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「ねえねえねえ、中山道へ出るの?東海道って関所が厳しいんだよね」

 行く先も知らないというのにリンは長い栗毛を揺らしながら弾むように歩いていた。


 江戸時代には街道に関所というものがございました。言うまでもなく不審人物を取り締まろうというものでございますが、中でも特に厳しいと評判だったのは東海道の箱根関と新居関(あらいぜき)


 江戸時代の関所は女性に対して特に厳しいということもあり、江戸から上方への交通は遠回りでしかも山道にも関わらず中山道を選ぶ女性は多かったようでございます。


 中山道は東海道よりも古くから整備されていたせいなのか山道のせいか、宿場町と宿場町の間が短めに設定されていて、現代においてもこちらの方が歩きやすいと感じる方もいるようでございます。

 しかし、腕に覚えのある二人が選んだのは中山道ではありませんでした。


「中山道は遠回りだから東海道で行こう。ただ東海道は取締が厳しいから隙きを見せないようにしなきゃ駄目だよ」

 対してナミは、リンには任せられないと気を張っている。

「隙きなんてないから」

 約三年間に渡る穴蔵生活から解放された喜びからか、これから実の母を討つ旅が始まるというのにリンは青い瞳を輝かせる。

「リンは隙だらけだと思うけどな、昨日の夜だって後ろから簡単に触れたし」

 ナミの琥珀色の瞳は対照的に落ち着きを示している。

「あれはナミだってわかってたから」

「じゃあ私に触られるのを待ってたってわけ?」

「そうだよ。助平なナミを落ち着かせようと思って触らせてあげたの」

「なんだよ、それじゃあ私が変態みたいじゃないか。私はリンが簡単に後ろを取られないようにって修行がてらにだな」

「はいはい修行修行。寝ている時に抱きついてくるのも修行だもんね、ナミにとっては」

「そ、そうだよ。私は寝てる時だって修行してるんだ」


「でも箱根はどうするの?関所手形なんてないけど心当たりでもあるの?」

「そうだなぁ、手形もないし破るしかないか」

「関所破り、大丈夫?」


 ナミは簡単に破ると言いますが関所破りというのは(はりつけ)、つまり死罪でありますから大変な重罪でございました。

 ちなみに死罪というと獄門、斬首の後に体は試し斬りに使い首は見せしめにする、いわゆるさらし首が有名でありますが、さらし首よりも一つ上の刑が磔だというのだから、関所破りがいかに大罪か想像できるでしょう。

 それほど関所というのは重要視されておりました。


 この物語と同時代に書かれた帰家日記(きかにっき)には箱根関所での取り調べがいかに苦痛であったかが綴られておりますし、ホームシックからたまらず関所破りをしてしまったばかりに処刑されたお玉という女がおったそうで、その女を憐れみ名付けられたお玉が池は現在も箱根に残っております。


 当時の女性にとって箱根関の通行がいかに大変であったのか様々な記録が残っております。だからと言って関所破りは死罪、もってのほか。


 実際に箱根関を破り処刑された記録はわずかに5件のみ。ただし、これは関所を破ろうとする者がいなかったことを示すものではございません。

 大勢いたようですが、見つけても大事にせず「迷ったのだ」として処理する場合や、関所抜けと呼ばれる袖の下で抜け道を通ることが多かったようでございます。


「敵討ちが叶うまで荒事は出来るだけ避けた方がいいんじゃない?箱根の抜け道、ナミは知らないの?」

「御公儀の命であれば手形もあったからね、関所なんてあってないようなもの。抜け道なんて知らないよ」

「じゃあ破るしかないか」

 随分と物騒なことを話していますが、二人は顔色を一つも変えることもない。

「抜け道がわかったとして旅銀(りょぎん)もないからね。袖の下もなければ相手にされないだろうよ。だからどのみち関所破りしかないんだよ」

「まあ、しょうがないか」


 二人は現在の三重県と愛知県の県境に近い桑名宿(くわなじゅく)から東海道に入る。途中、浜名湖にある新居関は厳しいとつとに有名であるからこれを避け。東海道を一度外れ、本坂通(ほんさがどおし)に入り浜名湖の北側をぐるっと迂回して進んだ。

