5.マリア・フォン・クラウス
部屋は静寂に包まれていた。
時刻も22時を回り、いつもならそばに控えているはずのサラも部屋にさがっている。
机に向かってランタンに魔力を込めて灯りをつけた。
この世界は科学のかわりに魔法の技術が発達しており、近世ヨーロッパに近い世界観のわりには清潔で快適な生活を送ることができている。
(上下水道も整備されてるし、電化製品はないけれど魔道具で大抵のことはできるし)
正直中世から近世の衛生観念は現代日本で生きる私には受け入れられない。
悪役令嬢ものにハマった後、貴族の生活について調べたが正直ドン引きしたものだ。
すべては魔法という摩訶不思議な力があるからこそこの優雅な生活が成り立つのだ。
このシステムを考えた人に感謝しなくては。
この世界に関しては、きっと私の脳内が適当に辻褄あわせてるんだろうけど。
それなら私に感謝するべきね。
ちょっと得意気になりながら手元のノートを開いた。
ゲームの本編はマリアが退場するまで九ヶ月という長丁場、それに加えて私がここに来たのは二ヶ月前。
約一年もの間ゲームの内容を詳細に覚えておくことなど凡人の私にはできない。
そのため、以前読んだ漫画に倣ってゲームのルートやイベントの内容、キャラ情報を覚えている範囲でまとめておいたのだ。
そうしてできたノートに書かれているのはすべて日本語である。
情報をノートにまとめるという点を不思議に思っていたのだが、実際に自分が悪役令嬢という立場になって理解できたことがある。
(言葉が違うから日本語で書いてあるかぎり誰も読めないのよね)
絵や図をいれるのはさすがにまずいだろうが、これなら人に見られたとしても問題はない。
自分の知識を一通りまとめてみると、不思議と思考がすっきりしたように感じた。
あらためて私がなりかわってしまった悪役令嬢――マリアについて考える。
青みがかった銀の長い髪に赤茶の瞳、細身の身体と豊かな胸。
お淑やかで気品のある物静かな少女。それがマリアだった。
「それが、ヒロインへの嫉妬に狂い謀略を企てることとなる……」
マリアが事件を起こすのは殿下ルートだけであり、他の攻略キャラのルートでは序盤から中盤にかけてちょっとした嫌みを言ってくるくらいだ。
(それは殿下がヒロインのことを好きになるからなんだけど……)
学園に入ったマリアはヒロインと同じクラスだった。
日を追うごとに殿下の気持ちがヒロインに向いていくのを間近で見ていたのだろう。
ヒロインが殿下を選ぶと嫌がらせはエスカレートし、命を狙うまでになっていく。
殿下のルートを真っ先にクリアしたのでしばらくはマリア=嫉妬に狂う怖い令嬢というイメージが残った。
しかしゲームを進めていくにつれマリアの悪いイメージは払拭されていく。
殿下ルートをクリアすることによって解放される二つのルートではマリアはヒロインの心強い味方となってくれるのだ。
ゲームのヒロインは国の東にある小さな領主の娘である。
娘といっても妾の子で、入学するまでは平民として暮らしていた。
攻略対象は高位貴族ばかりなので平民として生きてきたヒロインとは身分違いの恋となる。
しかし、平民として育った子は平民なのだ。
貴族として生きるための礼儀作法、処世術、知識が圧倒的に足りない。
そこでヒロインをサポートしてくれたのがマリアだった。
礼儀作法のなっていないヒロインに嫌みを言いつつも助けてくれるマリアに、私は好感を持つようになった。
昨今見かけなくなった懐かしのツンデレ属性。
これを萌えると言わずしてなんという。
どうせならヒロインになってマリアに嫌味を言われたかったし仲良くなってデートしたかった。
現実はなぜこうもうまくいかないものか。
これはたぶん夢だけど。
……いけない、思考があらぬ方向に飛んでいってしまった。
一番の”推し”はもちろん殿下なのだけど、基本的に箱推しする派なのでゲームに出てくるキャラクターはみんな好きでみんな“推し”ともいえる。
今後はヒロインや攻略キャラと関わる機会も多いだろうからボロが出ないように気を付けなければ。
できる限り努力はしていたが、私が完璧なマリアを演じるのが難しいことはこれまでのあれやこれやで痛いほどわかっていた。
彼女と私は違いすぎる。
私は庶民で、図太くて、適当で、大雑把で、思慮深いなんて言葉とは縁のない人間だった。
言葉遣いだって全然違う。
考え方も真逆と言っていいほど違うのだから、長く話せばマリアではないとバレてしまうかもしれない。
殿下との会話はなるべく笑顔で聞き役に徹しているが、いつ疑われてしまうのか気が気ではない。
それに、ゲームのキャラに憑依したからといって漫画や小説のように大活躍、なんてのも出来なさそうだ。
本来の私は電気系のエンジニアで、一応プログラミングなんかも少しはできたりするけれど、PCのないこんな異世界では何の役にも立たない。
もちろん電子機器なんて作り出せない。だってここ、抵抗もコンデンサーもLEDもマイコンもないしそもそも電源とかどこから持ってくればいいのかわからない。
気になったものは何でも手を出す質でこれまで色んなことをやってきたけど、無から何かを生み出せるような知識はないし、調べることを前提で覚えているから多くがあやふやだ。
料理やお菓子作りで味方を増やそうにも、レシピとレンジが無い環境で食べ物なんて作れない。
一人暮らしで自炊してるからって、異世界でも料理ができると思ったら大間違いだ。
私は主人公になれる器じゃなかったんだな。
夢の中くらいは無双したかった。さすがお嬢様、なんて言われてみたかったな。
ああ、虚しい。
憑依したのに何にもできないなんて。
とにかく、マリアの中身が別人だとバレてしまわないように細心の注意を払わなければならない。
貴族らしく振る舞い、身分に見合う言動を心がけなければ。
なんたって私は悪役令嬢だ。
庶民じみた悪役令嬢なんて失笑もの。
心から貴族として振る舞わなければ。
設定や記憶が私を貴族にするわけではない。
貴族たらんとする心が私を貴族にしてくれるのだ。
たぶん。
私はマリア。
公爵令嬢で殿下のことをお慕いしているマリア。
私はマリア。私はマリア。
現実は違うけど、心から信じればそれはきっと現実になる。
だってこれは私のみてる夢だし。
私は深く息を吐きだしてノートを閉じた。