五代目将軍徳川綱吉の時代に生きて死んだ女達の物語
これは五代将軍、徳川綱吉の頃のお話でございます。
徳川綱吉といいますと『生類憐れみの令』が特に有名でございます。後に天下の悪法とまで呼ばれたこの『生類憐れみの令』ですが、現在までにその評価は大きく変化してまいりました。
蚊を叩き殺すだけでお上に捕まり裁かれたなどと言われていましたが、それらの多くは後の創作、今で言えばプロパガンダのようなものだったと考えられております。
しかしながら動物を殺めることで処刑された者が全くいなかったわけではございません。資料にもよりますが二十数名ほどは実際に処刑されたそうでございます。
ではどういった者が処刑されたのかといいますと、それは傾奇者ではないかと考えられております。
傾奇者といいますと色鮮やかな着物を好み武芸だけでなく茶道なども嗜む前田慶次郎が有名ではありますが、反骨精神の強い風流人ばかりではございません。
特に江戸時代に入ってからの傾奇者というのは戦乱の世に憧れる、ただの荒くれ者が多かったようでございます。
そのような傾奇者は犬を喰う。なぜ犬を喰らうのかといいますと戦場で食っていたからに他ありません。
つまり戦場の真似事をすることで、いくら平和な世だと言われても自分たちはいつでも戦えるのだと強がってみせたわけでございます。
そういった荒くれ者どもを処罰し戦国時代の残渣を消し去り真に天下泰平の世を築きたい、そんな風に考え出されたのが『生類憐れみの令』だったのではないか、今ではそんな説もございます。
もちろんこれは一つの説に過ぎませんが、ご存知のように同時代には松尾芭蕉の奥の細道が生まれ、現代に伝わる歌舞伎や落語の基となるものが生まれ、日本史上では初となる町人から生まれた文化、元禄文化が花を咲かせました。
世の中の空気はそれまでの戦乱の世から大きく変わっていく時代であったことは疑いようのない事実。
これは、そんな移り変わる時代の徒花とも呼べる女達の物語になります。
*
そこは木々が鬱蒼と茂る山の中にある隠れ里。隠れ里と言っても集落ではなく斜面に建つ館が一つあるだけ。
木々に囲まれた館の周りには道らしい道は一つもなく、夜になっても灯りは漏れず、炊事の煙があがることもない。
それもこれも、館の住人が人の目に触れないようにするための決まりごとに他なりません。つまり人目を避ける必要のある、言わば日陰者達が住んでいたのでございます。
それも極度の日陰者と言えるでしょう。
日陰者と言っても理由は様々でございます。
まず誰もが真っ先に思い浮かぶのは犯罪者。山の中に住む犯罪者集団となると山賊でしょうか。それとも犯した罪から逃げた者たちが集まったのでしょうか。
次に思い浮かぶのは私などは駆け落ちになるでしょうか。今では『駆け落ち』と書きますが、当時は欠席の欠に落ちると書いて『欠落ち』。
欠席と同じ意味合いの欠けるでございまして、つまりそこにいない者、行方不明者も『欠落ち』と呼んだそうでございます。
重い徴税から逃げたもの、人間関係から逃げたもの、もちろん現代のように恋愛関係から逃げざるを得ない者もいたでしょう。
いずれにせよ、ここにいるのは世間から逃げることを選んだ者たちでございます。
「お屋形様、囲まれたようです」
灯明一つしかない真っ暗な部屋に悠然と座り、その報告を受けたのは歳の頃は四十前後の女。
「ようやく来たか。ここまで随分と時間がかかったな」
ゆっくりとため息を吐くように言った。
「何が来たのですか?」
そう聞いたのはまだ幼さの残る声。
「リンか、何が来たのかと言えば天下泰平の世が来たのだろう。ようやく我らのお役目も終わったということだ。よし、お前たち決められた通りにやれ。生き残れたならばそれでよし、駄目だとしてもそれもまた御公儀の決めたこと」
それを聞くと衣擦れの音も立てずに体温から発せられる僅かな気配だけが蜘蛛の子を散らすように遠ざかっていく。
その館にはいったい何人いたのか、5人なのか10人なのか数十人なのか、常人には全く見当もつきません。