 本坂通は60キロメートルほどの道程ですが、二人はこれを1日で歩いてしまうほどの健脚。

 当時は男性なら1日に10時間、おおよそ40キロメートルほど歩いたといいますが、二人は15時間歩いた。


 山中にある眉郷から東海道に入り一週間もせずに箱根までたどり着いたが、さすがの二人も関所破りは慎重に行おうと箱根宿で一泊することにした。


「この程度なら飛び越えられそうだな。夜明け前に出立すれば人にも見られないだろう」

 およそ2メートルほどもある柵を前にして、ナミはぴょんぴょんと飛び跳ね赤髪を揺らしながら事もなさげにそう言った。

 一方のリンは柵を飛び越えるなど朝飯前というわけか、まるで興味がないらしい。


「ねえねえ、今日ぐらいは宿に入って体を休めようよ。ナミだって疲れてるでしょ?疲れを溜めたままだといい仕事は出来ない、体を休めるのもお勤めのうちだってお屋形様も昔話してたしさ」

 ナミの腕をつかみ、甘えるように言ってみせた。

「夜明け前に立つんだよ、そんなに早く関所が開く前に宿を出たら怪しまれる。今日は野宿だ」

「今日はって言うけど、毎日野宿してるんだけど。一回も宿に入ってないんだけど」

「わかったって。でも今日は駄目。それに江戸に出れば野宿ってわけにもいかないんだからもうちょっと辛抱して」

 大きな口をへの字に曲げて見せ、リンは不満さを主張するがそれ以上ナミを困らせることは言わなかった。


 野宿のおかげで明ける前、まだ暗いうちに目を覚ますと思った通り、人はまだ出ていない。関所の周辺には警戒が出ているかもしれないが、少し離れれば柵は簡単に乗り越えることが出来た。


 あっけなく箱根を超えた二人でございます。江戸はもうすぐ、二人の足なら三日もあれば品川へ着くことでしょう。


「ねえ、今日くらい宿に泊まらない?明日には江戸に入るしその前に体を休めたい。噂の箱根の湯にも浸からなかったのだから今日くらいいいでしょ」

 箱根を経ってからも一日15時間歩き通しでは、リンの不満が溜まらないはずもありません。

「でも旅銀がね。江戸に入ったらお金もかかるだろうしね、今日も野宿だな」

 しかしながら、ナミは相変わらず頑として宿に入ろうともしない。

「ナミだって疲れてきたでしょ?」

「それは、まあ……、いやまだ疲れてない!」


「じゃあ旅銀があればいいの?旅銀がなくなったら強盗でもして稼げばいいよ」

「強盗か。出来るだけお上から追われる身にはなりたくないから商家に入るわけにもいかない。かといって巾着切り(スリ)も気が進まないね」

「じゃあ盗賊から奪おうよ。盗賊から取ればお上も追ってこないでしょ」

「盗賊は金がないから強盗に入るんだよ」

「じゃあ金を持って逃げている盗賊を見つけて横取りしよう」

「都合よくそんな盗賊がいるもんか。でも、旅銀はどうにかしないとね」


 あと一時、つまり二時間程度で日が暮れようという時でございます。女が話しかけてきた。

「ねえねえ、あんたたち」

 声をかけられ、二人は追われる身であることを思い出す。

「あんたたち箱根の関所を破っただろ?」

 普段から動揺を顔に出さない訓練を積んでいた二人もさすがにこの時はドキッとした。


 箱根の関所を破ったのは昨日の朝。それを見知っているということは、後をつけられていた可能性がある。並の尾行なら気が付かないわけがない二人だ。その二人に気が付かれずに後をつけてきたとなると相当の手練となる。


 恐る恐る声をかけてきた女の顔を見る。


 人のよさそうな細い目に浅黒く焼けた肌は確かに働き者のように見えるが、日陰者のそれではない。体付きも筋肉の付き方もただの町人にしか見えない。悪人特有の凄みというものがまるでない。


「そんな怖い顔しなさんな。私だってそうだよ。箱根の向こうにお世話になった人がいてね、その人のところに江戸の薬なんかを運ぶのに一々関所なんて通ってらんないってわけさ。あいつらときたら平気な顔で着物を剥いて『女には隠す場所がある』とか言って指まで入れてくるんだからたまったもんじゃないよ。あんたたちもそうなんだろ、まだ若い綺麗な体をベタベタと汚い手で触られたくないだろうよ」


 反応を伺おうと二人は黙っていると女は一方的に喋り続ける。


「私なんてしょっちゅうだよ。だからさ、私は一目でわかるようになっちまったんだよ、関所破りだなってのがね。別にお上に売ろうっていうんじゃないから安心しな。今日はどうせ川崎宿までしか行けないだろ?私は知り合いの家に泊めてもらうんだが一緒にこないかい?どうやらその疲れた顔は旅は長いのだろ?旅の話でも聞かせておくれよ。私も知り合いもそういうのが大好きなんだ」


