういやまだだったか。蒼……ソウだよ」
<……ソウさん、急ぎましょう!>
「わかってるって」
――
「眠れない……」
ソウとラリマーが全速力で華茶花学園に向かっている頃、臙脂はなんとなく落ち着かない気持ちで窓から外を眺めていた。 いつもならとっくに眠っている時間なのだが、奇妙に胸がざわざわする。
(……ナノカ……)
昼間見た金髪の少女。笑顔で隠しているものの、目の奥に暗い影があることを臙脂は見抜いていた。あの時臙脂を見つめた瞳は優しくて、でも同時にひどく悲しそうだった。
「……もしかして……ナノカに何かあったのか……?」
その時、窓に小石が当たり臙脂は衝動的に窓を開いた。
「……へえ、なかなかカンがいいみたいで話が早そうだ」
「!?」
臙脂は驚いて思わずほっぺたをつねった。
窓の外に男が浮かんでいた。いや、正確には男は巨大な龍に乗っていた。
「……俺、寝てたのかな……」
「いや、夢じゃないから。えーと、俺はソウ。話したいことがあるんだよ、ちょっと窓から出てこの龍に乗ってくれない?」
「は……はあ……」
もうどうにでもなれ。そんな気持ちで臙脂は窓から巨大な龍に飛び乗った。
「大丈夫、ちょっと華茶花学園の裏庭の噴水に行くだけだから」
「さて、と。よし、話していいぞラリマー」
噴水に着いた男と臙脂は龍から降りた。彼らが降りると同時に龍はふっと姿を消す。
(もしかしてあの龍も石妖とかいうやつなのかな……俺にはまだいないけど)
ぱしゃん、と水音がして、噴水の中に人魚が姿を現した。
「龍の次は人魚……?これ本当に夢じゃないんだよな……?」
<夢じゃ、ないです……え、えっと初めまして。エンジさん。ぼくはラリマー、ナノカの石妖です>
「……ナノカの?あれ、でも石妖って契約者からあまり遠くには離れられないんだったか?ってことはナノカもここに?」
<……いいえ、ナノカは……連れ去られました>
「……何だって!?」
ラリマーの言葉に臙脂は顔色を変えた。
<……つい先ほどです。『砂漠薔薇の女王』と名乗る女が突然襲撃してきて、ナノカはぼくや両親を逃がすために……生贄になったんです>
「生贄だって?……ラリマー、場所は?」
<……わかりません。けれど『砂漠薔薇の女王』がナノカと同族なら……大量のマナを必要とします。薔薇や植物もしくは水がたくさんある場所……>
「……植物園……か……よし、とりあえず俺一人だけでも先行する。瑠花たちにも連絡するか」
臙脂はそう言うと拳を握りしめる。
<エンジさん……その、ナノカは……>
「……ナノカが人間じゃないって言うんだろ?……薔薇っていうと「吸血鬼」か。そんなこと、俺には関係ないよ。昔から、人以外のものは見慣れてるしな。植物園にも知り合いがいたはずだ」
<……気づいていたんですか?いつ……>
臙脂はポリポリと頭を掻きながら、
「えーと初めて出会ったとき。だからあの祭りの夜。京都の祭りって結構人以外のものも楽しんでるんだぜ」
<……あの、必ずナノカを……お願いします。ぼくの力は元々戦闘向きではないし、ナノカがいない今、あまり役には立たないから……こうして貴方に頼ることしかできなくて、ごめんなさい>
「何言ってんだよ。お前だってこうやって俺に伝えに来るためにがんばったんだろ? ひとりじゃ無理なら頼ったっていいんだよ。……ナノカにも言ってやらないとな。ずっと重いもの、ひとりで背負ってきたんだろうから……よし、善は急げ、だ」
「じゃ、部屋に寄った後で植物園までは送ってやるよ。エンジ」
「助かります、ソウさん」
(待ってろよ……絶対……助けてやるから)
臙脂は支度を整え、ソウと共に植物園へ向かった。
――
「薔薇に囲まれて眠る薔薇の姫……とても画になるわね?」
閉館後の植物園のローズガーデンは血色の薔薇の蔓で覆い尽くされ、檻のような形状に変貌していた。
そしてその中心には色とりどりの薔薇に囲まれた、一際大きな薔薇の木。その薔薇の木の中心には体中を無数の茨に囚われたナノカの姿があった。
「んっ……んんっ……!」
茨が少し動く度に、彼女は小さく声を漏らす。
「ふふ……いいわ……その甘い喘ぎ声……わたくしにもっと……もっと聞かせて……」
「……あ……!いや……痛い……っ……!」
砂漠薔薇の女王が右手を上げると、茨の締め付けが強くなる。小さな棘が、細い体に食い込んでいく。滲んで一滴零れた血で、血色の薔薇と、蔓が少しずつ成長していく。
けれど、再生能力を持つナノカの体は、そのぐらいの小さな傷など一瞬で治してしまう。自らも吸血鬼である砂漠薔薇はそれを知るからこそ、最も残酷な方法でナノカを捕らえ、そして彼女のマナを吸収しているのだ。
「大丈夫よ、痛みなんていずれ快感になるわ……慣れていくもの……だから、もっと鳴きなさい。綺麗な声で……」
(……痛い、体中が……だけど……私にマナをくれていた両親はきっと……もっと……)
「……あ……あああああっ!」