「ナミ、リン、いるな」
「はい、ここに」
その返事の声と同時にボッと火の手が上がり部屋が明るくなる。日陰者を燻り出すため館に火が付けられたのでございます。
しかし内からも外からも悲鳴どころか物音すら聞こえず、ただ壁や柱に燃え移り炎が大きくなるチリチリという音だけが次第に大きくなるだけ。
「ついてこい。眉郷は捨てるぞ」
館を隠すため屋根に敷き詰めた杉の葉に燃え移ると、後はあっという間だ。
杉の葉というのは油分が多いものだから非常に燃えやすく大量の煙が上がる。バチバチ、バチバチと炎の音が一気に大きくなる。
屋根は崩れ柱は倒れ、ものの五分と経たぬうちに炎に包まれた館は跡形もなくなってしまいました。
*
焼き討ちが行われたとは言え、それは日陰者が集まる山奥の隠れ里でのこと。当事者以外にそれを知る者はおりません。
逆に言えば、それを知る者は日陰者の生き残りか火を付けた側。
掃滅、根絶やしを意図したことは明らか。と言うのも、焼き討ちから生き残ったのはわずかに三人。お屋形様と呼ばれた初老の女とそれに着いていったまだ幼い二人だけ。
それ以外は全て、いざという時の隠し通路を出たところで待ち伏せされ殺されていたのでございます。
知られていないはずの隠れ里にある知られていない館。その館にある知られていないはずの隠し通路まで把握されていたというのは、それだけの準備の元に焼き討ちが行われていたということ。
わずか三人と言えども生き残りがいると知られてしまえば追っ手が来ることは必定。
生き残りがいると知られないように、以前よりもさらにさらに注意に注意を重ね、息を潜めること3年余りが経った。
白木蓮が咲く頃、冬眠から覚めた熊のように三人はゆっくりと動き出した。
「眉郷の女に最後の命を下す」
そう言ったのは焼き討ちの日にお屋形様と呼ばれた初老の女だった。それを聞くのは擦り切れた着物を着る二人。
琥珀色の瞳に赤毛のナミと青い瞳と栗毛のリン。リンの方が年若だがリンは胸が大きく育っていた。
「リクを殺せ。あいつが裏切り者だ。裏切り者は殺すのが眉郷の掟。これは御公儀の命に反してでも行ってきたこと。必ず成し遂げよ」
この眉郷というのは焼かれた隠れ里の名前であります。この隠れ里は公儀、つまり江戸幕府から命を受けて活動する、今で言えばスパイのような諜報活動を行う特殊工作機関でした。それも女ばかりの特殊工作機関。
いつの世にも容姿端麗な女性に弱い男はいるものです。女ばかり集めた方が都合のいいことも多くあったのでしょう。
ところで、江戸における特殊工作機関、つまり隠密と呼ばれたのは甲賀忍や御庭番が特に有名でございます。隠密は幕末まで使われ、その後は明治政府にも仕えたと言われております。
しかしながら戦国時代から天下泰平の世になるにつれ隠密の活躍する場は徐々に減っていきます。
仕事もなくなるとその能力を活かして盗賊となるものが現れる始末。
常人には務まらぬ、言わば超人である隠密が盗みを働くのですからたまったものではありません。
凶悪犯罪の増加を受け、かの有名な火付盗賊改方が生まれたのもちょうどこの頃でございます。
火付盗賊改方というのは町奉行よりも強権を持ち、暴力の行使を厭わない今であれば警察よりも軍に近い組織でございます。
それだけ元隠密などによる残忍な犯罪が社会問題となっていたのでしょう。
隠密から盗人にならぬよう、未然に防ごうと幕府が先手を打ったのが眉郷の焼き討ちの目的でありました。
眉郷は諜報に長けた者たちですから、己がいつかは幕府から捨て置かれる身であるとと知ってはいても、御公儀の命に、焼き討ちのその日まで従ってきたというのに、敵を幕府ではなく裏切った身内、内通していたリクとするのは忠義心の現れでしょうか。
「お屋形様、なぜ裏切り者とわかるのです?」
そう言ったのは、三年が経ちようやく幼さが抜けてきたリンの声だ。
