97.最高で完璧な一日
市場から帰ってきた後はサラに怪しまれないように宿題をしていたフリをした。
ずっと寝ていたというのはちょっと無理があるだろうと思ったからだ。
なんせ目はぱっちりあいてるし着替えて軽く化粧までしてしまっている。
顔を洗ってまた寝間着に着替えてもいいけれど、そうすると今着てる服を誤魔化すのが面倒だ。
それに夏休みの宿題は早めに終わらせておきたかったから、残りの時間で本当に宿題を進めようと思っていた。
実際はギリギリまで帰らなかったルカとずっと話していて宿題なんてまったくやれなかったけど。
一応昨日の夜にもやっていたからいいけれど、今日の夜に頑張って一人でやれるところは終わらせなければ。
お昼はお父様もお兄様もいないから一人で食べた。
すこし多かったけど、美味しかったし残すのも申し訳ないから頑張って完食した。
最近食べてばかりで少し太ってしまった気がする。
落ち着いたらダイエットしないと。
このまま食べ続けたら丸くなってしまう。
夏休み明けに殿下に会って太ったね、なんて言われてしまったらきっと立ち直れない。
まあ、今日はお兄様とお茶の約束があるから結局甘いもの食べるんだけどね。
ダイエットは明日から。
そして今、私は厨房にいる。
隣には毎日お菓子やケーキを作ってくれているパティシエのハンス。
この世界の仕様なのか、彼もまた整った顔立ちで長身で体格がいい。
パティシエというより騎士になったほうがいいんじゃないかっていうくらい、腕も太いし身体も厚い。
少し離れたところに緊張した面持ちのサラが立っている。
「お嬢様、落ち着いてくださいね。きっとうまくいきますから」
ハンスが声をかけてくれるけど、そんな大層なことをやるわけではない。
苦笑しつつ小さく息を吐いた。
私は目の前に置いてある卵をひとつ手に取り、厨房の作業台にコンコンと打ち付けてヒビを入れる。
できたヒビに親指を当てて殻を両側に開くとボウルの中に殻の中身が落ちる。
黄身は潰れていないし殻も中に入っていない。完璧だ。
「うまくいきましたね!」
「よかったです! お嬢様の努力の成果がでましたね」
ハンスとサラが喜んでくれている。
しかし、私は卵をボウルに割り入れただけだ。それも一つだけ。
「ではこの調子で残りの卵もどうぞ。念の為にこちらのボウルに割入れてください」
満面の笑顔を向けてくれるハンスの指示に従う。
卵を割った後は用意されていたバターと砂糖を混ぜ合わせた。
そこに先程割った卵を溶いたものを数回にわけて入れて混ぜる。
そしてハンスが予め用意していた振るっておいた薄力粉とベーキングパウダーを入れ、ヘラで切るように混ぜ合わせて生地ができた。
型に流し入れ、両端が高くなるように表面をならした。
それを軽く持ち上げ、三度ほど落として空気を抜く。
温めたオーブンにいれ、焼けたらパウンドケーキの完成だ。
美味しくできますように。
オーブンを覗きながら心の中で手を合わせた。
事の発端は二ヶ月ほど前のこと。
身体もしっかりと動かせるようになったために新しいことにチャレンジしたくなったのだ。
本来の私は家事の腕前はからっきし。特に料理は苦手だ。
この先何があるかわからないし、何より料理のスキルは元の世界に戻っても活用出来る。
休日は時間が有り余っていることもあって教えてもらえるようお願いしたのだ。
とりあえず簡単なものから、と料理長に教えられたのがオムレツ。
それくらいなら料理のできない私にもできると意気揚々と卵を割ろうとした。
しかしその段階で躓いてしまったのだ。
ひびを入れるために作業台に卵を軽く打ち付ければそこで卵を潰してしまうし、うまくひびが入っても割入れる段階でどうやっても卵が潰れるし殻も入ってしまう。
何度やってもダメだった。
毎週末何度も練習してようやく卵を割れるようになったのが先週のこと。
殻が入っていない、黄身も潰れていない卵を見てサラは泣いて喜んでくれた。
