第五話
目が覚めたケイトリンは、重い頭と体をゆっくりと起こすと辺りを見回した。そしてあっと声を上げそうになる。
すっかり明るくなった森の中を、出発の準備にみんなが忙しく立ち働いていたのだ。
大変! 寝過ごしてしまったわ。
慌てて起き出そうとするケイトリンの肩を優しく叩いたのはアンだった。
「おはよう、ケイティ」
「ああ、アン! 私ったら寝過ごして……」
「いいの。まだ大丈夫だから。何か食べる? ドライフルーツなんてどう?」
「あ。いいえ……」
「でしょうね。あんなことがあった後だもの、食欲が無いのは仕方ないわ。だけどせめてこれを飲んで。何か入れないと体がもたないわ」
アンはマグカップを差し出す。マグカップからは甘い香りが湯気と共に立ち上っていた。はちみつが入ったハーブティだ。
ケイトリンはそれを両手で丁寧に受け取ったが、落ち着かず、おろおろと周囲を見回している。
「あの、アン、私も出発準備のお手伝いを……」
「いいのよ。それより、よく眠っているようだったから安心したわ。悪夢は見なかった?」
「え、悪夢……?」
ケイトリンは困ったようにアンを見返した。そして、小さく息をつくと力なくつぶやく。
「よく判らないの。ただの暗闇だったから」
「暗闇?」
こくりと頷くと、ケイトリンは怯えるように言った。
「眠れないと思っていたのだけど、目を閉じた途端に、暗闇の中に引き込まれて行ったわ。眠る、というより、気を失う感じだった。まるで誰かに足を取られて奈落の底に引き込まれていくみたいな。眠っていたけど、眠った感じがしないの。こういうのも悪夢というのかしら……」
「そうね」
アンは手振りでお茶を飲むように促すと、足を伸ばして座り直した。
「私も時々、そんな悪夢を見るわ」
「え?」
カップから唇を離すと、ケイトリンは驚いてアンをみつめる。
「アンも悪夢を見るの?」
「ええ。真っ黒な奴をね。……知ってる? 悪夢って色があるのよ。憎悪なら赤。孤独なら青。黄色は嫉妬かしらね。そして、黒は……破壊。壊されて何もなくなった闇の色ね」
壊されて?
すっと背筋が寒くなった。
ケイトリンは思わずアンの腕を縋るように掴んだ。
「アン、それって……まさか、あなたも」
「……私の場合は未遂ではなかったのよ。軍に入ってすぐのこと。憧れている先輩がいてね、その先輩に……」
悲しげにアンは微笑んだ。
「彼は言ったわ。『俺のこと、好きなんだろ。じゃあ、いいじゃないか』……本当に男って馬鹿よね。女の体と心はそんなに単純なものじゃないわ。
私は、男になんか負けない自信があった。だけど、あの時は情けないことに、恐怖で体がすくんでまったく動けなかったのよ……。
肉体だけでなく心までぼろぼろに壊されて、息をするのも辛い毎日だった。
そんな時にいつも見るのが真っ黒な悪夢。誰かに足を引っ張られ奈落の底に堕ちていく夢。誰が足を引っ張っているのかと見てみれば、それはにやけた笑いを顔に張り付けた先輩だった。私はいつも、悲鳴を上げて目を覚ましたわ。
そんな悪夢を毎日見て、その上、職場に行けば、本物の先輩と顔を合わせなくてはならない。もう耐えられなくて軍を辞めようと思った時、私の前に現れたのが例の元婚約者の彼だったの」
小さく息を吐くと、アンは続けた。
「彼は先輩から話しを聞いたらしいわ。いわゆる酒の席での自慢話ね。あの女をモノにしてやったぞって奴。
元婚約者の彼は、前から私の様子がおかしいことに気がついていたみたい。本当に同意の上でのことなのかって尋ねられて、私、恥ずかしくて悔しくて、つい泣いてしまったの。その時、元婚約者の彼は何も言わなかったけど、でも」
「……どうしたの?」
不意にくすくすと笑い出したアンに、控え目にケイトリンが尋ねると、彼女は楽しい思い出を語るかのように明るく言った。
「その後、先輩が突然、軍を辞めたの。顔に大きな痣を作ってね」
