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第二話

 例えば、手の平に乗るような小さな一粒の薬が、たくさんの人の苦悩を、痛みを、そして差別をも取り除くことが出来るはずだ、と。

「僕、頑張るよ。お母さまのために、みんなのために」

「ええ、頑張りましょう。勿論、私も協力するわ。私の方が情報収集は上手だからね。

 下らない噂なんかでサタナイル家の格を落とすようなことはさせないわ。ロバート、あなたは大人になったらこの家を継ぐ。そして私は」

 立ち上がると、彼女は窓を開けて少し身を乗り出し、空の彼方にそびえる王城を眺めた。

「グレイシア?」

 ロバートは、黙ってしまった姉の傍にそっと近づくと、姉の横顔を覗き込む。そしてその冷たく光る瞳を見て息を呑んだ。

「……ど、どうしたの?」

「ねえ、ロバート。あなたは男だから判らないでしょうけど、この国は女には閉鎖的だわ。女はどんなに有能でも自分の家すら継ぐことが出来ない。男は言うの。女に何が出来るのかって。女は結婚して、黙って男に従っていればいいのだと。……家に閉じ込められるだけの人生なんて、私は嫌よ」

「え? どういうこと?」

「私はあそこに行くわ」

 グレイシアは真っ直ぐに城を指さした。

「そのためにも、サタナイル家の格を落とすわけにはいかないの。私の評判にも関わるのだから。……見ていなさい。女にも出来るということを、いいえ、女だからできるということを証明してみせるわ」

「それって……まさか、お城に入るってこと? 使用人としてってことじゃ……ないよね」

「当たり前よ」

 ふんっとグレイシアは鼻を鳴らす。

「まず、目指すのは側妃よ」

「え! そんなの無理だよ」

「無理なものですか。王族はサタナイル家に借金があるのよ。これからもその額は増えるでしょうね。それが足掛かりになるはずよ」

「それじゃあ、まるで脅しているみたいだ」

「それが何なの? 脅して何が悪いの? 男はみんなやっているわ。そうして上にのし上がって行くのよ」

「ねえ、グレイシアは判っているの? 簡単に側妃になると言うけど、そもそも側妃は国王の花嫁候補だった貴族の令嬢たちなんだよ?」

「そんなことあなたに言われるまでもなく、承知しているわ。国王が未婚の場合、花嫁候補として貴族の令嬢から選りすぐりの数人が選ばれて城に上がる。その中からひとりが選ばれ王妃になったら、選ばれなかった者たちは城を出て実家に戻るか、そのまま城に残るか選択をする。そうして城に残った者たちが『側妃』となるのよ。側妃は王妃が男児を生むことが出来なかった時の、言わば保険よね」

「そうだよ。そして現在、国王さまはその花嫁候補の令嬢の中からおひとりを選ばれて、ご成婚されたばかりだ。

 王妃になられたエメリアさまはお優しい方で、おふたりは仲睦まじいって。今更、グレイシアがその……借金のことを楯にして側妃のひとりになれたとしても、もう出る幕はないと思うよ。王妃にはなれないんだよ?」

「王妃になれなくても、側妃は王の子を産むチャンスがあるわ。もし、男児を産むことが出来たら……その側妃は王妃よりも権力を持つことになる。みんな、それが判っているから、王がご成婚された後でも、我が娘を側妃にと持参金片手に、娘を差し出す親もいるんじゃない」

「そんな言い方、やめてよ……」

「新しく側妃として城に上がる娘もいるってこと。それはちょっとしたからくりを使えば、貴族階級じゃなくてもできるのよ。

 それにエメリアさまはお身体が弱いという噂があるわ。あの方がもし、子供を産む体力がないなら、私にもチャンスはあるということよ」

「で、でも、既に側妃は何十人もいるんだよ? そこに今から入るなんて、僕なら怖くて出来ないよ」

「あら、ロバート。この私に出来ないと思う?」

「そ、それは……」

 堂々と言い切る姉に、ロバートは出しかけた否定的な言葉を呑みこんだ。

 この人ならやれるかもしれない。

 この人なら、僕の姉なら。

 ふと、誇らしい気持ちになった。だが、その反面、不安も心に湧く。

「……あの、グレイシア」

「まだ何かあるの?」

「忘れないで欲しいんだ」

 グレイシアはロバートを不思議そうに見た。

「何を忘れないって?」

「それは……人を救おうという気持ちだよ。グレイシアがどこに行こうと、どうなろうと、僕たちサタナイル家の信条だけは忘れないで欲しいんだ」

「……馬鹿ね」

 不意に微笑むと、グレイシアは弟の頬をそっと指先で撫でた。

「判っているわ。私はずっと私のままよ。私はグレイシア・サタナイルなんだから、それはずっと、変わらない。変わるものですか」



 こつりと一粒の薬が、瓶からこぼれて机の上に落ちた。

 その小さな音にはっと我に返ったコリックス男爵は、その薬を拾い上げようとして手を伸ばしたが、途中でうんざりとした気分になって止めてしまった。

 最近は昔のことに思いを馳せることが多くなった。これではまるで老人ではないか。

 コリックス男爵は自虐的に笑うと、改めて見慣れた部屋を見渡した。

 サタナイル家が所有する製薬工場の、その一角にある彼専用の研究室だ。無機質な部屋だが、壁に掛けられているいくつかの写真が、わずかに穏やかな空気を醸し出していた。


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