大袈裟だなとは思ったけれど、正直このまま一生、料理どころか卵すら割れないんじゃないかと思っていたので私も安心してちょっと泣いてしまった。
それでせっかく卵を割れるようになったのだから、簡単なお菓子を作りたい、と思い立って昨晩サラにお願いしたのだ。
まあ作ったといっても材料の準備もオーブンの温度管理もハンスで、私はただ卵を割って材料を混ぜて型に入れただけ。
それでも正真正銘私が作ったお菓子なのだ。
日本にいた時もお菓子なんて作らなかったから生まれて初めて作ったお菓子だ。
「きっとレオナルド様もお喜びになりますよ」
「ふふ、ありがとう」
私が作ったお菓子だと言えばお兄様は褒めてくれるだろう。
それに今日はお願いしたいこともある。
「テーブルに飾る花はもう用意できてるし、あとは着替えてお兄様を待つだけね」
ものすごく楽しみだ。
騙しているという罪悪感はあるけれど、単純にお兄様のことは好きだったから一緒に過ごせるのは嬉しい。
部屋に戻ってお兄様を迎える準備をする。
いつものようにドレスはサラに選んでもらった。
淡いミントグリーンの、レースをふんだんに使ったドレスは華やかでとても素敵だ。
お客様が来るわけでもないしどこかへ出かけるわけでもないからこんな気合いを入れなくてもいいのに。
まあ、少しでもお兄様に褒めてもらいたいからこれはこれでいいか。
ドレスに着替えたら髪の毛をまとめてもらう。
「あっ、お嬢様、この傷跡の部分、少し髪の毛がはえてきてますね。暫くすれば目立たなくなりそうですよ」
「本当!? よかったわ。ずっと気になってたの」
この世界に来たばかりの頃に転んで怪我した場所だ。
傷はヨハンお兄様に治してもらったのだけれど、なくなってしまった髪の毛だけはどうにもならなかった。
医者にも学園の薬学の教授にも、もちろんルカにも相談したけど髪を生やす術は見つからなかったのだ。
何ヶ月経っても生えてこない髪の毛に半ば諦めていたから余計に嬉しい。
禿げがなくなればどんな髪型にもできる。サラに苦労をかけなくてすむ。
嬉しい!
「今日はとてもいい日ね。お兄様が帰ってくるのが楽しみだわ」
午前中はルカと一緒に念願の街へ出かけれたし生まれて初めてお菓子を作った。お兄様のために用意したガーベラの花はとても色が綺麗だったし髪の毛も生えてきた。
あとはお兄様と楽しい時間を過ごして、夜に宿題を片付ければいい。
どう転んでも最高で完璧な一日だ。
準備を終えた私は待ちきれなくて屋敷のホールでお兄様を待つことにした。
もうすぐ三時だ。
ドレスも可愛いし髪の毛も綺麗にまとめてもらえた。
アップにしたからゆらゆら揺れるエメラルドのイヤリングが映えている。
焼きあがったパウンドケーキはしっとりふんわり甘くて、最高の出来栄えだった。
まあ作業の大半をプロのハンスがやってくれたので当然だ。
でもちゃんと私も作ったし、私の手柄でもある。うん。
完璧すぎてついつい頬が緩んでしまう。
カチャリと音が鳴って扉が開いた。
お兄様が帰ってきた!
「お帰りなさい、お兄様!」
嬉しくてすぐさま駆け寄った。
「ただいま、マリア」
「今日はね、ハンスに手伝ってもらってパウンドケーキを焼いたの! とても上手に焼けたのよ。お兄様の好きな紅茶も用意したわ。早くサンルームに行きましょう」
早く見てほしくてお兄様の手をとった。
このまま準備ができているサンルームまで一緒に行こうとしたが、お兄様は何故か後ろを気にしている。
不思議に思ってお兄様の背後を確認した。
そこには人が二人立っていた。
もちろん、私のよく知る二人だ。
「久しぶりだね、マリア。僕達も一緒にいいかな?」
その問いは“はい”か“Yes”で答えなさいってやつですよね。知ってる。
私の目の前にお兄様。
そのお兄様の後ろに殿下とリオン。
三人の視線が私に向けられている。
ちょっと待って、イケメンの圧が凄すぎて耐えられない。
今すぐここから逃げ出したい。