「え? それって……」
「元婚約者の彼が、先輩をブッ飛ばしたのよ。それから、お前がやらかした恥ずべき行為を上官に報告されたくなければ二度とアンの前に顔を出すな。そう言って脅したらしいわ。報告されれば軍法会議に掛けられる。下手をすれば刑務所行よ。先輩は尻尾を巻いて逃げ出したってわけ。……それですべてが帳消しになるわけじゃないけど、でも、それから真っ黒な悪夢は見なくなったわ。そして、その元婚約者の彼との付き合いが始まったってわけ」
ケイトリンは、それを聞いて良かったとほっと安堵の息をついたが、しかしすぐに思い直した。そうだ、これはあくまで『元』婚約者、の話しだった。
どう反応していいか判らず困惑しているケイトリンの様子を、アンは優しい眼差しでみつめると言った。
「すべてがめでたしめでたしで終われば良かったけど、ご存知の通り、私は結局、その元婚約者の彼にも振られてしまったから、残念な結果になってしまったんだけど。そんな顔、しなくていいよ、ケイティ」
「……だけど」
「そんなこんなで見なくなっていた真っ黒な悪夢を、今も時々……本当に時々よ。見てしまうの。暗闇の中をどこまでも堕ちて行く夢。
こんな夢を見るのは、きっと自己嫌悪のせいね。先輩のことも、元婚約者に振られたことも、すべて自分が悪い、自分に落ち度があったからこうなったんだって……どこかでそう思って自分を責めてるの。
判っているのよ。自分を責めるなんて愚かなことだって。でも、どうしようもなくて。
いくら自分を責めたって失ったものはもう、戻ってこないのにね」
ケイトリンはアンの腕を強く握った。
彼女もまた自己嫌悪で潰れてしまいそうな心を抱えていたのだ。
「アン、私も同じよ。役に立たない自分が悔しくて……みなさんを支えるために、従軍看護師として同行しているのに、自分の迂闊さで怪我をして、迷惑をかけて」
「そう思ってしまうのよね」
アンは大きく溜息をついた。
「あなたは被害者で、ちっとも悪くないのに。……役に立たないなんて誰が言ったの? 言ってないでしょ?」
「そうだけど、でもセドリックさまは……私を邪魔だと思っていらっしゃるわ……」
「どうしてそう思うの? 隊長と話した?」
「いいえ。そんな時間は無かったわ」
「そうね。じゃあ、時間を作ってあげる」
すっと立ち上がると。アンはケイトリンを見下ろして言った。
「噂をすれば、よ」
「え?」
顔を上げると、向こうからこちらにやってくるセドリックの姿が見えた。慌てて寝起きの髪に手をやり、なんとか整えようとするケイトリンの様子にアンは好意的に笑うと言った。
「あなたは私と違って傍にいてくれる人がいる。それはあなたが思うよりずっと貴重で幸運なことよ。……私の元婚約者は、結局、自分より弱い存在が好きだったのよ。傷ついた小鳥をそっと手の平に包む込む、そんな力関係を愛していたのね。だけど、私はいつまでも彼の手の平の中に収まってはいなかった。彼はもう私を愛せなくなったのね。
ねえ、ケイティ。隊長はそんな人じゃないわ。自然体のあなたを愛してくれる人よ」
「そんな……私は愛されてなんていないわ」
「判っていないのはあなただけね」
くすりと笑って、アンは続けた。
「あなたは隊長を信じて、もっと甘えるべきよ。心にあることを隊長にすっかり話すのね。そうすれば、悪夢なんて見なくなるわ。あなたに真っ黒な悪夢なんて似合わないわよ」
「アン、待って」
去って行こうとするアンに慌ててケイトリンは言った。
「あの、ありがとう。私のために辛い話しをしてくれて」
「いいのよ。過去のことだし。それに」
「それに?」
「多分、私もあなたに話したかったのだと思う。私の方こそ、聞いてくれてありがとう。少し心が楽になった気がするわ」
アンは軽く片手を上げると馬が繋いである方へと歩いて行った。




