第八話
「彼女は傍にいたご婦人からスザンナと呼ばれていた。それで彼女の名前が判った。ピンクのドレスが良く似合って、まるで薔薇の妖精のようだった」
不意にセドリックがケイトリンの瞳を真っ直ぐにみつめた。
「お前のミドルネームはスザンナだったな? あの時、俺の心を惹いたのは……お前だな?」
スザンナ?
ピンクのドレス?
高鳴っていた胸が、すっと萎んだ。
体温が二、三度、下がったような気がした。
「セドリックさま……それは……」
熱く自分をみつめるセドリックに、喉が詰まって言葉が出ない。
言わなければ。
『それは、私ではありません』と、言わなければ……。
焦る反面、真実を伝えたくないという気持ちが強く彼女を揺さぶった。
あのガーデンパーティでスージーと私はずっと一緒にいた。年齢も体格も髪の色も同じ私たちふたりは、幼い頃は特に、姉妹に間違われるほどよく似ていた。
スージーに惹かれたセドリックさまが、最後に私とスージーを取り違えても……おかしくはない。
「あの夜。パーティでお前とぶつかって、発泡酒を引っかけられた。腹が立ったが、しかしお前の名前を聞いた時、心が甘く揺れた。その時は理由が判らなかったが、思い出したよ、俺はもう随分前からお前に惹かれていたのだな」
柔らかく微笑むセドリックに、ケイトリンの胸は再び高鳴った。
……人違いだということ、このまま、黙っていようか。
私が黙っていれば、誰にも判らないことだわ……。
スージーもきっと私の幸せのためなら許してくれるはず……。
ふっと脳裏に、明るく微笑むスージーの顔が浮かんだ。
いつも自分のことよりも、私のことを気に掛けてくれる優しいスージー。家が没落した時も、スージーだけは態度を変えることなく友達として付き合ってくれた……。
ああ、だめよ!
ケイトリンは羞恥で顔がかっと熱くなった。
私はなんてひどいことを! とんでもない嘘をつくところだったわ!
大切な人たちを騙すなんて絶対にだめ。どんな結末が待っていようと本当のことを伝えなくては。
「……ということだ。判ってくれるか、ケイトリン?」
「あ、あの……セドリックさま」
「うん? ちゃんと聞いていたか、俺の話しを」
「あ、はい。そ、それで、そのことについてなんですが」
「ああ、判っている。お前には申し訳なく……」
「え? 申し訳ない?」
「ああ、お前との婚約はそもそも、お前の気持ちを無視して俺が一方的決め、公表しただけのことだ。その結果、今回の『黒の樹海』への任務のように、お前を危険な目に遭わせ、そしてお前の家族にも迷惑をかけた。二度とこのようなことはあってはならない。だから」
「……だから?」
「お前との婚約を破棄する」
婚約破棄……。
身体から一気に力が抜けた。
……ああ、これは罰だわ。
ケイトリンはぼんやりと目の前にいる愛おしい人をみつめた。
大切な人を騙そうとした。
優しい親友を出し抜こうとした。
ずるいことを一瞬でも考えてしまった私に、神さまが罰をお与えになったのだわ。
「……お前のことは変わらず大切に想っている。だからこそ、婚約を破棄するのだ。お前やお前の家族を守るためだ。判って欲しい。勿論、この度の任務でのお前の活躍は無駄にはしない。ウィルローズ家がこの先立ちいくように充分な報奨金を授与するつもりだ。……おい、聞いているか、ケイトリン。大丈夫か?」
「……あ、はい」
自分の顔を心配そうに覗き込むセドリックに、ケイトリンはぎこちなく笑って答えた。
「セドリックさま、スージーに会ってください」
「……何だと?」
セドリックは怪訝そうに彼女の顔を見返した。
「スージーとは……確か、お前の友人だったな? ユーリが気にしていた」
「はい。ユーリさまには申し訳ないのですが……彼女がセドリックさまの本当の『スザンナ』です」
「それは……どういう意味だ?」
「確かに、犬のバタカップに飛びつかれて転んでパーティを台無しにしたのは私です。でも……あの時、ピンクのドレスを着て薔薇の妖精のようだった女の子は、私ではありません。私は白いドレスを着ていました」
「え、いや……しかし」
「私のミドルネームはスザンナです。でも、私をその名で呼ぶ人はいません。ご存知の通り、私は『ケイトリン』もしくは『ケイティ』と呼ばれています。スージーは親しい友人たちからは『スージー』、家族や周辺の大人たちからは『スザンナ』と呼ばれています。……つまり、あの日、『スザンナ』と呼ばれていた女の子は……私ではなく、スージーなのです」
「待て、ケイトリン……」
「どうか、スージーにお会いになってください。一度、お会いになれば、あなたさまの『スザンナ』が私ではなく、彼女だとすぐにお判りになります」
その後のことをケイトリンはよく覚えていない。
セドリックが何か言っていたが、笑顔を作るのに必死で頭にその言葉は入ってこなかった。
城に帰るセドリックたちを乗せた王家の馬車を見送ると、ケイトリンは屋敷に戻り、留守中に溜まっていた細々とした用事を済ませた。
その間、母親やアレンに何事か話しかけられたが、上の空で答えるばかりで会話にならない。心配そうな家族を置いて、身体の不調を理由に彼女は早々に自分の部屋に引き取った。
崩れるようにベッドに横になった彼女は、ふと、窓を見た。茜色に染まる空をレースのカーテン越しに眺めながら、自分の恋心が少しづつ、だが確実に壊れていく音を静かに聞いていた。
ああ、自分でも気が付かなかった……。
ケイトリンはじっと目を閉じて思った。
私はこんなにも……もう取り返しがつかないくらい、セドリックさまのことを愛していたのだわ……。
胸にこみ上げてくるものを、必死で抑え込むと彼女は枕に顔を埋めた。泣き声を家族に聞かれて心配を掛けたくなかったのだ。
大切な人たちがどうか、幸せになりますように。
ケイトリンは心からそう祈って、そして声を殺して涙を流し続けた。




