第二話
ユーリ・ケントリッジ少尉は、病院を退院した後、自宅待機を命じられ、今は実家に戻っていた。
しばらくは静養するようにと医師に言われたが、しかし身体の調子が回復した今、寝ているのも苦痛で、かといって起きていても何もすることがなく、とにかく暇を持て余していたのだった。
「確かに暇ではあるが、しかし殿下の使い走りとは」
自室の窓から見える庭をぼんやりと眺めながら、ユーリは小さく溜息をついた。
セドリックの従者がケントリッジ家を訪れたのは今日の朝だった。まだ早い時間で、ぼんやりとした顔と頭で応対するユーリに、見覚えのある若い従者は丁寧に頭を下げると一通の封書を差し出した。
「殿下からのお願いごとでございます」
「願いごと? 不吉な」
その言葉に、セドリックとユーリの友情を知っている従者は小さく笑うと、来た時と同様に丁寧に頭を下げ、その場を立ち去って行った。
「……あの方はまったく、我儘なのだから」
「なあに? お兄さま?」
花束を抱えた従妹のリリアンが、ユーリの部屋に笑顔で入ってきた。
「何かお困りごと?」
「何でもないよ」
顔を柔らかく崩すと、ユーリはまだ十五歳の可愛い従妹をみつめた。
「それにしても随分と早かったね」
「学校が終わってすぐに任務を遂行し、駆けつけましたから」
そして、びしっと敬礼をする。
「少尉殿、これでよろしいでしょうか」
彼女がユーリの目の前に大袈裟な手振りを交えて差し出したのは薔薇の花束だった。ピンクとクリーム色の二種類の薔薇が収まるそれは、パステルカラーの薄い紙と艶のあるリボンでラッピングされ、とても可憐に仕上がっていた。
「もっと大人っぽいものが良かった? 可愛い過ぎるかしら?」
首を傾げるリリアンにユーリは微笑む。
「いや、充分だ。悪かったね、突然、変なことを頼んで」
「あら、変なことじゃないわよ、花束を買うのは」
そう言ってリリアンはじっとユーリの目をみつめた。
「お兄さまって、心に決めた方がいらっしゃるの? 花束を差し上げる女性がいるということよね?」
「ああ、違うよ」
慌ててユーリは言った。
「これは頼まれたんだ、ある方に」
「ある方?」
「ああ、買い忘れたから持って来いとさ」
「ま。おかしなこと。プレゼントする花束でしょ? それを人に持って来いなんて」
「何の花がいいのか判らないんだそうだ。適当に見繕ってくれというのだから困ったものだよ。そんなもの、こっちにしても判らないんだから。それでリリアン。おしゃれな君にこうして花束を買って来てもらったというわけなんだ。突然で悪かったが、やはりリリアンに頼んで正解だった」
「そう。少し残念。お兄さまの想い人はどんな方かと楽しみにしていたのに」
「期待させてごめんね」
苦笑しつつ、リリアンから花束を受け取ると、それをまじまじとみつめる。
これはケイティへのプレゼントなのだろう。
殿下のことだ、きっと恥ずかしくて従者にも花束を買って来いとは命令できず、考えた末、私に頼むことにしたのだろう。むっつりとした顔で照れている殿下の様子が頭に浮かぶようだ。
あの方らしい。
ふっと口元に笑みを浮かべて。しかし、すぐに憂鬱な表情になる
今、巷で噂になっている婚約破棄の件が気になるのだ。殿下からの一方的な破棄だったと聞く。
本当だろうか。
ユーリは考え込んでしまう。入院中に見舞いに来たセドリックから婚約破棄の話など一切、出なかったのだ。
殿下にとって、ケイティは特別な存在のはずなのに。
「お兄さま、どうかなさった?」
気が付くと、リリアンが心配そうにユーリの顔を覗き込んでいた。
「お身体はもう本当にいいの? あんな恐ろしい森に入って、大怪我をなさって……本当に大丈夫?」
「ああ、平気だよ」
優しくユーリは言った。
「少しぼんやりしていただけだよ。問題ないよ」
「……本当?」
「そんなに心配? 私がひ弱に見えるのかな?」
「そうじゃないわ。だけどその手は……」
「手?」
「前は手袋なんてしてなかったわ」
ユーリは自分の右手を見た。指の第二関節から先のない黒い革の手袋をしている。
「ああ、これは……怪我をしたせいで少し、ほんの少しだよ、感覚が鈍くなっていてね、そのサポートのために手袋をしているんだ。軽い症状だから心配はいらないよ」
「本当に?」
「ああ、ちゃんと力も入るし、何でも掴める。今まで通りさ」
心配そうなリリアンの目の前で、ユーリは右手を握ったり開いたりしてみせた。
「ね?」
「……うん、本当。大丈夫そうね」
「身体に深刻な症状が出るようなら迷わず軍を退役するよ。部隊のみんなに迷惑をかけることになるからね。まだまだ現役を続けるつもりだから安心して、リリアン」
「判ったわ」
にこりと微笑むと、彼女はそろそろ家に戻らなきゃと手を振って部屋から出て行った。ぱたりと扉が閉まり、ひとりになると、途端にユーリは真剣な表情になって、自分の右手をみつめる。
病院に入院して、すぐに右手の異変に気が付いた。
冷たいのだ。
いくら温めても、右手だけ体温が上がらない。
医者は原因は判らないが恐らく心因性のものだろうと言った。時間が経てば元に戻る、と。しかし、そんなものではないことをユーリは直感で知っていた。
それから数日経ったある日、見舞いで貰った花がしおれてしまったのに気付き、ほんの軽い思いつきで右手を翳してみた。
数秒だった。
さっきまで頭を垂れていた花がすっと顔を上げ、その花弁を柔らかく広げたのは。あせていた色も一瞬で鮮やかによみがえった。
ユーリは目の前で起こった奇跡に呆然とした。じわじわと恐怖すら感じた。
そして、確信した。
この右手には『虹のかかる泉』の力が宿っている、と。
怪我をしてそれを癒すために『虹のかかる泉』を右手に掛けたことが原因なのは明らかだった。
今、このことを知っているのはセドリックだけだ。
見舞いに来てくれた彼に右手の異変を打ち明けると、セドリックは、しばらく黙り込んだ後、怖い顔をして言った。
『このことは誰にも言うな。これがお前にとって幸の力か、厄を呼ぶ力になるかは紙一重だ』
確かに、とユーリも頷く。
正しく使えば、人を幸せにするだろう。だが、悪いものに利用されたら……。
この力はいずれ消えてしまう森の神の一時のいたずらか、それとも生涯続く根の深い呪いなのか。
どちらにせよ、右手がうっかり人や物に触れたりしないよう革の手袋をするようにした。これで、他人も自分も守れるはずだ。
不用意に触れたりしなければ何も起こらない。
そう、触れなければいいのだ。誰のことも。
ユーリは右手をみつめながら、重い息を吐いた。
これから私はこの力を得たことで、どれほどのものを代わりに失うことになるのだろう。
まだ見ぬ未来に、ユーリは目もくらむ思いだった。




