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第一話

 時間は少し遡る。

 セドリックたち第一部隊が『黒の樹海』から帰還したその日の夜。意識を取り戻したコリックス男爵は報告のため、城の広間で姉の登場を待っていた。

 どうして私がこんな目に遭わなければならないんだ。

 セドリックに掴まれた腕と、壁に叩きつけられた背中が今更ながらじんじんと痛んだ。

 そして、何より我慢ならないのはあの小娘だ。

 侯爵だ何だと偉そうに言っていたが実情は崩壊寸前の貧乏貴族ではないか。

 あの時の、あの小娘の目を思い出すと、心がざわついく。

 あの目。

 あの透明なまなざしは……本気だった。

 自分の身が滅びても構わない。

 本気でそう思っている目だった。

「くそ!」

 彼女の残像を振り払うように毒づいた後、広間の隅に飾られている植木鉢に気が付いた。

 見たことのない薄紅色の大輪の花は、やはり嗅いだことのない甘い芳香を辺りに漂わせていた。普段ならうっとりとしてしまうような美しさと香りだが、今の彼には神経を逆なでする代物でしかなく、花びらをむしり取ってやろうかと子供じみたことを本気で思う始末だった。

 コリックス男爵はそんな自分に嫌気がさして、つい弱々しい溜息を漏らした。

 がくりと肩を落とし、今まで何度も思ったことを、相も変わらずここでも思った。

 どうして私はこんなところにいるのだろう?

 欲しくもない爵位を押し付けられ、姉の言いなりに動く。これではまるで奴隷ではないか。これまで一心に打ち込んできた新薬の研究もこのような姉の命による雑用に追われて今はまったく進んでいない。挙句、成り上がりと陰口を叩かれ、家族にまで迷惑を掛けている。

 妻によく似て大人しく(しと)やかだった娘のアリアナは、女学校でひどいいじめに遭い、その反動か、今は昔の面影など微塵もない、頭から絵具を被ったような派手でキツイ女になってしまった。しかも姉はそのアリアナさえも利用しようとしている。セドリック殿下を手中に収める魂胆か、()(きみ)の花嫁にと画策しているのだ。

 一体、どこで何が狂ってしまったのだろう。

 苦々しい思いで一杯になり、男爵は顔をしかめた。

 若い頃から薬のことを懸命に学び、研究に打ち込んできたのは爵位を貰って姉の威を借り空威張りするためじゃない。

 身体の怪我を治す薬はあるが、心の怪我に効果的に効く薬はまだない。心を患った人々は狂人扱い、あるいは怠け者と蔑まれ、悲しい末路を辿ってきた。

 その誤解を解き、悲劇を食い止めたかった。

 だから、心の病に効く薬の開発に心血を注いできたというのに……その情熱も、日々の雑用による時間の浪費とそれに伴う心労で少しずつ削られていった。何という皮肉かと苦笑するしかなかった。

 後もう少しだった。

 後少しで、心の病に効く新薬が完成するはずだったのに。

 姉もそれを心待ちにしていたはずだ。大切な人のために……。

 しかし、

 と、コリックス男爵は、眉間を指でさすった。

 その姉の優しさがあだとなったのではないか。

 遠い昔に、何かが狂い始めた。

 それを誰も止められない。

 ……いや。

 コリックス男爵は、はっと顔を上げた。

 あの小生意気なウィルローズの娘。

 ついさっきまで嫌悪していた彼女の透明なまなざしを思い出す。

 もしや、あの娘なら……。

「ロバート」

 名前を呼ばれて、コリックス男爵は慌てて振り返り、いつもながら美しい姉に向き直った。

「姉上……」

「無事なようですね。シアーレン公に乱暴されたと聞きましたが」

「いえ、たいしたことは……それより報告、いえ、謝罪を」

「構いません」

 グレイシア王妃はほのかに笑みを浮かべると、男爵にゆっくりと歩み寄った。

「謝罪には及びません。報告は既に門番たちから受けています。あの野蛮な者たちがお前の手に追えるはずがありませんでした。気にすることはありません」

「……はあ」

「それよりも全員が帰還するとは。正直、驚きました」

「……死んでもいいとお思いでしたか」

「まさか」

 くすくすと王妃は低く笑う。

「樹海に入れば死ぬ確率は高い。その前にシアーレン公を裏切って逃げ出す者ぐらいいるだろうと算段していただけですよ。人の死を望むようなひどいことはしませんよ」

「そう、ですか」

 喉につかえたものを必死に呑みこんで、男爵は続けた。

「門番から第一部隊帰還の報を受けてすぐに私は国境壁に向かいました。そこでご命令通り、彼らが任務を果たしていないこと受けて、国に入れないように」

「ロバート」

「は、はい」

「彼らは任務を本当に果たしていないのかしら」

「はい? ……あの、殿下にはお会いになられたので?」

「いいえ。会う必要などありません。国王に会わせろと息巻いていたようですが、何を言い出すか判らないシアーレン公と、具合の悪い国王陛下を会わせるわけにはいきませんからね。私たちの居住区に、シアーレン公を立ち入れさせないよう従者たちに命じてあります」

「……殿下に会って様子がおかしいと感じられたわけでもないのに、姉上は何故、殿下をお疑いに? 殿下が泉の水を隠し持っているとでも?」


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