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1.“推し”が近すぎて愛でられない




 突き飛ばされて這いつくばりながら見上げた彼女の瞳には狂気が宿っていた。


「私の婚約者であると知っていながら彼の隣でのうのうと笑っていられるその無神経さに虫唾が走るわ。心の中で嘲笑っていたのでしょう? 公爵令嬢という肩書き以外何も持たない惨めな女だと」


 銀髪の公爵令嬢は酷薄な笑みを浮かべ、手に持っていた細身の剣を眼前に突きつけた。

 痺れた手足にはまだ感覚が戻らない。

 こんな会場から離れた休憩室にわざわざ訪れる人などいないだろう。

 誰かが助けに来てくれることも自力でどうにか逃げ出すことも不可能に思えた。

 


「私が差し出した飲み物を拒まなかったのは憐れみからかしら? あんな大勢の前で貴女ごときに拒絶されでもしたら……きっと社交界での居場所がなくなってしまいますものね」


 そうではないのだと言いたいのに声が出ない。


「貴女の優しさに感謝いたしますわ。そのおかげで私は今ここで貴女を殺すことができるのですから。……一人で逝くのは寂しいかしら? 殿下は貴女と同じくらいお優しい方ですし貴女のことを心から愛しているようですから、もしかしたら追いかけてきてくださるかもしれませんわね」


 ゆっくりと剣が振り上げられる。

 これまでだ。


 そう覚悟したとき、扉が勢いよく開かれた。


「リリー!」


 あらわれたのは剣を持ったフランツ殿下だった。

 その後ろには何人もの騎士たちが立っている。


「…………東の庭園で会う約束でしたのに……。殿下は私のことを少しも信じてはくれなかったのですね」

「マリア……」

「弁解することは何もありませんわ。そもそも、それが必要なのは殿下の方でしょう? 婚約者がいるのに他の女性と親しくなるなんて……そんなに私が憎かったのでしょうか? 私を貶めることができて満足しましたか?」

「っ……違う、そんなつもりはなかった」


 無理やり立たされて喉元に剣が宛てがわれる。


「どのような理由があったとしても、もうどうでもいいのです」


 背中を強く押された。

 未だに痺れの残る脚は耐えきれずによろめく。


「リリー!」


 それをフランツ殿下が受け止めてくれた。


「さようなら」


 公爵令嬢の持っていた細身の剣が振り下ろされる。

 恐ろしさのあまり目を瞑ってしまった。


 しかし覚悟した痛みが訪れるとこはなく、かわりに剣が床に落ちる甲高い音が部屋に響く。

 彼女の方を見ると、その胸部には剣が刺さっていた。



 フランツ殿下が持っていた剣だ。

 公爵令嬢の口元から血が零れ落ちた。


「っ……お二人……の人生…が、……不幸……見舞われるよう……地獄で……祈っ……おりますわ」


 公爵令嬢は笑っていた。

 その直後、彼女は力尽きてその場に倒れた。




**********






 それは確かフランツルートの終盤のイベントだ。

 二か月ほど前の記憶だが今でもなお鮮やかに思い出せる。

 私が見た最初のエンディングであり、想像とあまりにも違った結末に驚いたからだ。



 私は隣にいる人物に視線を向ける。

 目が合って優しく微笑まれ、思わずにやけそうになるのを必死で堪えた。


「マリア、足元に気をつけてね。前みたいに転ぶと危ないから」


 差し出された手を見つめながら、その原因は主に貴方です、なんてことを思うけれどそんなことは口が裂けても言えない。

 

