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第六話

 ケイトリンの前で足を止めたセドリックは、しかし、視線は去って行くアンの背中に向いていた。

 慌てて立ち上がろうとするケイトリンに、セドリックは片手を上げてそれを止めると、先ほどまでアンが座っていた場所にゆったりと腰を下ろした。

「あ、あの、私もすぐに準備を」

 おろおろしているケイトリンに、セドリックは呟くように言った。

「バタカップ」

「……え?」

「どうしてそんな名前を馬につけた?」

「……り、理由は特にありません。ふと思いつきまして」

「思いつき、か」

「あの?」

「昔、母が飼っていた犬の名前と同じでな、少し気になった」

「まあ、そうなんですか」

 言ったすぐ後で、何かが引っかかった。

 犬の名前?

 不意に、自分の足元にじゃれついてくる大きなもふもふした犬が脳裏に浮かんだ。

 子供の頃、確か、バタカップという名前の犬と遊んだような……だけど、エメリアさまの飼い犬が私の足元にじゃれつくなんてことありえないわ。

「具合はどうだ? もう()てるか?」

 セドリックの声で、ケイトリンの思考は中断された。顔を上げると慌てて頷く。

「だ、大丈夫です。あ、あの、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。私、みなさんの足を引っ張ってばかりで……」

「そんなことはない」

 ぼそりと言った後、セドリックは困ったような顔をして続けた。

「あの灰色の狼のことだが」

「え? はい?」

「お前の言う通り、殺さなくて良かった」

「……あの、セドリックさま?」

 何を言われるのかと身構えていたケイトリンは、思わず体から力を抜いて問い返した。

「何かあったのでしょうか?」

「後でセルコに言われた。怪我をした狼の血痕を辿って行けば『虹のかかる泉』に、闇雲に北を目指すよりも早く辿りつけるかもしれないと。……お前が正しかった。だから」

 セドリックはゆっくりと立ち上がると言った。

「謝らなくていい」

「……は、はい」

「アンに貰った剣は持っているか?」

「あ、はい。鞄の中に入れています」

「不測の事態に備えて身に着けていろ。何があるか判らないからな」

「わ、判りました」

「これからは常に俺の視界の中にいるように。勝手にどこかへ行くことは許さない。いいな?」

「は、はい!」

 思わず立ち上がると声を張ってケイトリンは返事をした。それを一瞥すると、セドリックもアンと同様に繋いである馬の方へと歩いて行った。



 離れて行くセドリックの背中をしばらく見送った後、ケイトリンは気が抜けて、へなへなとその場に座り込んでしまった。

 セドリックが近くに来るだけで緊張してしまう。アンはもっと甘えるべきと言うが、とても無理だ。これだけは永遠に慣れることはないようにケイトリンには思えた。

 喉がカラカラに乾いていることに気が付いて、ぬるくなってしまったマグカップの中身を一気に飲み干す。途端にミントの香りがすっと鼻に抜け、それは寝起きの頭を明晰にした。はちみつの甘さはとろりと舌に優しく、心と身体に潤いを与える。

 これは……魔法の飲み物だわ。アンってやっぱりすごい。

 ほうと息をつくと、ケイトリンはよしっと心の中で声を掛け、今度こそ立ち上がった。手際よく寝袋を片付けると、鞄を引き寄せる。そしてそのポケットからアンに貰った短剣を取り出した。少し考えてからベルトに挟み込むことにした。

 短剣が視界に入るのは怖い気がするが、白衣のポケットに入れておくよりこの方が何かあった時、素早く対応できるだろう。

 ケイトリンは鞄を肩に掛けるとみんなの元へと歩き出した。



 セドリックは肩越しに振り返って、ケイトリンが出発の準備を始めているのを確認し、密かに安堵の息をついた。

 ケイトリンにあんな恐ろしい思いをさせてしまったのは自分の責任だ。どうすれば、彼女を傷つけることなくこの馬鹿げた任務を終えることができるだろうか。

 ケイトリンにはあえて言わなかったが、自分たちの行く先を手負いの狼が仲間を呼んで待ち伏せしている可能性は大いにある。森の中を進めば進むだけ危険の度合いは上がっていくのだ。

 いくら考えても彼女を守る術はみつけられず、苛立ちばかりが募った。

「あら、隊長」

 自分の馬の手綱を引きながら、アンがセドリックに微笑みかけた。

「ケイティとのお話しは終わりましたか? 随分、早かったようですが」

「まあな。お前は話し込んでいたな」

「ええ」

 意味ありげにアンは言う。

「内容は教えませんよ。女同士の秘密のお話しですからね」

「そうか」

 微かに笑って、セドリックは自分の馬を目で探した。

「そろそろ出発するぞ。馬の状態は大丈夫だな?」

「はい。お馬さんは元気ですよ」

「……お馬さん。その言い方はどうにかならんのか」

「あら、可愛いじゃありませんか」

「そういう問題ではなく」

「殿下」

 背後からユーリの声がした。

 何だ、と振り向くといきなり目の前に黒馬の顔が突き出された。思わず仰け反るセドリックに、とどめを刺すようにユーリが言った。

「はい、殿下のお馬さんですよ」

「お馬さんはやめろ! お馬さんは!」

 周囲にいた部隊全員が笑い声を上げた。途端に空気がふわりと柔らかくなる。

「お前たちはまったく……」

 頭を抱えながらも苦笑するセドリックに、ユーリが囁くように言った。

「これがケイトリン言葉の魔力ですよ」


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