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第四話

 ふたりが戻ると、炎が揺れる焚火のまわりに全員が集まってた。ケイトリンの憔悴した姿に、アンが慌てて駆け寄ってくる。

「一体、どうしたの。目が覚めたらあなたと隊長がいないから慌てたわ。みんなを起こしてこれから捜索に行こうかと相談していたところよ」 

「ごめんなさい」

 そして 暗い森を見渡して、

「まだ、夜なのね……」

 と、ぼんやりとケイトリンは呟いた。

 アンは首を(かし)げてケイトリンを見た後、とにかく彼女を焚火の傍に座らせた。そして、セドリックに視線を移す。

「隊長、ケイティに何があったんですか?」

「……狼に襲われたんだ」

「狼って……どういうことですか?」

「俺もよく判らん。悲鳴が聞こえて弓を持って駆けつけて見れば、この娘が」

 と、セドリックはケイトリンを冷たく一瞥する。

「暗がりの中で何か大きなものに体を押さえつけられていた。その様子は異常だった。そいつは欲情しているように見えて、俺は迷わず矢を放った」

「それが、狼だったのですか?」

「ああ、最初は人かと思ったが、近づいてみて確認した。大きな灰色の狼だった」

「その狼、仕留めましたか?」

 そう聞いたのはセルコだった。彼の深刻そうな顔にセドリックは少し眉を上げて答えた。

「いや、逃げられた」

「そうですか。では、手負いの狼ということですね……」

「何だ? 何が言いたい?」

 セルコは返事をしかけて、ふと口をつぐんだ。アンに肩を抱かれて呆然と座り込んでいるケイトリンの存在を気にしているのだ。

「ドジ娘」

 不意にセドリックが呼びかけた。

「何があったか詳しく報告をしろ」

「……え?」

「お前は民間人ではあるが我が部隊の従軍看護師だ。上官である俺に報告する義務がある。どうして森の奥にひとりで入ったりしたんだ?」

「あ、あの、隊長。ケイティはまだ」

 アンが庇おうとするのをひと睨みで黙らすと、セドリックは言葉を重ねた。

「報告しろ。命令だ」

「……はい」

 涙がこぼれそうになるのを懸命にこらえて、ケイトリンは話し始めた。朝だと思って起きたこと、セドリックに誘われて森の奥に入ってしまったこと、そして、そのセドリックが偽物で、妻になれと迫られ、拒絶すると力づくで襲われそうになったこと……。

 ケイトリンが何とか話し終わると、しばらくの間、沈黙が流れた。それを破ったのは、ニールのおどおどとした頼りない声だった。

「……襲われたって、そういう意味なの? 僕はてっきり食べられそうになったのかと」

「狼が人間の女に妻になれと迫るとはどういうことだ?」

 トムもそう言って腕を組んだ。そして自然と視線がセルコに集まる。彼なら答えを知っているとみんなが期待しているのだ。

「……そいつは森狼だな」

 ぼそりとセルコが呟いた。

「森狼は森の番人だ。森に入ってすぐ何かに見張られている気配を感じていたが、それがその狼だったんだろう。こんな森の浅い入り口部分を見張っている狼ならきっと群れの中でも下っ端の若い狼だ」

「えっと、それで?」

「ニール、お前、火の番なのに何で寝ていたんだ」

 不意に矛先が自分に向いて、ニールはぎくりと肩を震わせた。

「あ、ええっと、それは……ケイティも言ってたけど、僕も、朝だと思っていたんだ。もう夜が明けたと思うと気が抜けて、そうしたら抗いがたい眠気に襲われて……」

「どうして朝だと思ったんだ? まだこんなに暗いのに」

 トムが憮然として言った。

「だいたいお前が寝てしまって火を絶やしたことがケイティを危険に晒したんだぞ、そこ判っているんだろうな?」

「判っているよ。だけど、僕は本当に明るい朝の日差しの中にいたんだ。小鳥のさえずりだって聞こえていた。もう大丈夫だと思って……」

「つまりそれは」

 セルコが強い口調で割って入った。

「そんな下っ端の狼ですら人を惑わす力があるということだ」

「力って?」

「図書館には、少数だが、かつてこの森に迷い込み、無事に出てくることが出来た生存者たちの証言の記録もあった。彼らが言うには森狼は、人の心に入り込み、幻覚を見せる能力があるということだ。ニールもケイティもそれにやられたんだろう」