「あの館にあった隠し通路は全部で5つだ。その全てを知るのは私の他にいない。他のものは知っていても4つ。しかし我らが抜けた隠し通路を知らない者はリクしかいない。我らだけが生きているということはあの隠し通路だけを知らぬ者が手引をしたことになる」
「それにリクはあの夜に館にいなかったしね」
焼き討ちから逃げおおせたもう一人の女、ナミはリンよりも年上のせいか知ったような口をきく。
「当然それもある。あるが、命により活動していた眉郷の者は奴を除けば全て殺害されたこともわかった」
この隠れ里の生き残りはここにいる三人の他にあと一人、それが裏切り者になるだろうという当然の推察だ。
「もう一つ、予め伝えておこう。リクはお前の実の母だ、リン」
「実の母?」
「実の母っていうのはお腹を痛めて産んだ子の母親ってやつだよ、リンはそんなことも聞いたことないの?」
そのように回りくどい言い方をするのは眉郷では子を設けぬのが当たり前だからでございます。実の母という概念すらどこかで聞いた、まるで遠い国の話のようなものなのです。
相手が実母だろうと実子だろうと殺めなければいけない。時には当然の情を排することも必要となる、そんな過酷な命を受けるのが特殊工作機関であります。
しかし誰にでも出来ることではございません。ならば子を設けることは避けた方がいい。
子を設けても眉郷には親子の情というものがありませんでした。そんな当たり前の情すら捨て去るのは全ては公儀の命を達するためであります。
「相手が実の母というのは任務が難しくなるのでしょうか?」
リンのその顔は、この疑問がただただ純粋なものであることがわかる。
「いいのだ。それを聞いても動じるところがないのであればそれでよい。向こうも命乞いくらいはしてくるだろうが、そんな話は聞かずに構わずに斬れ。いいか、人というのは喋りながらでは斬りにくくなるものだ。どうしても鈍る。だから話をせずに斬るのだ」
「はい、もちろんです」
「それでよし。私は上方へ行く。お前たちはまず江戸に出て手がかりを探すのだ。江戸に出たならしばらくは見物でもするがいい。お前達はまだ世間を知らない。見物でもして江戸の空気に馴れてから聞き込みを行うように」
「それからお前達にこれを渡しておこう」
そう言って風呂敷包みから取り出したのは真新しい小袖と帯、それと「ある獣毛で編んだ腰巻きと胸当て、これを身につけることで体中の感度が上がり身体能力が強化される。つまりは強くなる。着てみろ」
四十女が取り出したのは、ほとんど黒といってもいいほどの濃い茶色の小さな編み物。
世界的には編み物、ニットは旧石器時代に生まれたとされ、歴史は非常に古いのでございますが、日本には羊がほとんどおりませんので江戸の頃になっても編み物の衣類というのは大変に珍しいものでございました。
どこで手に入れたのか、編んで作られたこの小さい下着を身につけると年若い女二人も自然と顔がほころぶ。
現在の基準では隠れているとはいいにく程の、幅にして5センチに満たない原始的な小さな下着でございますが、当時は胸などはしっかりと隠すものではありませんので二人とも気にする様子もない。
「なんか変な感じ、締められて窮屈で」
ナミは気にしていないが、より胸の大きなリンは気になる。
「リンの胸もこれなら揺れないんじゃないか」
「これが眉郷だ。下帯よりも動きやすく作られている」
「眉郷?」
「眉郷というのは里の名前でも組織の名前でもない。この眉郷を使うものが集まって出来たのがあの隠れ里であり集団だ」
「集まったってどういうこと?」
「昔のことだ、百年も前のことなどは私にもわからない。ただ、大権現様(徳川家康)が天下取りのために国中から集めたとだけ聞いている」
「じゃあ昔は隠密じゃなかったんだ」
「昔のことは誰にもわからぬ。ただ今でもこれを眉郷のものだと知るものもいるかもしれぬ。見られぬようにするのだぞ。見られればお前たちを殺そうと追っ手がくるものと思え。そのために焼かれたのだ。そうならぬうちに敵であるリクを斬るのだ。わかったら直ぐに行け」