第二話
城から黒の樹海への新しい任務の命令書が正式に国境警備隊が詰める基地に届くと、第一部隊の休暇は取り消しになり、隊員たちはすぐさま基地に集められることとなった。
ユーリ・ケントリッジ少尉は、その招集に応じて、基地の殺風景な廊下を陰鬱な気持ちを抱えながら歩いていた。
無事に帰還した祝いの酒がまだ抜けないうちに、無茶振りとも言える次の任務を言い渡されたことが彼を陰鬱にさせる最大の理由だったが、しかしそれに追い打ちをかけるのは自分自身が置かれている特異な立ち位置だった。
スパイ
と、セドリックは笑いながらユーリをからかう。
しかし、それは的を射ている。
セドリックだけではない。第一部隊に所属する全員が、ユーリがこの厄介な部隊の監視役だということに気が付いているだろう。
この第一部隊に配属されてくる者はみんな、任務で重大なミスを犯すか、上官の機嫌を損ねるなどして疎まれて、ここに落とされてきた。そんな軍人の掃き溜めと陰口を叩かれる第一部隊に、非の打ちどころのない優秀な軍人であるユーリが配属されたのだ。その人事の裏に何かあると考えるのは当然のことだろう。
そして、現にユーリは王妃の命により、第一部隊を、特にセドリックを監視するために配属された、まさにスパイだったのだ。
この見え透いた人事に、ユーリは第一部隊の中で冷遇されることを覚悟していた。が、しかし、着任してみると隊長であるセドリックを含めて、全員があっさりとユーリを副長として受け入れてくれたのだ。特に歓待するわけでもなかったが、冷たい態度を取る者はなく、無視も嫌がらせも何もない。つまり、ごく普通に受け入れられたのだ。
身構えていたユーリは、肩透かしをくった形になり、唖然としてしまった。
もしや、何か企んでいるのでは?
そんなことを長らく悶々と考えた挙句、ついに我慢できなくなったユーリは、ある日、とうとうセドリックに詰め寄った。
「何故、みんな、私をこんなに簡単に仲間として受け入れるのですか?」
隊長の質素な執務室に入るなり、ユーリはそう言うと、じっとセドリックの緑の瞳をみつめた。
「あなたたちも気付いているはずです。私が副長などというのは飾りに過ぎず、この部隊を監視している、いわばスパイだということを。なのに」
「お前、直球だなあ」
呆れたように笑うと、セドリックは言った。
「で、どっちの命令だ?」
「え? はい?」
「国王か王妃か、どっちだ?」
「……そ、それは言えません」
「ここまで言っておいてか? お前、自分がスパイだと今、自分の口で言ったんだぞ」
「あ……」
「まあいい。そんな顔をするな。お前の察すると通り、とっくにみんな気が付いていることだからな。どうせ、国王の命だろうよ」
「国王さまのご命令なのかは判りかねます。私は城に呼び出され、王妃……」
あっと口を閉じたが遅かった。セドリックは意地悪くユーリを見ると言った。
「王妃と謁見したか。そこで王妃が直々にお前に命じたというわけだな。大した女だ。徹底して俺を潰したいようだ」
「……殿下」
諦めたように溜息をつくと、ユーリは言った。
「まだ、私の質問に答えておられません」
「質問? ああ、何故、王妃の回し者であるお前を、それと判っておきながら受け入れるのかってことか」
「はい」
「理由はないよ」
さらりと言われて、ユーリはがくりと肩を落とした。
「どういうことです?」
「お前も知っての通り、ここは軍人の掃き溜めだ。そこに今更、スパイが来ようが、殺し屋が来ようが、化け物が来ようが大差ない。監視したいなら監視しろ。殺したいなら殺してみろ。ここにいたいならここにいろ。出て行きたいならいつでも出て行け。つまり、好きにしろということだ」
「しかし、私の立場はいかにも異質で」
「だから何だ。気にくわない新人が入ってきたからと言ってのんびり新人苛めなどをする余裕のある奴など、ここにはひとりもいない」
「投げやりに聞こえます……」
「投げやり大いに結構じゃないか。だいたい、お前は真面目すぎる。この部隊の何が気に入らないって?」
「……はっきりとしないこの状況が気持ち悪いだけです。私のことが判っているのに、みんな、まるで気にしていない……何か企んでいるのではと、落ち着きません」
「お前、出世したいだろう?」
「は?」
「だから周囲のことばかり気になるんだ。人の顔色を伺い、あれこれと疑って、その結果、自分が何をしたいのか、何をすべきなのか判らなくなる。そのうち、息すら出来なくなるぞ。誰が何を思っているかなんてどうせ判りはしないのだ。なら、ハナから気にすることはない」
にっと笑うとセドリックは言った。
「好きにふるまえ」
その一言でユーリの心は痺れた。
王妃のご命令だ。監視の任務は続ける。これは実家の命運もかかっている重要な事柄だからだ。だがしかし。
この方の……セドリック殿下のお傍で永く仕えたい。
それも本心から思うことだった。
しかし、ユーリは、第一部隊の副長と王妃から命じられた監視役という自分に課せられた二つの立場の間で幼い迷子のように不安になることがあった。
それは自分をみつめる時の王妃の氷の瞳を思い出すからだ。今更ながらすっと背筋が冷える。
もしセドリックをかばって王妃を騙す、あるいは裏切るようなことをすれば、彼女は躊躇なくユーリとその親族に残酷な仕打ちをするだろう。
黒の樹海への任務が正式に決まる数時間前に、ユーリは密かに王妃から城に来るようにと呼び出しを受けていた。




