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日光を過ぎていよいよ本格的に奥州道中に入ってから二日目、山中でのことにございます。
「あんた達、坊さんかい?」
声をかけてきたのは初老の男性。旅装も持たない様子は旅人というよりも近くに住む農民かなにかだろう。
「はい。私、江戸は根津の尼寺、亜慈瑠院のムイと申します。今は中尊寺へ参詣へ向かう旅の途中でございます」
足を止めるとムイは顔色変えずに用意しておいた設定をさらりと述べる。
「本当の坊さんかい?」
目立っていたのだろうか。疑われているがそれでもムイは全く落ち着いたものだった。
「ええ、本物の尼僧にございます」
男はじいっとムイを見つめる。
「ああそうか、よかったよ。坊様には見えるんだけどよ、拷問がどうとか話してたもんだからよ、もしかしたら違うのかと思ってよ」
「これはこれは失礼しました。この者たちは道中の荷物持ちをさせております小僧のナミとリンと申しますが、いたずら者でございますので懲らしめようと少し驚かせていたところでございました」
「ああそうか、確かにこっちの小さいのは修行の途中か坊さんには見えないもんな」
二人のやりとりにリンは不満げだが下手に口を出すことはなかった。
「それで何か御用でもございますか?」
「ああ、それなんだけどよ、一つお経を上げてもらえないかと思ってな」
「仏様でございますか」
「ああ、たぶん熊だと思うんだけどよ、殺されちまってよ。この辺には寺なんてないもんだからよ、簡単でいいんだ。どうか頼むよ」
そう言うと男は深々と頭を下げた。
「もちろんでございます。私の般若心経が手向けになるのであれば喜んでお勤めさせていただきます」
「ありがたいありがたい。こっちだ、すぐそこだ。ついてきてくれ」
「まただね」
先導する男についていく。ヒソヒソと話し始めたのはリンだった。ムイは諜報活動をやっていただけあり耳がいいらしい。すぐに反応を示す。
「また、と申しますと?」
「川崎宿の近くでも声をかけられたんだ。その時声をかけてきたのは人拐いだった。今度はなんだろうな」
「私には善良な方とお見受けしましたが、あなた様方はそうではないと?」
「いや、前回もそうだったんだ。人のよさそうなお喋り好きな大年増だと思ったら夜中に縛り上げようとしてきてな、おまけに床下には既に縛られた女がいた」
「その縛られていた女がセン」
「なるほど。殺さず助けたのでございますね。だからあの時に恩を返すとかおっしゃっておられたのですか。その時にちゃんと殺していただければ亜慈瑠院も燃えずに済んだものを」
「坊さんのくせにちゃんと殺せってか、物騒な奴だな」
「お二人様には及びません」
「でも変だよね、あんな人拐いに捕まっちゃうなんてさ。あれだけ強ければ捕まるはずないのに」
「あの時は眉郷をつけていなかったからじゃないか」
「そういえばそうだったね、裸に襦袢だけだったっけ」
「どうやらセン殿はますます鬼らしいではございませんか。ビキニがなければ力を出せないなんて」
「確かにそうだろうな、あいつも鬼なんだろう」
「それにしても旅銀に余裕があると思いましたが、そういう訳だったのでございますね」
「ああ、女を売った金をたっぷり貯めていやがったからね、少しだけな」
「それはそれは。では楽しみではありませんか。あの男がどれだけ貯めているか」
「坊さんが言うことか、それ」
「フフフ、浄財であります」
三白眼のせいかセンはどこまでが本心なのか、ナミにもリンにも見抜くことはできないようであります。
しかしながら、ナミとリンの疑いとムイの期待に反して男はこの土地で善良に暮らす農民でありました。
地道に着実に暮らしているのでございましょう、粗末ながらも案内された家は丁寧な手入れをされていることは明らか。
中へ上がると近所の者たちが狭い室内にぎっしりと集まっていた。そのどれもが死を悲しむ顔をしております。
