145.夜中の訪問
「お嬢様、ローズ夫人から贈り物が届いております」
「ローズ夫人から……? 今日は祝い事のある日ではないのにどうして……」
お風呂からあがったタイミングでサラから告げられた言葉に首を捻る。
ローズ夫人はマリアがいつもドレスの仕立てを頼むお店のオーナーだ。伯爵家の令嬢だったのだがドレス好きが高じて針子になり、自分の店を持つまでになった。
仕事に生きると言ってずっと独身を貫いていた彼女は昨年シュナイダー男爵の熱烈な求愛に折れて結婚し、シュナイダー男爵夫人となった。
本来ならばシュナイダー男爵夫人と呼ぶべきなのだが、彼女の達ての願いからローズ夫人と呼んでいる。
ちなみにこの『ローズ』は本名ではなく、ペンネームや芸名みたいなものだ。彼女はこの世界ではかなり変わっている女性だといえる。
「新しく作った生地を使った寝間着だそうです。以前お嬢様が『着るものは軽い方がいい』と仰っていたので試してみていただきたい、と……」
採寸のためにローズ夫人を呼んだ時のことを思い出す。
確かに注文する際にそんなことを言ったような気がする。
マリアの身体は非力で体力がないため、重たいドレスは負担にしかならないのだ。
もちろん魔法でどうにでもできるのだけれど、魔法を使うにはそれなりに集中しなければならない。体温調節の魔法と筋力強化の二種類の魔法を同時に使うのは私にはまだ難しかった。
それにこっちの世界に来たばかりの頃に池で溺れたトラウマもある。
布が多く重たいドレスでは泳ぐことも出来ず、どれだけ足掻いても浮上出来ずに沈んでいく絶望感は思い出したくもない。
当時そばに居た侍女も使用人も私が魔法を使えると思っていたから溺れていてものほほんと笑っていた。本当にシャレにならない。
その経験から布の多い重たいドレスが少し苦手なのだ。
「そんなことを覚えてくれていたのね。ローズ夫人にはお返しをしなくちゃ」
「そのことについても言伝を預かっております。『気に入っていただけたのなら新しいドレスの注文とご学友への宣伝をお願いします』とのことです」
思わず苦笑が漏れた。彼女らしい言伝だ。
着ていたバスローブを脱いでローズ夫人からの贈り物である寝間着に袖を通す。
生地は非常に薄く、柔らかくて肌触りがいい。
ふんわりとしていてまるで何も着ていないかのような錯覚に陥る。
「凄い……全く重さを感じないわ」
「お気に召したようですね。この生地でドレスを注文なさいますか?」
「ええ、そうね。デザインは彼女に任せるわ」
そう告げるとサラは『お伝えしておきます』と落ち着いた声で言った。
彼女の声は若い女性としてはかなり低めで安心感を覚える。その特徴的な声に何度も助けられた。
サラは亜麻色の髪に焦茶の瞳の綺麗な顔立ちの女性だ。
彼女の顔を認識できるようになったのは六月に入ったあたりだった。それまでは目の前にいる人物が誰なのかよくわからず、声や口調、服装や髪色で判別するしかなかったから本当に大変だった。
彼女の声が他の人と変わらない声だったなら私はお父様やお兄様に不審がられてしまっていただろう。
ちょうどその頃から顔を認識できる人の数が少しづつ増えはじめ、貴族令嬢として振る舞うことが少しだけ楽になった。
今思い返せばその頃から私の魂がマリアの身体に馴染みはじめたのかもしれない。
六月に他人の顔を認識できるようになって七月末にマリアの想いを知ることができるようになった。
次はどうなるのだろうか。
もしかしたら欠けている記憶を知ることが出来るようになるのかもしれない。そうなればマリアとして過ごすことがより容易になるはずだ。
マリアの記憶も感情も全てを思い出すことが出来たのなら、私はマリアとして過ごせるのだろうか。
…………無理だろうな。
「ではお嬢様、私はそろそろ戻ります。何かありましたらお呼びください」
「いつもありがとう。おやすみなさい」
一人になったところで改めて全身鏡で寝間着姿を確認する。
生地は薄く、一枚だと肌が透けて見えてしまう。胸から腰にかけては複数枚重ねられているが薄らと身体のラインが見えている。
というかパンツ透けてるような透けてないような。白以外の色だったら間違いなくアウトだ。
腕や脚は重ねが少ないうえに長さが膝丈しかないから、この世界ではこれは寝間着というより下着に近いのかもしれない。
日本人である私の感覚でもけっこう際どい寝間着だ。
それでも本来の私は裸族……とまではいかないけれど自室では可能な限り薄着で過ごす派だったからこの寝間着はちょっと嬉しい。寝間着を着ているけれど何も着ていないような感覚。