(……これが今まで人に与えていた痛みだというのなら……私は……)
体が折れそうなほどの強さでその身を締め付けられ、ナノカの意識は闇へ沈んだ――
――
「よし、着いたな。じゃ、頑張れよ『王子様』」
「ソウさん、助かりました。これから先は俺ががんばります」
「おう。しっかりな。じゃ、またどこかで」
ソウは闇の中へと姿を消した。
臙脂はまず、植物園の入り口の大木に呼びかけた。
「おい、じいさん!俺だよ!」
<おお……ハゼか……植物たちが怯えておるが、何が起こっとるんじゃ?>
「俺は臙脂だって。まあいいや。とりあえず枝伸ばして俺を中に入れてくれないか?」
<承知>
大木の枝が伸び、臙脂の体に巻き付く。大木はそのまま臙脂を持ち上げ、植物園の中へそっと降ろした。
「サンキュ、じいさん。ちょっと聞きたいんだけどこの植物園で薔薇が咲いてるのってどこら辺?」
<薔薇か?多分一番奥じゃな。気を付けるんじゃぞ>
「一番、奥か。まあ迷ったら他のやつにも聞いてみる。じゃあな!」
臙脂は迷わずに博物館の奥に向かって駆け出す。
そんな臙脂を冷めた目で見つめる影が、ひとつ。
「……お人好し」
<銀朱、いいの?>
「……いいの。青磁にも臙脂にもあの子にも悪いけど私は……生きていたいの」
銀朱は闇に紛れるように植物の間を渡っていく。
「……だから【狩る】」
――
「気を失ってしまったかしら?もう少し加減しておけばよかったかしらね?」
目を閉じたまま、力なく囚われているだけのナノカを見て、砂漠薔薇はつまらなさそうに言った。他人の苦しむ姿を見るのが何よりも好きな彼女は無反応な相手程嫌いなものはないのだった。
「ああ、つまらない」
砂漠薔薇はいら立ちを隠さずにそう言うと鋭い爪でナノカの服を引き裂く。胸元が露わになり、そこにははっきりと月の子どもの証であるしるしが見えた。
「だけど、このしるしを助けにくるであろう『王子様』に見せたらどうなるのかは楽しみだわ……そもそもすでにこんなあられもない姿だけど……ふふ」
「テメエが砂漠薔薇の女王とかいう厨二野郎かよ」
「あら、噂をすれば。ようこそ……錦 臙脂」
「……名前知ってるのか。まあ、そんなことはどうでもいい。俺はあんたを一発ぶん殴りにきた。 ナノカを解放しろ……今すぐに!」
臙脂はそういうとか構えに入った。全身からすさまじい気迫を放ちながら。
「貴方みたいな暑苦しい人はタイプじゃありませんわ。紺はすごく……おいしそうで、虐めて差し上げたいですけど」
砂漠薔薇はつまらなさそうにそう言って、手をかざす。
「……紺にまで手を出したらマジで消し炭にするぞお前……喰らえ!」
「……はあ……お相手して差し上げましょう……捕らえなさい!」
砂漠薔薇の操る無数の蔓が臙脂目がけて襲い掛かるが、臙脂は炎を纏わせた拳と足で蔓を焼き切り、元々の身体能力も活かして軽々と交わし、砂漠薔薇のみぞおちに炎を纏った強烈な一発を叩き込んだ。
「……属性的に分が悪すぎましたわ……そろそろ夜も明けますし……覚えておきなさい……!」
砂漠薔薇は忌々し気にこう言うとその場から消えた。
同時に地平線が白み始め、血色の薔薇が砂になって崩れていく。
「……ナノカ!」
臙脂は宙に投げ出されたナノカを受け止めようとする。
「……残念、少し遅かったね」
しかしナノカを受け止めた人影は、臙脂にそう冷たく言って彼女にナイフを突きつけた。
「……お前……どういうつもりだよ……」
「……ナノカ。貴方を狩らせてもらうよ。……私のために……」
「……事情が……あるんですね……」
意識を取り戻したナノカはうっすらと瞳を開く。
「……私で……良かったら……どうぞ……」
「馬鹿!ナノカ何言ってるんだよ!銀朱、お前もやめろ!」
「……ごめん……」
銀朱は無表情のまま、ナイフをナノカの胸に突き立てようとする。しかし――
「……ダメだ……やっぱりできない……私は……貴方みたいな子……傷つけられない……自分が傷つけられることわかりきってて……最悪死ぬかもしれないのに……平気で受け入れちゃうような優しい子……馬鹿だよ……」
「銀朱……」
臙脂はそっと、銀朱の肩に触れる。その肩はひどく震えていた。
「……俺は何も聞かない。銀朱にしろナノカにしろ色々事情があるんだろうから。けどな……俺はどっちにもいなくなって欲しくはないよ」
「エンジ……さん……」
「とりあえず、これでも羽織ってろ。前を閉めればナノカなら全身隠せるだろ」
「……ごめ……なさ……い」
「気にするな。ナノカも銀朱も抱え込みすぎなんだよ。この植物園の中でなら誰にも聞こえない。だから思いっきり泣け」
「……臙脂……私はあんたみたいなの……大嫌い……優しすぎるんだもん……何なのよ……!」
柔らかな朝日が差し込む植物園で、臙脂は泣き続けるふたりの少女に、ただそっと寄り添っていた。
ほんの少しでも、彼女たちが抱えてきたものが軽くなるようにと願いながら。