 川崎宿(かわさきじゅく)の先には多摩川がございます。江戸の初期には橋もありましたが大水で何度も流されて貞享(じょうきょう)五年、1688年を最後に橋は再建されなくなりました。

 橋はなくなってしまったので六郷(ろくごう)の渡しから渡し船に乗って渡るのでございますが、それも日没になれば船が出ない。


 暗くなってから歩くこともあった道中でしたが、この女が言うように今日ばかりはそれも出来ず川崎宿で足止めとなります。


「宿代なんていいんだ、旅の話を聞きたいだけさ。一緒に飯でも食って話をしておくれ。旅も長いと色んな事があっただろう、それを聞きたいんだ」

「宿代……」

「ご飯……」


 旅銀に心もとない二人は宿に泊まることもなく野宿ばかりの道中で、さすがに疲れも溜まっている。

 もうすぐ江戸に入る。その前に久しぶりにゆっくりと眠って体を休めたい。一度そんな事を考え出すと話を聞かせるだけでただで泊めてくれるというなら悪くない話に思えてきた。


 泊まりたい、泊めてもらおうとリンがナミに目で促す。ナミはもう一度女の顔を横目でチラと見てもし悪人だとしても小物だろうと値踏みをしてから返事をした。


「それじゃあ、ご厄介になってもよろしいでしょうか」

「もちろんだ、さあ行こう。一里もない、すぐさ」

 そう返事をする少し大袈裟な表情は嘘を隠すためのものかもしれないが、せいぜい小悪党程度にしか見えなかった。誰しもが善人ではない、嘘をつくことはある。

 嘘とも思わずに平気な顔で嘘をつくようになればこれは大悪党だが、そうではなさそうだ。

「ありがとうございます。お世話になります」

 そう言うと二人は大人しくこの女についていった。


 どうやら単におしゃべりが好きらしいこの女、敵討ちの旅だなんて言っては面倒なことになることは明らかだ。予め用意しておいた嘘をつく。


「私達は駿府から江戸に住む叔父を尋ねる道中で」


「なんだ江戸へ戻るんじゃないのかい。だったら関所を通ったってよかったんだよ、江戸へ入る時は面倒なことはないからね。まあ面倒が絶対に起こらないってわけじゃないけどさ。駿府っていうと安倍川もちだね、まあ私みたいな庶民には高嶺の花なんだろうけどね」


「はい。叔父も常々安倍川もちが食べたいと言っているのですが私達には中々口に入るものではありません」


 さして知らない駿府のことを適当に話すと確かに女はそれを喜んで聞いた。やはり、ただの話し好き、世話好きなのかもしれないと探りながら歩いているうちに、女の知り合いだという家に着く。


「さあさあ遠慮せず上がっておくれよ」


 女に案内され知人の家に入ると二人はどこか違和感を覚える。何かがおかしい気がするが、それが何かはわからない。

 もっとも二人は普通の農民や町人として育ってきたわけじゃない。幼い頃より隠密として育てられ普通の農民や町人を知らないだけ、そんな可能性も頭にはあった。ただ、それでも引っ掛かる。


「なにかある」

 リンはわざと衣擦れの音を立て、女には聞こえないよう囁いた。

「ああ、金の匂いがするな。まあ面白そうだ、すこしあいつの芝居に付き合おう」


「すぐ支度するからそこで待っててくれよ」

 どういう仲なのか、この女は知人の家を我がもののように使う。


 30分も待たずに食事を用意すると家主を待つこともなく食べ始めた。

「ご友人様にご挨拶も済ませぬうちによろしいのでしょうか?」

「いいんだよ、そんな気を使わなくても。そんな身分じゃないんだ、ささ食べてくれ」


 農民が見知らぬ旅人を泊めるにしては、やけに晩飯が豪華だ。雑穀混ざりの雑炊じゃなく、炊いた飯が出てくるし、香の物の他に、海が近いからか魚の干物が付いた。

 当時はお伊勢参りの旅客を泊めたり食事を振る舞うことはお伊勢さままで案内したことになる、つまり仏教風に言えば徳を積む行為と考えられていたそうで、こうして泊めたりすることもあったようですが、もちろん二人はお伊勢参りではない。


 金のないはずの農民にしては、この家からは金の匂いがする。どうやって金を手に入れたのか、それはなにかしらの犯罪に違いない。

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