83.望みと感情
婚約解消から四日。
殿下は時間の許す限り私に会いに来ていた。
朝も、昼休みも、放課後も、そして帰宅後も。
誰がどう見ても殿下が私を溺愛しているのが一目瞭然だ。
人前では必要以上に近付くことはしないけれど、近付かないだけで言葉で遠回しに愛を表現されるのでむしろキツい。
心がゴリゴリと削られていく。とっくに私のライフは0だ。オーバーキルにも程がある。
誰かに助けを求めたいけれど、彼を止められる人なんていやしない。
だって皇子だから。いくら学園の中では平等といえども、殿下が誰に対しても隔てなく優しく振る舞おうとも、その身分は覆らない。
唯一殿下を叱ることのできるうちのお兄様は殿下の味方だ。
つまり、自分でどうにかするしかない。
「あの、こんな頻繁に会いにこられると……その、困ります……」
今日の放課後もわざわざ教室まで迎えに来た殿下に小声で抗議する。
私の立場というものを少しは考えていただきたい。学園内では色々な推測が飛び交っているが、私は皇子との婚約を解消されたばかりの傷物の令嬢なのだ。
それを元婚約者の皇子が構い倒すなんて、傷口に塩を丹念に塗り込むようなものだ。
だって婚約解消の理由が、私が殿下の気を引きたくてやり過ぎてしまった、というものだから。
そりゃもう私に同情の視線が突き刺さる。
私に好意的だった令嬢たちすらも殿下が来るなり言葉を濁し視線を逸らしてどこかへ去っていく。
殿下は私を孤立させたいのか?
「どうして困るんだい? マリアだって僕と毎日会えて嬉しいだろう?」
「そ、それは…………いえ、そうではなくて、殿下が来られるので友人と過ごす時間がなくなるのです」
「? 僕がいても気にせず友人と過ごすといい。隣で待ってるよ」
「そんなことできるわけないでしょう? ご自分の立場をお考え下さい」
「学園内では生徒はみな平等だよ。僕も皇子としてここにいるわけではないしね」
「そのような平等が本当にあると思われているのですか?」
「僕が身分を振りかざして横柄に振舞ったら、それこそその平等はなくなってしまうよ」
「それはそうですが……」
なんだか話がズレてしまっている。
「いえ、そうではなくて……その、学園内では……あの、会いに来ないでいただきたいのです」
「そんなこと言われると悲しいな。僕はこんなに君に尽くしているのに……」
「そっ、そのようなことを人前で口にしないでください!」
ああ、もう! ここで殿下と話そうとしたのがそもそもの間違いだ。
「どこか人のいない場所で話しましょう」
「いいよ。二人きりになりたいんだね」
「違います!」
私は荷物を掴んで早足で歩き出した。
とにかく誰もいない場所ならどこでもいい。
そういってどこに行くか悩んでいると、何故か皇宮に行くことになっていて、そして何故か今殿下の部屋の扉の前にいる。
流されやすい自覚はあったけどこれはさすがに酷い。
「さぁどうぞ。もちろん誰も居ないし誰も来ないから安心して」
促されるまま部屋に入る。
いや本当は駄目なんだろうけど、どうやって断ればよかったんだ。
でもこれ、誰かに見られたら今度こそヤバくないか。
もう殿下は婚約者ではないのだ。
そんな男性の部屋で二人きり……。誰かに見られたらおしまいじゃないか。
いや、既にもう見られている。ここの使用人達にバッチリ見られてしまっている。
噂っていうかもはや既成事実ができてしまった。
まだ何もしてないけど!
