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第一話

 母親の顔を思い出そうとすると、記憶の中に一緒になだれ込んでくるのは禍々しい赤色だ。それから鼻につく濃厚な血の匂い……。


 ふと顔を上げるとベッドの上に横たわっている母親の姿が目に入った。彼女の白い寝間着は(あけ)に染まり、見開いた目は虚ろに沈み、微かに開いた唇に言葉は無かった。

 お母さま?

 請うように腕を伸ばした途端、首筋に痛みが走った。思わず手をやると、ぬらりとした液体が首から胸に向かって這うように流れている。見下ろすと、着ている上衣が血にまみれていた。

 何が起こっているのか理解が出来ず混乱して、その場にうずくまりそうになった時、誰かが自分を呼ぶ声がした。

 掠れたその声には聞き覚えがあったが、咄嗟に誰だか思い出せない。

 セドリック……

 もう一度、呼びかけられて、そちらに顔を向ける。先ず見えたのは青白い手だ。そして、その手にしっかりと握られている剣。その刃は血に濡れて不吉に光っていた。

 誰?

 恐る恐るその人物を見上げる。

 薄暗い部屋の中で、上半身は闇の色に包まれていた。

 見たくない。

 見えなくていい。

 そう心から思ったが、半開きの窓から不意に風が吹き込んで、カーテンが大きく揺れた。その隙間から日の光が差し、まるで告発するかのようにその人物の顔を明るく照らし出した。

 はっと息を呑む。

 青白く歪んだその顔は……!



 あっと小さく声を上げて、セドリックは目を覚ました。額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、半身を起こし周囲を見渡す。

 彼は今、圧倒的な闇の中にいた。

 顔を上げると鬱蒼と茂る木々の影が見える。星空は見えなかった。

 また、あの夢か。

 しばらく見ていなかったから、油断していた。

 まるで卑怯な不意打ちを食らったかのように気分が悪い。

「隊長? どうかしましたか」

 心配そうに声を掛けてきたのは、火の番をしているトムだった。腰を浮かせてこちらに来ようとするのを、セドリックは片手を上げて止めた。

「何でもない。気にするな」

 トムは軽く頷くと、また腰を落ち着かせ、目の前の焚火に目を戻した。


 黒の樹海に入ってから、二日が過ぎていた。

 周囲に何か得体の知れない気配を感じることはあっても、今のところ何のトラブルも起こってはいない。それもそのはず、今第一部隊がいるのは、この広大な森の入口部分に過ぎないのだから。何か起こるとすればこれからだ。

 セドリックは顔を向けて、ケイトリンとアンのふたりが仲良く寝袋を並べて眠っている姿を見る。

 意外に度胸があるなとセドリックはケイトリンのことを密かに見直していた。森に入ってすぐの頃は、風に葉がざわめくたびにびくびくと落ち着かない様子だったが、しばらくすると森の雰囲気に慣れたのか、鼻先を大きな羽虫が飛び交っても平然としていた。そして何よりも驚いたのは彼女の乗馬技術だ。

 舗装などされていない森の道なき道を馬に乗って進んでいくのだが、彼女は上手く馬をあしらい、どんな荒れた道も、急な傾斜もやすやすと乗りこなしていた。

 乗馬大会で優勝したと豪語していただけのことはある。

 しかし、と、セドリックは頭を抱える。

 乗馬の技量は認めるが、軍馬に名前を付けたり、『お馬さん』と形容するのだけは勘弁して欲しい……。

「眠れませんか、殿下」

 不意に傍らから声がして、寝袋からこちらを見て笑っているユーリと目が合った。

「意外に繊細」

「お前こそ」

 ふっと心が和らいで、つられるようにセドリックも笑った。

「夢見が悪くてな、目が覚めてしまったんだ」

「夢? 例の悪夢ですか?」

「ああ」

「最近は見なくなったと」

「そうだったんだが、この森の空気のせいかもしれない。久しぶりに見たよ」

「そうですね」

 ユーリも半身を起こし、セドリックに向き合うと言った。

「ケイティの存在があなたの悪夢を追い払ってくれていると思っていたのですが、さすが黒の樹海、あなたの悪夢を呼び寄せたのかもしれませんね」

「あの娘の存在がなんだと?」

 不機嫌そうに聞き返すセドリックにユーリは微笑む。

「ケイティに出会ってから悪夢を見なくなったのでしょう?」

「それはそうだが」

 セドリックは眠っているケイトリンに目をやった。

「あの娘の存在と悪夢は関係ない。夢を見なかったのはただ単に、身辺が慌ただしく夢を見る暇が無かっただけのことだ」

「確かに慌ただしかったですね、ケイティが我々の前に登場してから」

「お前、何が言いたい?」

「いえ、たいしたことは。ただ、殿下にはケイティが必要なのではないかと思っただけです」

「ああ?」

「彼女の存在は貴重ですよ。彼女がいてくれたから、部隊の空気も陰鬱にならずに済みました」

「まあ、そこは認めるが」

 セドリックは渋々と頷き、黒の樹海に出発する日の朝を思い起こしていた。本来なら緊張で昂っているはずの部隊の空気が、まるでこれからピクニックにでも行くような楽しさに満ちていた。それはのんびり天然なケイトリンの存在があればこそだったろう。

「確かにあの娘の天然ぶりは侮れないな。……軍馬に名前を付けるのはどうかと思うが」

「あのお馬さんの名前はバタカップだそうですよ」

「……ユーリ、『お馬さん』はやめてくれ」

「そうですか? 部隊の中で今、流行っているんですよ、ケイトリン言葉が」

「またおかしな遊びを始めたな。懲りない奴らだ。ほどほどにしておけよ、任務中だということを忘れるな」

「はい、心得ております。それにしても……バタカップとは変わった名前ですよね。どういう意味でしょう?」

「あれは花の名前だ」

「おや、よくご存知で」

 ユーリが少し意地悪く、セドリックの顔を覗きこんだ。

「お馬さんのお話しを彼女とされましたか?」

「してない」

 むっつりとセドリックは言った。

「バタカップという名の花があるのは前から知っていた。昔、母が飼っていた犬の名前も同じだったからな」

「それは奇遇ですね。エメリアさまの飼い犬とケイティのお馬さんの名前が同じとは。何か縁があるのでは?」

「何の縁だか。その話はもういい。早く寝ろ」

「はい。それではおやすみなさい」

 ユーリは軽く頭を下げると、するりと寝袋の中に潜り込み、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。

 ……まったく、何なんだ。

 確かにユーリの言う通り、あの娘の存在が部隊内の雰囲気を良くしてくれていることは認めるが……だが、しかしそれはそれだけのことだ。

 セドリックも寝袋の中に体を潜り込ませると、眠れないながらも目を閉じた。


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