開放感があって快適だ。
それにデザイン自体はフリフリふわふわでとても可愛い。可愛いがちょっとエッチだ。
初夜のときはきっとこういうエッチで可愛いのを着るんだろうな。
今日ももちろん私の部屋の前には騎士が待機している。室内で異質な音を立てたり叫び声をあげれば、彼は私を守るために部屋に入ってくるだろう。
そうなるとこの透け透けな寝間着姿を見られてしまう。それはちょっと避けたい。
できる限り静かに過ごそう。
ルカが目の前に現れたのはそう決意したその時だった。
「マリア、少しいいか?」
叫びそうになるのを必死で堪える。
いつもルカが来る時は外に音が漏れないよう魔法を使ってくれていると聞いたけれど、それはいつどのタイミングで使ってくれるのかまではわからない。
「な、な、なんでいきなり来るのよ!?」
声を抑えながら抗議する。
何か上に羽織るもの……ガウンはベッドの上に置いてある。それをとるにはルカの横を通り過ぎなければならない。
遠すぎる。
咄嗟に腕で胸元を隠した。
さすがにそこが透けて見えたりはしない……と思うけど、でもこの姿で堂々とできるほど女を捨ててはいない。というかこの微妙に透けてる感じ、下着姿よりよっぽど恥ずかしいんだけど。
「お前……」
ルカは眉間に皺を寄せ小さく舌打ちをしたかと思えば腕をひいて私を抱きしめた。
咄嗟のことに驚いて声を出すことも抵抗することもできなかった。
ルカはそのまま私の首元に顔を埋める。
髪の毛が首に当たって擽ったい。
「ルカ、っ……!」
名前を呼んだのと首筋に痛みが走ったのはほぼ同時だった。
血を飲まれる時の痛みでは無い。ルカは私の首筋に噛み付いているだけのようだった。
生産性のない無駄に痛いだけの行為に戸惑う。
なんでこんなことになってるんだ。
これまで何度も噛まれたことはあったけど、そういうときは大抵私が余計なことを言ってしまったりやってしまったり、あとはルカの前で殿下と仲良くしすぎたときだった。
こんな何の前触れもなく噛まれたことは一度もない。私は何かしてしまったのだろうか。
「痛いから……離して」
出来るだけ落ち着いた声に聞こえるようゆっくりと声を出した。
私が気付かぬうちに余計なことをしてしまったのなら謝らなければならない。
ルカはゆっくりと首筋から口を離した。痛みは和らいだが、それなりに強く噛まれていたらしくジンジンとした痛みが残っている。
いっそ血が出るくらいに噛んでくれれば魔法ですぐに治せたのに。傷のない場所は魔法ではどうにもならない。
「どうしたの? 私が何か変なことしちゃった?」
依然抱きしめられたままの状態だが突き放すことはできない。怒ってないことを示すように優しく問いかけた。
「違う……。ここに居るのは危険だ」
私の部屋なのに何が危険だと言うのか。さっぱりわからなくて尋ねようとしたとき、あの空間移動の時の浮遊感がやってきた。
一瞬の後に目の前の景色が私の部屋から知らない場所へと変わる。
「な、な、何? ここどこ??」
見覚えのない場所だが、ここが室内で高価な調度品の置かれている場所だということだけはわかる。どこかの貴族の屋敷なのだろうか。なんでこんな場所に連れてこられたのか。
あまりにもわけがわからなさすぎて混乱する。
ダメだ、一度落ち着いて考えないと。
まずはここがどこなのかを把握してどうしてここに連れてこられたのかを聞かないと……。
「マリア? どうして君がここに……」
背後から困惑したような声が聞こえた。
人がいる。しかもそれは私のよく知っている相手だ。
慌ててルカの腕の中から抜け出して振り返ると、そこには殿下がいた。そしてその少し後ろにルイス殿下も。
「!???!!?」
「こいつらと一緒に待ってろ。少ししたら戻ってくる」
そんな言葉を残してルカは居なくなってしまった。
「ちょっと待ってよ!! 置いてかないで!」
先程までルカがいた場所に向かって叫ぶが反応は返って来ない。
どこかもわからない場所に置いていかれた。
ううん、二人がいるからきっとここは皇宮内のどこかだ。でも私の知らない場所。
ルカを呼ぶのを諦めて恐る恐る二人の方を見ると目が合った瞬間すぐに逸らされた。
疑問に思った次の瞬間思い出した。私が今どんな格好をしているのかを。
「あっ、これ……ちがっ……」
あまりの恥ずかしさにパニックになり両腕で胸元を隠し、その場にしゃがみ込んだ。
なんで?
なんでこんな状況になってるの??
夢なら早く覚めて!