莚の上の仏には確かに強い力で引っかかれたような傷が一つ、二つ、三つ。かなり強い力で傷つけられたことは間違いない。腹などは原形を留めていない。
ムイはナミに持たせた荷をほどくと香を取り出す。それを仏の横で焚くと般若心経を読み上げた。
流石に尼僧を名乗るだけある。凛として読経する姿にはナミもリンも本物の僧なのだと感心する。
読経を終えると仏に戒名をつけ、それを紙に書いて渡すと大変に喜ばれた。
「ここには熊は多いのでございますか?」
「ああ、多いんだろうよ。秋とか冬に襲われることはあるんだけどよ、まだ春だ。熊だって普通は逃げるんだけどよ。あとは近頃は狼にもだいぶやられているけどよ、あの傷は狼なんかじゃねえよ。恐ろしい傷だよ。そんなもんだからよ、これは山姥にやられたんじゃないかって言う奴もいるんだよ」
「山姥、でございますか」
「ああ、安達ケ原の鬼婆の子孫じゃねえかって言われてるんだけどよ、向こうから逃げてここまで来たんじゃねえかってよ」
安達ケ原の鬼婆といいますのは現在の福島県二本松市に残る、黒塚と呼ばれる平安の頃に現れた鬼の伝説でございます。能の演目としても有名で、能では「安達原」と呼ばれます。
どんな筋かと申しますと、生まれながらに重い病の娘には胎児の肝臓が薬になると易者に言われたことで旅に出て安達ケ原にたどり着く。その地で妊娠した女性を襲ったものの、それが実の娘であった。それを知ると精神に異常をきたし、以来旅人を襲っては食い鬼となってしまう。
「では身重が狙われるのでしょうか?」
「いやあ、それが一度もねえんだ。だけどよ、旅人が襲われてもわからねえからな。でも見たことがあるって奴もいる。長い髪が金色をして着物なんてほとんど着ていないだとよ。俺は見たことないけどよこの辺には住んでいるみたいなんだよ。猿じゃないんだ、ずっと大きいってよ。坊さんたちも気をつけてくれ」
それを聞くと三人の目に力が入る。
「着物を着てない?」
「いや、着てないわけじゃないんだ。擦り切れたんだかよ、上と下に分かれたけったいなのを着ているらしくてよ、木なんて随分と高いところまでひょいっと飛び乗るってよ」
「その山姥は襲ってくるのでございますか?」
「普段は見ても襲ってはこないんだけどよ、時にはこうやって殺されちまうんじゃないかって言われてるんだよ」
三人は目配せをする。
「そうでございますか。香を置いていきますので焚いてあげてください。我々はこれで失礼いたします」
お礼も出来ないものだからせめて一晩泊まってもらえないかと懇願されたが、先を急ぐと三人はそれを丁寧に辞退した。
もちろん先を急ぐがそれは断る理由ではございません。
「山姥ってやつ、鬼じゃないのか?」
金色の髪に着物ではなく裸同然の上下に別れたものを着ている。まさに鬼とビキニの特徴になります。
鬼を探しに陸奥へ向かう三人がそのように考えるのも当然。
「さっきの殺された奴も鬼にやられたのかも。きっと爪が長くてさ、グサーって」
リンは栗毛を揺らし大げさな身振りを交えた。
「その可能性はございましょう」
「でも本当に熊だった時は?」
「尼さんがどうにかしてくれるだろ」
「フフフ、熊が出れば錫杖の音に驚き逃げることでしょう」
「案外便利なものだね、ただの棒か杖だと思ったけど」
「ただの棒ではございません。この音が煩悩を取り除くのでございます」
「鳴らしている本人が煩悩の塊じゃないか」
「だからこそ私はこうして仏の道に入り修業をしているのでございます」
「今度は屁理屈か。坊主ってのは物は言いようだね」
「屁理屈もまた己を問う修練でございます。それより、あなた様方も仏様をご覧になりましたでしょう。熊にしろ山姥にしろ、かなりの難敵と存じます。私ではお二人を守れないこともございましょう」
「守らなくたっていい!」
リンは以前のように、またムイを睨みつけた。
「私たちだって鍛錬は積んできたし長く山で暮らしてきたんだ。熊ならなんとかなる、熊ならな」




