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第三話

 最後まで言えなかったのは、一本の矢がセルコの頬をかすめて飛んで行ったからだ。その矢は真っ直ぐに巨大な黒い狼をめざし、その眉間を鋭く射抜いた。狼は低いうめき声と共に、茂みの中に倒れ込む。

 同時に、やった! さすが! と歓喜の声が上がった。が、ただひとり、不平の声を上げた者がいる。

「た、隊長! 俺に当たったらどうするんですか!」

「急に振り向くなよ」

 馬上から構えていた弓を下ろしながら、セドリックは吠えるセルコに苦笑で返した。

「前を向け。このまま、走りぬけるぞ」

「……はい!」

 ふくれっ面のまま、セルコは前を向いた。そうして、狼が倒れ込んだ茂みの前を、次々と部隊の馬が通過していく。

 狼さん……死んでしまったの?

 ケイトリンは通り過ぎる時、茂みの中を覗き込むように見た。似ても似つかない狼だったが、あの灰色狼の青年の仲間なのかと思うと落ち着かなかったのだ。

 ふと、茂みの中で何かが光った。

 え? 何?

 思わず、歩みが緩んだその時、黒い塊が飛び出してきた。

 進路を塞ぐように現れたそれは、倒れたはずの黒い狼だった。邪悪に光る金の瞳でケイトリンを睨むと、ぶるっと体を揺らすことで、眉間に刺さった矢をいとも簡単に振り払った。

 バタカップが怯えて大きくいななき、狼がいる前方に走ることを拒絶して前足を上げて暴れた。

「バタカップ、お願い、走って!」

 必死に手綱を操ったが、怯えきったバタカップは錯乱状態で、ケイトリンに従わない。

 どうしよう……。

 隊のみんなは、ケイトリンの遅れに気付かずにどんどん先に行ってしまう。声を上げようとしても、恐怖に掠れて出てこない。

 セドリックさま……!

「ケイティ! 逃げろ!」

 後方から声がした。

 それがユーリだと気付いた時、飛びかかってきた狼にケイトリンは激しく突き飛ばされていた。バタカップから落ちた彼女は、そのまま草地に倒れ込む。

 ケイトリンは慌てて体を起こそうとしたが、その体にのしかかってきた狼に力強く地面に押し付けられ身動き出来ない。至近距離で見る狼の顔は邪悪に歪み、恐ろしく、低く唸るその声には憎悪が滲んでいた。

『小娘』

 と、低い声がした。

 それが狼の発したものだと理解するのに、ケイトリンは数秒かかった。

『愚弟の後始末に来た』

 愚弟?

 一瞬の間の後、やっとケイトリンは喋ることが出来た。

「……あ、あなたは、あの、灰色狼さんのお兄さん?」

『残念だがそうだ。我ら兄弟の中で、一番不出来な弟だ』

 大きな口元が歪んだ。

 笑ったらしい。

 ケイトリンはぞっとして、体中に鳥肌が立った。

『愚弟はお前に恋慕したようだな。そして、お前の仲間たちを森に通し、あろうことか神聖なる森の神に会わせた。我ら森狼は森の番人だ。それを疎かにするとは……』

「も、森の神は、自ら私たちに会うと仰ったのです。あなたの弟さんは何も……」

『我が弟をたぶらかした小娘よ。お前は、お前だけはこの森から出さん。この牙と爪で切り裂いて、瀕死のお前を愚弟にくれてやる。あいつがどんな顔をするか楽しみだ』

「そんな……」

『お前たちは水を盗んだ。大罪だ。死をもって償え』

「ち、違います! 盗んだのではありません! 泉の水は森の神からお許しを……!」

『黙れ!』

 狼が、かっと牙を剥いた。ケイトリンは思わず目を瞑り、顔を背ける。やがてやってくる痛みを覚悟した時、空気を切り裂く鋭い音が、倒れた彼女の耳元を掠めた。それとほぼ同時に、狼の絶叫が辺りに響き、ケイトリンを押さえつけていた重みも消えた。

 はっと目を開け、体を起こしたケイトリンの視界に入ったのは、首元から鮮血を流し、うずくまる狼の姿だった。

「ケイティ! 大丈夫か!」

 こちらに走り込んでくる人の足音に、ケイトリンは慌てて顔を向けた。

「ユ、ユーリさま……!」

「怪我はないか?」

 傍にやって来たユーリの胸に、気が抜けたようにケイトリンは倒れ込んだ。

「無事のようだね」

「ご、ごめんなさい。私……」

「謝ることはない。ちょっと、待っていて」

 ケイトリンからそっと離れると、ユーリは用心深く黒い狼に近づき、その様子をうかがいつつ、傍らの木の根元に刺さっている斧を片手で引き抜いた。

「それ……それを投げて狼を……」

「ああ。アンの言う通りに斧を持ってきておいて正解だったよ」

 強張った笑顔でユーリは言うと、足元の狼を改めて見下ろした。


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