「あ、あの、やっぱりここは問題だと思うので、せめて人目のある場所で……」
「駄目だよ。君が人のいない場所と言ったんじゃないか。僕は君の望み通りにした。だからここにいて」
腕を引かれて抱き締められる。
ドキドキして殿下のこと以外何も考えられない。
私は、殿下が好きだ。
そして彼はマリアのことが好きだ。
今の私は、マリアの身体を使って彼を騙しているだけにすぎない。
自分に向けられていないその愛情を、それでもと欲して、この関係に縋っているだけだ。
あさましいという他ない。
それでも、好きなのだ。
彼が私のために何かをしてくれる事に喜びを感じてしまう。嫌だといいつつも拒めない。
だって本気で拒んでしまったら、彼が離れていきそうで怖いのだ。
頭では離れるべきだと思うのに、これではいけないとわかっているのに、私は彼を突き放せない。
兄妹のような関係を目指すだなんて、尤もらしい理由をつけて彼と一緒にいたいだけだ。
好きという感情はこんなにも激しく苦しいものだっただろうか。
殿下が目の前にいるというだけで全てが見えなくなる。全てがどうでもよくなってくる。
何故私は彼をここまで好きになってしまったのだろう。
顔をあげると殿下が嬉しそうに笑って私を見つめていた。
「マリアも嬉しいみたいだね。……こうやって二人きりになるのは久しぶりだ」
殿下は私の額にキスをした。
駄目だ。駄目なんだけど嬉しい。
「わ、私は……、もう婚約者ではないのに……こんなこと、許されません……」
「どうして? 僕は兄として君と接してるつもりだよ。……君はそう思っていないようだけど」
「あ、兄は妹を抱きしめないしキスもしません!」
「何を言ってるんだい。レオもヨハンも、兄ではないけどクラウス公爵も、君の家族はみんな君を抱きしめるし頬や額にキスするじゃないか」
「……た、確かに……」
あれ、兄妹ってどんな関係が正しいんだっけ。
「それに僕は今まで君に対してやってあげたことしかしていないよ。頭を撫でるのも、抱きしめるのも、頬や額にキスをするのも、君を心配するのも、全て兄として振る舞うと決めたときにやっていたことだ。僕は君の望み通りにしているよ。それでも不満かい?」
「それは……でも…………」
婚約者だったときと何ら変わりのない行動だ。
「マリア、僕は君の望みを叶える。それが僕の君に対する愛だ。君が望むことはなんでもしてあげる」
殿下は私の頭を優しく撫でた。
「だから、君が本当に会いに来てほしくないのなら……残念だけど我慢するよ」
「私は……」
会いたい。
近付けば近付くほど離れ難くなる。
以前の決意なんてどこかに消え去ってしまった。
会う度に触れられる度に好きという気持ちが強くなる。私はもうこの気持ちを制御出来ない。
私は殿下の背中に腕を回して、小さな声で答えた。
「会いたい……です……」
会いたくないとは言えなかった。
そう言わなければならなかったのに。
「そう言ってくれて嬉しいよ」
「でも、学園内では嫌です」
それが、私にできる精一杯の拒絶だ。
「え?」
「私の部屋に会いに来てください」
「それは……ずいぶんと積極的だね」
「でも、……来る時は必ずルカと一緒に来てください」
「…………それだと二人きりになれないじゃないか」
殿下は不満げに眉根を寄せる。
そんな表情も愛おしく感じてしまう。
ああ、好きだ。
「そうですね。でも今は……今だけは二人きりです……」
私は殿下を見つめた。
こんなことは言ってはいけない。
私は彼の隣にいてはいけないのだ。私はマリアではない。だから離れなければならない。
私がここにいること自体が彼への裏切りだ。
それでも、私は彼に触れたい。
殿下は何かを堪えるように一度ぎゅっと目を瞑り、そして小さく息を吐き出していつもの笑顔を浮かべた。
殿下の身体が離れていく。
「ずっと立っていても疲れるだろう。お茶を用意するからそこで座って待っていて」
促されてソファーの方へ目を向ける。
ソファーの前に置かれているローテーブル。
前来た時と変わらず豪華な装飾で一目で高級なものだとわかるそれの上に豪華な金の装飾が施されたガラスケースが置かれていた。
そしてその中には……金の瞳の眼球が入っていた。
「っ、あれ、は……」
眼球愛好家が世の中に居ることは知っているけど、自分に関わりのない創作の中の話なら大好きだけど、いざ目の前に出されるとおぞましさに鳥肌が立った。
殿下のことは大好きだけど、これは愛せない。
瞳が綺麗なのはちゃんとあるべき場所にあるからで、それを取り出したら駄目だ。受け入れられない。
私はグロ耐性かなり高いけれどこれは無理。
何が無理って、綺麗に飾ってあるところが無理。生理的に無理。
もしかして、目の前にあるあれは殿下が誰かの目をくり抜いたものなんだろうか。
わざわざあんなのに入れて飾っているのは戦利品か、それとも美術品のつもりなのか。
クローゼットとか開けたら大量の眼球が並んでたりするのかな。
怖っ。
「あっ……」
焦ったような殿下の声が聞こえた。
見てしまったからには私も目をくり抜かれたりするのかな。こんな猟奇的な趣味、バレたらヤバいもんね。
今すぐここから逃げ出したい。
殿下の方を見ると、明らかに狼狽した様子で顔が強ばっていた。
「ち、違うんだ! あれは、その、ルカの目で……」
伸ばされた手を咄嗟に払った。
「ち、近付かないでくださいっ……!」
「待って、マリア! 僕の話を聞いて! あれはルカの目で、怪しい場所の監視に使っているんだ。だから決して誰かを傷付けたわけではない」
ああ、殿下の趣味ではなかったのか。
それはよかった。目をくり抜かれる心配はなさそうだ。
でも無理なものは無理。
三歩ほど後ずさる。少しだけ殿下との距離が開いた。
「ご、ごめんなさい……。ちょっと、今は無理です……」
申し訳なさを感じつつも私は彼から目を逸らした。
 




