好かれたい人
私は虫が嫌いだ。
あの虫独特の脚がダメなのだ。
思い出しただけで気持ち悪い。
ついでに海老や蟹の甲殻類も苦手だったりする。
味は好きだけどあの姿を見るともうダメだ。
脚の辺りがもう無理。気持ち悪い。
まあ年頃の女の子なんて虫が苦手な子も多いだろう。
別段珍しくもなんともない。
が、困ったことにマリアはそうではなかったのだ。
薔薇が好きで真夏と真冬以外は外にいる事が多かったからだろうか。
マリアは蝶が特に好きだった。
それだけでなく、夏は蝉を見ていたし秋はトンボを見ていた。
幸いにも捕まえるのは趣味ではなかったようだが、花と共に虫も愛でていたのだ。
そしてたまに手に乗せていた。
その記憶を覗くだけで背筋がゾッとする。
しかしマリアを演じる私はそれに倣わなければならない。
いや、無理です。
虫とか無理。
あれを間近で目にするなんて発狂してしまいそう。
触るのなんてもっと無理。
記憶の中の感触でさえ泣きそうになるくらいなのに、実物を触るなんて絶対に無理だ。
無理無理。
ならどうするか。
全力で誤魔化すしかない。
マリアが未だに虫が平気なことを知っているのは殿下だけだ。
なぜなら私が憑依する少し前に春休みに一緒に蝶を見る約束をしていたからだ。
もちろんその約束は果たした。
私が見ていたのは蝶ではなく殿下のお顔と遠くにある雲だけど。
本当にあれはよく乗り切れたと思う。
蝶だったからまだ脚の部分が目に入りにくかったのもよかった。
あのときはとにかく必死だった。
人間死ぬ気になればわりと何でもできるんだな。グッジョブ、私。
ということで今年の夏が終わるまで殿下にバレなければいい。
ある程度時間が経てばやっぱり虫苦手かもーで押し通せる。いや、押し通してみせる。
のだが、周囲の人間に知られてしまったらどこで殿下に伝わるかわからない。
だから知らせる人間は最低限に、そして知られてしまったら口止めしなければならない。
さらにその人選は慎重にする必要がある。
口が軽い人はダメだし私のお願いを無視する人もダメだ。
真面目で私の事が嫌いではない人物。
そんな人、周囲には沢山いる。
なのに、どうして現実はこうもうまくいかないのか。
「いつもありがとうございます。お礼をしたいので、よければ今度の休みに……」
「結構です。そこまでしていただくようなことはしていませんから」
アレクは私の言葉を遮った。
放課後、教室で待っているのも暇だからと運動も兼ねて東棟までアデルを迎えに行こうとしたのだ。
その道中、私に向かって突進してくる虫を見て声にならない悲鳴をあげたところでアレクが助けてくれた。
それまでは近くにいなかったはずなのに、いつのまにかあらわれて風の魔法で飛んできた虫を遠くに追いやってくれたのだ。
その理想的な対応に私は全力で媚びようとした。
だってこの先もこうやって虫から守って欲しかったから。
ちなみに似たような状況でアデルとリオンは魔法ではなく素手で虫を捕まえてくれた。
この魔法のある世界でどうして素手で虫を触るのか。その虫を触った手で私に触れるつもりなのか。
魔法が使えるのだから魔法を使ってくれ。
と、まあそんな事があったからこそアレクの行動がこの上なく素晴らしく見えた。
というかまさに神。最高。
常にそばにいてほしい。
しかし好感度が爆上がりしたのは私だけでアレクは心底面倒くさそうな顔をしている。
初めて会った時からそうだけど、彼は私の事が嫌いなようだ。
なのに愛称で呼ぶことを要求してきたり用もないのに近くに来たり。
正直彼のことがよくわからない。
それでもアレクは私の虫嫌いを知っている数少ない人の一人だ。
だからこのまま嫌われ続けるのはまずい。
前々からどうにかしなければとは思っていたが、殿下とは学年が違うし特別仲がいいというわけでもなさそうだったからついつい先延ばしにしていたのだ。
しかしこうなった以上早急にアレクに好かれる必要がある。
もちろん恋愛的な意味ではなく、人間的な意味で。
いい人だと思ってもらえればきっと味方になってもらえるだろう。
たぶん。
どうしても無理そうなら恋愛的な好きでもいい。
マリアは美人だしスタイルもいいからうっかり好きになってくれるかもしれない。
実績なら三人ほどある。
仲良くなれなければそっち方面で頑張ろう。
というか最初からそっちを目指した方が早いかな?
美人に言い寄られて靡かない男なんていないよね。
うん。そうしよう。
「そんなことはありません。先程は本当に助かりました。それに、アレクはアデルのお兄様ですからもっと仲良くなりたいのです」
お淑やかで嫋やかで上品な貴族令嬢らしい微笑みを作る。
学園生活を箱入り娘のお嬢様として過ごすために毎日鏡に向かってマリアらしい表情をつくる練習をしているのだ。
もちろん成果はばっちり。
だから今の私の顔は貴族令嬢として満点のはずだ。
中身はあれだけど、外見も身分も申し分ないマリアに仲良くなりたいと言われたら嬉しいよね? ね??
しかしアレクは心底嫌そうな顔をした。
え、なんでそんな反応するの?