 彼の名はフランツ・フォン・エルザス。

 エルザス帝国の第二皇子で、公爵令嬢であるマリア・フォン・クラウスの婚約者である。

 そして私がここに来る直前までプレイしていた乙女ゲーム、『華の神子』の攻略対象キャラだ。



 彼は私の“推し”だ。


 そこにいるだけで私を幸せにしてくれる存在、それが”推し”。

 王子様のテンプレを形にしたような“推し”はただただそこにいるだけでも絵になる。

 頭のてっぺんから爪先まで完璧な“理想の王子様”。

 何度もどころか何百回、何千回も見て見慣れているはずの顔を見つめる。

 ああ、今日も美しい。



 正直美しすぎて直視するのが辛い。

 しかし目の前にいるのに顔を逸らすのはあまりにも失礼だ。

 彼の差し出す手を取って微笑みと共に礼の言葉を返す。




 手が触れている。


 “推し”に触るなんて本来ならば言語道断だが、だからといって拒絶するわけにもいかない。

 先日はそのせいでうっかり噴水にダイブしてしまった。


 その結果、三日間寝込むことになったのだが、自分のせいだからと“推し”がずっと看病してくれて私の心が耐えられなくなってしまったのだ。

 目を覚ますと“推し”がいる状況というのは、破壊力が凄すぎて死ねる。


 そしてそんなことがあったせいなのか、私と“推し”である彼との物理的距離は驚くくらいに縮まった。

 二度と私を転ばせないように、という彼の優しさからそうなったのだろうが、この距離は私の表情筋が死ぬ。

 にやけずに我慢している私は偉い。

 誰か褒めて。 


「マリア、寒くないかい?」

「ええ、寒くありませんわ。こんなにいいお天気ですもの」

 

 三月も半ばを過ぎ春の日差しが心地よい。

 もともとクラウス領は温暖な地域ではあるが、今年は特に冬が暖かったために例年より早く春が来たような気がする。

 ドレスの生地も薄くなり少しだけ歩きやすくなった。

 当然心配されたように寒いなんてことはない。

 ぽかぽかとした陽気のお散歩日和だ。



「来週には帝都に来るんだろう? 暖かくなってはきたけど向こうはここより寒いから、ちゃんと暖かい格好をして来るんだよ」


 もともと優しくて気遣いのできる彼が、あの一件からは異常に過保護になってしまっていた。


 いや、過保護なのは最初からだ。

 記憶の中の彼はいつだってマリアを甘やかしていた。

 それはまさに溺愛という言葉がぴったりの、そして、婚約者に対する愛情と言うよりは娘や妹に向ける家族愛のような愛情だった。


「それに君は帝都に来る度に体調を崩していたから、しっかり食事をとって夜更かしもしないようにね。坂や段差も多いから足元もよく見て歩くんだよ」


 彼は私のお父さんか何かだろうか。

 いや、婚約者だったはずだ。

 あまりにも心配しすぎる彼に苦笑が漏れる。


「そこまで心配なさらなくても大丈夫ですわ。私一人で向かうわけではありませんし」

「それでも心配だよ。少し前にも階段から落ちて怪我していたじゃないか」

「それはそうですが……」


 私は気まずさから目を逸らす。


 心配してくれるのはもちろん嬉しい。

 それは大事にされている証拠だ。


 それでも十五歳になった少女に言い聞かせる内容ではない。

 左手の指先で髪の毛を弄る。

 早くこの話題を終わらせたかった。

 

「……言われたことを守って元気な姿で帝都でお会いすることをお約束します」

「うん、絶対だよ?」


 満足気に微笑む“推し”は眩しい。

 眩しすぎて私の存在が浄化されて消えてしまいそうだ。










 私は悪役令嬢、マリア・フォン・クラウスに憑依してしまったごくごく普通の腐女子である。


 目が覚めたらゲームの中にいました、なんて本当に困ってしまう。

 一般人が突然貴族のお嬢様になるなんてどう考えたって無理だ。

 一刻も早くおうちに帰りたい。


 四月になって学校に通うようになればゲーム本編がはじまりヒロインと出会うことになる。

 シナリオ通りに進むのならば悪役令嬢(マリア)は年末には退場する。

 つまり、マリア()が彼の婚約者でいられるのはあと九ヶ月ほど。

 ルートによってはもう少し短い。


 残された時間は多くはない。

 やるべき事は沢山あってのんびりしている余裕なんてもちろんないのだけど。



 人生には楽しみも必要だ。

 それが例えどんな状況であったとしても。



 



 しかしながら私の“推し”は物理的距離が近すぎてとても愛でるどころではない。

 どうしてこうなった。


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