「その狼の幻覚によって、夜を朝だと思い込まされたってことね? ケイティが狼を隊長だと思い込んだことも、ニールが眠ってしまったことも狼の力のせいなのね?」

「おそらく」

 アンに頷くとセルコは言った。

「ケイティに近づくには火が邪魔だったんだよ。火の番をしているニールを眠らせる必要があった。狼は火を怖がる」

「それじゃあ……妻になれ、というのは?」

「そうだな……関係があるかどうかは判らないんだが、ひとつ気になる伝説というものがある。あくまで伝説だが……」

「何なの?」

「その昔、眠りにつく前のこの森の主には妻がいたというんだ。それが人間の女性だったらしい」

「……え? それって狼と関係あるのかしら?」

「だから、関係があるのかどうかは判らない。それより」

 彼はアンの傍らで項垂れているケイトリンを心配そうに見た。

「まだ夜が明けるまで時間がある。少し彼女を休ませてあげては? いいですよね、隊長」

「そうだな。アン、手当もしてやってくれ。足をすりむいているようだ。今朝の出発は少し遅らせる」

「あ、はい」

 セドリックに目配せされて、アンは慌てて立ち上がった。

「それじゃあ、ケイティ、寝袋のところに戻りましょう。足の怪我の手当てが終わったら少し眠って。目が覚めた時はきっと気分も落ち着いているわ」

「ええ、判ったわ……」

 小さく溜息をついて、アンに支えられながらケイトリンは立ち上がった。そっとセドリックたちの方を見ると、彼らは焚火を囲んで円陣に座り、男たちだけで戦略会議を始めたようだった。

 彼女は自分の胸元に手を当てた。

 ずきずきと疼くのは、怪我をした足ではなく心の方だった。

 私は看護師なのに怪我をして、みなさんの足手まといになっている……。

 どうしてこの森に来てしまったんだろう?

 セドリックさまは来なくていいと仰ってくれたのに、私はどこかで意地になって……いいえ、違う。意地じゃなくて、ただの我儘だわ。

 私はセドリックさまのお傍にいたかっただけ……。

 狼に襲われた恐怖と役に立っていないという自己嫌悪でケイトリンは今にも潰れてしまいそうだった。



「で、セルコ。さっき、何を言いかけた?」

 意図的に声を落としてセドリックは言った。

「手負いの狼がどうしたんだ?」

「さっきも言いましたが、森狼は森の番人です。そいつを逃がしたのなら、他の狼たちや森に巣食う化け物どもに俺たちの存在は報告され、すっかり知られてしまっていると考えた方がいいと思います。……と言っても、知られるのは時間の問題。それでもなるべく遅らせたかったのですが」

「また襲われるか」

「ケイティだけを狙うことはないでしょう。俺たち全員を狙って、狼は群れをなし怪我をした仲間の復讐に怒りをたぎらせてやってくることでしょう。覚悟とそれを迎え撃つ準備が必要です」

「判った。準備をしよう。全員、警戒を怠るな」

「ですが」

 緊張が走る中、セルコはのんびりと言葉を付け足した。

「悪いことばかりでもありません」

「どういうことだ?」

「その手負いの狼に逃げられたことがある意味、吉と出るかもしれない、ということです」

「お前、何を言っている?」

「怪我を負った狼が向かう場所はどこだと思いますか? まさか病院に駆け込んだりはしないでしょう?」

 セドリックは、はっとして、改めてセルコの顔を見た。

「『虹のかかる泉』か」

「ご明察」

 ぱちりと指を鳴らすと、セルコは笑った。

「その狼の逃げた方角は覚えていますか」

「ああ、判る」

「今までは泉のある方角を、生存者の証言を元に北と推測して馬を進めていましたが、狼の痕跡を追う方が泉にたどり着く可能性は高いかもしれません。後ほど探索しましょう。きっと血痕が落ちています。それを道しるべに追って行けば、あるいは」

 男たちは顔を突き合わせると、お互いを見て深く頷き合った。


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