「そのような気遣いは無用です。それに俺はそこまでマリア様と親しくしたいわけではありません」
顔を逸らされて冷たく突き放されたけれど、だからといって諦めるわけにはいかない。
というか親しくなりたくないのなら今までの行動はなんなんだ。
「女子三人で過ごしてる中押しかけてきたり愛称で呼べと強要してきたりしたのに仲良くなりたいわけではなかったと?」
いらっとしてしまったからうっかり考えていたことが口から出てしまった。
しかもかなり刺々しい口調で。
ボロが出るのが早すぎる。
他の人の前だともう少し体裁を保てるのに、アレクに対してはついこんな態度をとってしまう。
どうしよう。どうにかフォローしないと。
こんなこと言ってたら好きになってもらうどころじゃない。
後悔しても口から出た言葉をなかったことにはできない。
しかしアレクは気分を害した風でもなく、軽く笑った。
「本当にマリア様は俺のことが嫌いなんですね」
「ちがっ、今のはうっかり口が滑って……」
「口が滑ったってことはそう思ってるってことですよね。俺も最初はマリア様と親しくしたいと思っていたのですが……どうもその気持ちがご迷惑だったようでしたので諦めたのです」
確かに少し前まで思いっきり邪険にしてました。ごめんなさい。
でも最初に突っかかって来たのはアレクの方だ。
とはいえ今はそんなことどうでもいい。
今大事なのはアレクを籠絡することだ。
「迷惑じゃないわ! だからその、仲良くしてほしいのだけど……ダメかしら?」
先程のお淑やかな微笑みがダメだったので次は可愛らしく甘えてみる事にした。
少しだけ近寄って上目遣いでおねだりしてみる。
アレクはそんな私を見下ろして満足そうに笑った。
「駄目です」
今そんな顔してなかったじゃん。
ちょっと嬉しそうな顔してたじゃん!!!
「なっ…………そんな意地悪しなくてもいいじゃないですか」
「そんなふうにあからさまに媚びを売られたら断りたくなるものです」
「それは……ごめんなさい。でもアレクと仲良くしたいのは本当なの。お願いします」
甘えておねだりがダメだったので次はしおらしく謝罪しつつ懇願してみた。
アレクはとても嬉しそうだ。
これはいけるかな。
「嫌です」
「…………」
もうどうやっても無理なんじゃないだろうか。
こうなったら口止めだけして、虫を排除するのはアデルかリオンに……。
いや、ダメだ。
だってあの二人は素手で掴んじゃうから。
仮にそれを伝えたとして、本当に虫を触ってないのか不安になるのは嫌だ。
人間無意識に楽な方を選択してしまうのだ。
虫を触ることをなんとも思わない人は、きっとうっかり触ってしまう。
もちろん疑うのも嫌だから二人が近くにいる時は虫が来ない場所にしか行かない。
リオンがいるときは中央棟から出ないし中庭にも行かない。
アデルがいるときはすぐに屋敷に帰る。
じゃあなぜ今外に出ているかというと、東棟までの道のりで今まで虫に遭遇したことがなかったから油断してたのだ。
確かに道沿いに木は植えられているけれど普通に歩いていて、しかも木からちゃんと離れているのに虫が突撃してくるなんて思わないじゃないか。
だから今回のことは完全に想定外だった。
本当に勘弁してほしい。
ちなみに屋敷で虫に遭遇した時は毎回ルカを呼んでいる。
ルカもアレクと同じく魔法で虫を遠ざけてくれるので本当に助かっている。
身体を使うより魔法を使った方が楽だからそうするらしい。マジで神。
思考があらぬ方向へ行ってしまった。
とにかく虫の排除をお願いしたい人は学園内では今のところアレクだけだ。
だから何としてでも口説き落とさなければ。
「本当に必死ですね。もっと困った顔が見たいところですが……東棟へアデルを迎えに行くのでしょう? 早く行かないと行き違いになってしまいますよ」
要するにもう話したくないから早くどっか行けってことか。
まあこれ以上話したところで好きになってもらうことも約束を取り付けることも出来なさそうだ。
まだ夏までには時間がある。
なんとか梅雨があけるまでにアレクを懐柔して好きになってもらおう。
きっと大丈夫。マリアは美人だから。
私はアレクに礼を言ってまた東棟へ向かって歩き出した。
ついてくる気配はないけど、たぶんちゃんと見守ってくれてる……はず。
次会うときはもっと自然におねだりできるように練習しておこう。
絶対に籠絡してやる。
しかし梅雨があけても私はアレクと仲良くなることはできず、それどころかギスギスした関係のまま一学期を終えてしまった。
それでも一応虫や蜥蜴からは守って貰えてるし目的は達成出来た……のかな。
いやでもアレクがいると必ず虫や蜥蜴が飛び出してくるからむしろ彼は私の疫病神なのかもしれない。
今回の話の補足。
マリアの虫嫌いを正確に把握しているのはアレクとルカとレオナルドの三人。
他の人達はちょっと苦手みたいだなーくらいの認識。
(泣きたいほど嫌っているのは隠したいけれど、秋以降にカミングアウトしたいので苦手意識を持っていることはそんなに隠していない)
フランツは気付いていない。
春休みはそれどころじゃなかったためにマリアが蝶を見ていないことに気付けなかった。
虫や甲殻類を激しく嫌悪していることについては全力で隠しているし、バレるような状況にならないよう気を使っている。
夕食に海老が出てきたら困るので(中身はともかく殻が一緒に出てきたら食べられなくなるから)海老の料理があまり好きではないと言い続けている。
事前にメニューを確認して、海老が出てくる時は仮病を使って海老を回避し続けていた。
ずっと海老を食べてないのでそろそろ食べたいと思っている。




